見出し画像

母が入院したという記憶が薄れてきた頃

人間はどんなに強いストレスを感じたとしても時が経てば記憶を無くしていく、というプロセスを経て平和に暮らしていくのでしょうね。

母と会う

母が2回目の医療保護入院をし、退院してから早いもので半年以上が経過した。
今はすっかりおとなしい年相応のシニアの暮らしをしている。
躁転した時には、早朝から目覚め、家の片付けや様々なアイデアに思いを巡らせ、自分は万能でなんでもこなすスーパーウーマンとなっていたのだが、今は朝も父が起こすまで起きてこない、話し方はゆっくり、薄化粧で普段着も至って地味な姿に戻っている。

そんな母に買い物でも一緒に行かないかと誘ってみた。暇だから行く、とのことで早速、車で迎えに行って近くの大型スーパーへ。躁転してハイテンションの時は、高級なものしか興味がないのだが、今はすっかり元通り。無駄なものは買わない主義に戻り、買い物はあっという間に終わった。このまま別れるのも味気ない気がしたので、お菓子屋さんでスイーツを買い、私の家でお茶をしようということに。


母の要望を聞く

「私を二度とあの病院に入院させないでほしい」

母に言われて困る私。もちろん気持ちはわかる。誰だって自分はおかしくないと思っていることをおかしいと言われて入院なんてしたくない。主治医の先生もこの病気は病識を持てる人が本当に少ないと仰っていたので、母がそんなことを言い出すのも想定内ではある。

さて、なんと答えようか。
私は懸命に言葉を探して、しどろもどろになりながら、母と対峙する。母は作り話も平気でするので、まともに聞いていると頭が混乱してくるのだが、冷静に考えればまだ次があるとも限らない未来の話だし、主治医の先生に相談した時のアドバイスに従い、父と母の調整役に努めるべく、母の話を聞いていた。主治医の先生いわく、この病気は年齢とともに躁転しなくなっていく、要はそういう元気がなくなっていく、ということだ。母は現在70代前半である。父と二人暮らしなのだが、躁転して別人のような言動を繰り返す母に父が疲れ果て、2回目の入院は父の独断で医療保護入院となった。要するに、父が耐えれれば入院を回避できるのである。


父と話す

母はすっかりその日は長居して、父からの電話でいそいそと帰っていった。
その後、用事で実家に寄った際に父と二人だけのタイミングがあったので、母の要望「二度と入院させないでほしい」を伝えてみた。
父の返事は、きっぱりしていた。


「躁転したらもう一緒にいるのは無理。落ち着くまで入院してもらうのが一番。」

父は理系のあまり融通が効かないタイプなのである。ま、急に昨日の今日で朝も起こさないと起きてこない人が、早朝に元気に起床、終始喋りまくり、濃いメイクに派手な服装、高圧的な態度で接してくるのだから動揺するな、という方が難しい。それに私は同居ではないので目撃していないが、二人きりの時は過去の話を持ち出して、どれだけ父や父の親族が酷いかということを延々とこき下ろし、自分は素晴らしい家柄の出身だとまくし立てる始末。

ただ、2回目の入院で父がはっきりと決めているのは、強い薬は飲ませたくない、ということと次もし入院になった場合は最初から広い個室に入れるように話をつけてきているから、そこは母も安心ではないか、とのこと。

同居しているのは父なので、私もそれ以上の意見は言わずに帰宅した。
まだ起こってもいないことなので、そんなに不安がる必要もないのだから。


躁鬱病って本当に厄介

母の病名ははっきりしていない。私たち素人からすれば本やネットで見る限り「双極性障害」の症状にピッタリだと家族全員一致して思っているのだが、精神科の先生はあまりはっきりと断言されない。今回は躁状態、としか診断されなかった。なんせ鬱っぽい母の姿を見たことがないから、無責任に言えないのだろう。母の場合は鬱がそこまでひどくなく躁がとても顕著に出るタイプ。今回会った時に、躁状態の時、どんな気分だった?って聞くととても気分が良かった、と答えていた。私たちがお酒を飲んでハイになる、と似た感じなのだろうか?私からすれば人格が交代しているようにも見えている。仕草や表情がおとなしい時の母と別人に見えるから。


母のプチ家出

母と会ってからしばらくして、私のスマホに父から電話がかかってきた。

父「お母さん、あなたの所に来てない?」

私「え、来てないよ。連絡もないし。というか、どういうこと?」


父「いや、ちょっと朝から喧嘩になって、そしたら不意に家をでていってしまったんよ。」

喧嘩の原因は些細な事で、というか娘に言うには恥ずかしいだろ、という内容だったので、父に「私はそれ聞いてないことにするね」と告げて母に電話をかけてみた。母はすぐに電話にでて、近くの珈琲屋さんにいた。父に腹が立って、家を出たけどちゃんと帰るから、という事だった。しばらく母からも喧嘩の経緯を聞くことになり、談笑して電話を切った。その後、実家に寄って二人の様子を見に行ったが、なんだか解決しているようだった。昔から家出常習犯だった母。今はパワーのない時期なので、大ごとにならずに済んで本当に良かった。


まとめ

今は静かな時期なので、この状態がなるべく長く続くように家族としては、見守っていこうと思う。母が理解できずに一番喧嘩していた頃、私は14歳、母は44歳。現在、私は44歳、母は74歳。あれから30年、私の娘が14歳になった。自分が親と沢山の葛藤があったから、子供たちには子供時代を子供らしく過ごしてもらいたい。最近、読んだブログの著者の方が、親は子供の人生の脇役、と書かれてあって、その言葉がとても心に深く突き刺さった。本当にそう、私は名脇役を演じて生涯を全うしていきたい。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?