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猿でも出来る作曲Life Act.3

が、曲を作る上でやはり楽器が使えないことは
最終的に最大のネックとなった。

当時の私たちの力量では
スタジオでジャムセッションしながら
曲を作る、なんて出来るわけもない。

アコギの弾き語りならまだしも
バンド的なサウンドを作るのであれば

例えギター中心のサウンドであっても
最初はシンセサイザーで打ち込みをして

ひとつひとつ音を重ねながら作成して
それをスタジオで音合わせする必要がある。

その作業が出来る人間がいなければ
いくらステージでは映えていようとも

私などは羽をもがれた鳥も同然。


幸い、大学時代はシンセの知識に卓越した
S氏なるコンポーザーがいてくれたので
それが何とか形となって実行出来たが

その大半は私の好みとはかけ離れた
ポップな音作りだった。

私が好む音は
例えどれだけキャッチーな曲であろうとも
ギターがザクザク鳴り響くようなサウンド

何度も大喧嘩をしながら結局折れるのは
音作りをしていない私の方で
その不満や葛藤を抱えつつ活動を続けた。

将来は例え仕事をしながらでも
音楽活動をやっていきたい、

あわよくば音楽を生業にしていければ…

音楽を続ける楽しみがある以上、夢も無限大に広がる

大学時代前半はこうして仲間と音を出しながら
とても有意義な時間を共有できたわけだが

転機は突然訪れた。

大学3年の頃から父親がうつ病になり
治療薬を過剰摂取した影響で

歩くことはおろか会話も呂律が回らなくなり
話すことすら出来なくなってしまった。

音楽を続けながら関西か関東に就職したい、
そんな夢は脆くも崩れ去っていった。

メンバーと袂を分かち地元企業に就職した私は
いつしか音楽から離れ

言い方は悪いが、その辺の人たちと同じように休日には仲間とカラオケに行く程度の
"ありきたりの音楽人"に成り下がった。

音楽をやっていることだけが
自分のプライドを保つ唯一の手段だったのに
それすら手離してしまった。


数年後には普通に結婚をして父親になった、
もうあの頃の夢なんて忘れかけていた

大学卒業から10年後の2003年の冬、
私に最初の転機が訪れた。

それは大学時代、共に活動していたバンド仲間当時のメインコンポーザー、

S氏から届いた一通のメール。

ー やっぱり音楽を辞められなくて
今も細々と作曲をやっている

表舞台に出たい思いはあっても
性格的になかなか行動に移せない…

よかったらまた、一緒にやらないか?

オレには思うように作詞が出来ない
オレの作る曲とお前の書く歌詞で

またあの頃みたいにやってみたいんだ。

あとオレはコミュニケーションが苦手で
マーケティングが思うように出来ない、

オレはあの頃からお前の売り込みの上手さに
かなり信頼を置いていた。

オレは自分の曲には自信があるつもりだ、

ここからまたひと花咲かせてみないか? ー

少し考えた。

先ほども少し述べた通り
S氏の作る曲は私の好みとは少し違う、

だからこそ生まれる化学反応、と言う
良い部分もあるが

結果、それが原因で
いつもひとつの曲を生み出すのに
大変な難産を強いられた上に

お互いが何処かで妥協する結果となっていた。

また同じことの繰り返しになるのでは?

「とりあえずどんな曲作ってるか聞かせてよ」

まずは探りを入れてみることにした。

そして数日後、
S氏が持ってきたデモ音源を聴いて驚いた、

以前は90年代のJ-POP要素満載で
シンセやストリングス、
更には電子音で埋め尽くされていた彼の作る音に

今はロックのテイストを感じた。

元々音楽的な理論や知識は豊富だったが
ロックとは無縁の男だったS氏は

私と出会ったことによって
ロックの素養も身に付けたのだと言う。

彼の音楽性の変化もさることながら

この10年での音楽機材の進歩も尋常ではなかった。

手前勝手な私は二つ返事で
彼の申し出を受け入れて
10年ぶりに曲を共作することにした。

音の作り方はやはりあの頃と同じで
まるでミルクレープを作るかのように

シンセサイザーに各パートの音を
幾層にも重ねながら入れてゆき
ひとつひとつの音を調整していく。

今回は私の意見も取り入れながら
ミキシングボードで調整しながら音を作り上げ

完成したオケをMDに落として
それを聴きながら歌メロを考える。

こうしてバンド活動時代の初期の1曲と
共作で生み出した新曲を2曲、

合計3曲を彼の自宅でレコーディングした。

それはまだ2003年の出来事…

随分手前味噌な発言ではあるが
"宅録"なんて言葉が生まれる前から

私たちは宅録の先駆けだったと言うわけだ。

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