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展示-歯を飾る、糸を紡ぐ

歯が抜けた。

もちろん自分の話ではない。子どもの話だ。5才の子は、最近立て続けに、下の歯が2本抜けた。ちなみに僕は30歳で、ずいぶん前に全て永久歯に生え変わっている。

本人から歯が抜けたと聞いて、ずいぶん心が動いた。抜けそうなときはどうしたらよいのかと慌てたし、無事抜けたと聞いたときは安心した。
それ以上に、もうすぐ6年になるこの齢まで、この人は生き延びたのだということ。一つ屋根の下に寝ているが、しかし厳然たる別人である彼女が、ここまで命をつないできていることに、ふと烈しく思いを馳せた。

展示の話である。
福祉事業所で、ハンディキャップのある人たちの美術の活動をコーディネートしている。
初めはペンを持つことすらなかった彼らが、ずっと集中して創作に取り組んでいる。2年半続いた活動のひとつの区切りとして、施設内で小さな展示をすることになった。

抜けた乳歯を飾るようだと思った。2年半、活動を紡いだことの撚糸。活動による集積や成果ではなく、メンバーとスタッフが協働で環境を作り上げ、続いたことそのものの尊さを、ただそこに置きたい。
歯をそのまま置くのはあまりに粗雑だ。それそのものは見る人によってはグロテスクだし、小さく儚い存在は、気づかれないうちに転がされてしまうかもしれない。
しかし、立派な箱に入れるのも大袈裟だ。人は箱ばかりに目が行き、褒め、話題にするだろうが、それは歯ではない。まして命が続いたことそのものの尊さとは関係がない。適切でない下駄を履かせても仕方ない。

もちろん、美術の活動は続いている(being)のだから、実際にアトリエで活動している様子を見てもらえばいい。歯は、一つの時間の区切りであり、象徴だ。
続いているものは動き続けるから、止めて見ることができない。抜けた歯なら、観ることができる。思いを馳せる時間を、こちら側に与えてくれる。それはそこにしかないし、その時にしかできない。一度きりでもある。そんな作品たち。

まず、スタッフと壁を立てた。よく手が動くスタッフが立てた、作品を飾るためだけの壁面。ほかのことには使わない。
次は展示だ。作品を額縁に入れたくない。額縁は立派な箱だ。入れたら、額縁しか見えない。
それに、作品を飾ろうとも思っていない。ただ、続いたことの区切りとして、そこに置く。観賞できるよう。粗雑でなく、大袈裟でなく。
もう一つ理由を挙げるなら、彼らの作品は筆致が素晴らしい。アクリル板で光を反射させてしまうのは勿体なかった。

美術で使う、杉の木枠を用意した。本来はキャンバスを張るための芯となる枠で、普通目にすることはない。しかしいい色をしているし、直角も取れている。
パネルに貼った作品を、壁に吊った木枠の中に配置していく。ひとつの木枠にひとつの作品。等間隔で、同じ高さで。
木枠と作品の間のすきまから、スタッフが立てた壁のグレーがかった青が覗く。支えるのはいつもこの壁面だ。
その壁に支えられて、木枠に囲われただけの作品が5点、並んだ。そのままそこに。ただ、ある。
明かりを当てて、作者名と画材だけのキャプションを貼ると、どうやらそれらしいものができた。伝えるためでも、飾るためでも売るためでもない。日々を紡いできたことの、一区切りとしての作品展。
先日、家族の見学会が行われた。

子の、抜けた2本の乳歯は、屋根の上に放った。伸びますように。大きくなりますように。

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