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続けること

定年が近づく歳になり、仕事は延長して65歳まで働けるので、平日昼間は、そのまま「続ける」として、その他は、「どうしよう?」と考えた。

自営業のもとは、16歳の時に思い付いた事から始まっている。
この歳、私は高校入学して、最初の夏が来る前に「入院」してしまった。入院の原因は、腸ねん転。担当医師の説明を順番に話すと、最初は13歳の盲腸。これは病院の手術で問題なく処置され退院したが、その後が悪く、部活が吹奏楽部で練習参加禁止が出ていたのに先輩方に連行され練習を強要され、「腹に力入っとらん」とお腹を叩かれた。叩かれた箇所が問題で、ちょうど手術で縫っていた箇所だったため、糸が切れて大出血。出血したのも遊びと思われて、先生が気付くまで練習強要継続。結局、先生の車で近くの大病院へ。完全に完治するまで入院してた。

入院中に、とっとと退部はした。吹奏楽部も大問題発生でドタバタ。

もともと担当教師に誘われて、練習には体験で行っていただけ。部員のレベルアップのために、譜面読める生徒に声をかけた結果がコレ。

その当時、趣味でやっていた楽器で3段譜面読んで演奏できる!という事で誘われた。エレクトーンって右手・左手・左足が鍵盤と同じ譜面だったし、右足は音量調整や、その他の操作で、両手両足使わないと演奏できなかった。休憩時に音楽室で埃かぶってたエレクトーン弾いてたのが不味かった。その当時のアニソンを譜面なしで演奏してたんで。

中学生活は・・・まあまあかな。その時期は、問題児が多かった時代だし、生徒数も多かったから、それなりに。モノづくり大好きの私は、丁度よい的だったんだろうね。病気・怪我で不登校になり、学校のワースト記録作って卒業したよ。3年間で365日欠席。主要教科は平均点、可もなく不可もなく。技術家庭科だけは、飛んでたな。趣味がモノづくりなだけに。
最終学年で、「高専行くか?」って言われたな。先生方に。
父親の意見もあり、最終的、高校の普通科に行った。大学受験を考えて。

高校に入学した頃も体調崩しまくり。成績はそこそこ。中学時代の経過が良く無くて、怪我等に隠れていたのか内臓がボロボロ。腸ねん転で、捻じれた箇所が壊死して切除することになり、また手術。結構な手術時間だったが、当の本人は全身麻酔で寝てたから、よ~わからん状態。
入院期間は、9か月。とーぜんの如く、留年決定!
この決定は、手術前に判っていたから学校へは連絡すみ。手術前に3年次の教科主任の先生が来て、「大学受験を目指していた!と聞いたから、退院後は。大学受験クラスに入れるぞ。」と。ウチの高校、次年度から大学受験を目指す進学クラスを作るらしい事は入学式の時に聞いたから知ってた。まさか、留年して新設クラスに入るとは思わんかったけど。

病院に来た先生が、新設クラスの担任になる事が決まったらしく、「この人が担任かぁ~(マジで勘弁してほしいわ)」と心の中で思ったわ。勉強の鬼だもんなぁ。
顔に出てたのか、色々とアドバイスを受けた。勉強以外にも「楽しむ」ことが出来る趣味を持つこと。ベッドの横には色々なジャンルの書籍があったが、鬼曰く「形として残る物が良い。運動なら参加賞でもトロフィーでも良い。趣味がモノづくりなら、木工・金属加工・プログラムもあるな。入院期間が長いと聞いた。退院するまでに色々考えてみるのも良いぞ」と言って帰っていた。

これが、現在まで続いている「モノづくり」の最初。
趣味から実益になった最初だろう。


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