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「写真」について考えてみる 001

「写真」の鑑賞力 

1 「わかる写真」と「わからない写真」

 「わかる」という言葉は、漢字では「分かる」、「解る」、「判る」と書きます。私たちが写真を見る「鑑賞」の上で「わかる写真」とは、どの「わかる」なのでしょうか。結論からいえば、やはり「解る」なのでしょう。「理解」や「解釈」につながるからです。あるいは「判る」ですと、何かと何かを区別、判別していく場合に使われそうですから、これも「鑑賞」につながりそうです。
 それでは「わからない写真」ときますとどうでしょう。「理解不能、判別不可な写真」、挙げ句の果てに「ナニが言いたいのかわからん!」と匙を投げてしまうという状況も想像させます。「わからない写真」よりも「わかる写真」を見たいという「防御本能」のようなものがはじめにあるからです。まずはここを取り払うことが必要です。

 「写真」を見る時に「そこに何が写っているのか」という具体的な情報や記号や状態などを知ろうとする意識は大事ですが、それらがもし直感的に読み取れないものであった場合、即決でよく「分からない」ものとしてしまい、同時に受け入れを拒否してしまうということが起きますと、そこから当然「鑑賞する」という立場は消え失せていきます。絵画ですと「抽象画」に対して、写真でも、若い写真家がとらえた特別な出来事もない日常的な風景などに対して、そう思わせます。
 分からないからと拒否してしまうのでなく、とりあえず「作品」として自分の中に一端受け入れてみること。その上でなぜ、どのように分からないのかを考えてみることをお勧めします。そこになにかしらの具体的なポイントがあります。そこを丁寧に見つめることが「鑑賞力」の第一歩。

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 簡単な見本写真。この3枚は渋谷の路上で撮った写真だが、組写真ではない。上は何かの催し、踊りの行進の最中であることが直接「分かる」。中は駅前の交差点。しかし、なにをやっているのか、どんな状態なのかは「分かりにくい」。しかし、解ろうとすると、彼らは何かのパフォーマンスグループで、突発的な「行為」をしているだろうと想像できる。下ははただ陸橋の壁を撮っただけかと。それだけで受け入れない人も多いだろう。まずは受け入れて「見て」ほしい。作者の私は何に着眼したのか?

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フォトコン2018年12月号『写真を上達させる「鑑賞力」の鍛え方』  より

古くから様々な読者に支持されてきた「アサヒカメラ」も2020年休刊となり、カメラ(機材)はともかくとして、写真にまつわる話を書ける媒体が少なくなっています。写真は面白いですし、いいものです。撮る側として、あるいは見る側にもまわり、写真を考えていきたいと思っています。