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「aftersun/アフターサン」の寂寥感から「ザ・ホエール」を想い出したこと【映画感想文】

※両方の作品の内容に深く触れた個人的な感想文です。

劇場で見逃した「aftersun/アフターサン」を配信で鑑賞しました。

最初にこの作品のポスターを観たときに、「なんか折りたたんだ紙を広げた後の線が入ったみたいな画像だな」という違和感があったんですね。でも観たらきっと意味がわかるんだろうな、とは思っていた。

そして、観ました。確かに、(制作側の思惑とイコールとも言いませんが)意図がわかる。

昔折りたたんだ紙を広げても、その折り目の線は絶対に消せない。
昔の思い出に、今はかつては感じなかった違和感(=線)が入り込んでいる。それは、当時から今までに起こった父と自分との出来事を経て、気づいたから。当時の夏の日々が、ただただ眩しい日々ではなかったことを知ったから。

だから「今」から省みる「あの夏の日の一瞬」を切り取ったポスターには不自然な線が入り込んでいる。
だから「今」から「あの夏の日々」をかつての少女が眺める映像には、不穏なカットが紛れ込んでいる。

怠惰に過ごした夏の眩い日々は、少女にとってはきらきらとした休暇だった。明日を疑わず、未来を楽しみに生きている。父母の不仲も大した風には思っていない。今がだってこんなに楽しいから。ちょっとした恋愛も友情も楽しめているから。

まさに生の謳歌そのもの。
そして父親はその対極にあった。
そんなこと、娘は知らない。知る由もない。

娘の生き生きとした笑顔に父親は何を思ったか。テーブル越しに、鏡越しに、画面越しにとなにかを隔てて映されてばかりの父親は、その細かな心中を語らなかった。きっとその生の終わりまで一度も娘には、何も。

ただその寂寥の欠片が、夏の日々を収めたビデオテープには潜んでいた。時を経て、「こと」を経たら、そうと察する。未来にならないとわからない、過去の父親の絶望。

あんなにも輝かしい夏の日は、太陽は、父親にはただ己の影を濃くするだけの日々だったのか。誕生日を祝われる彼の、複雑な表情が「今」は、ただ哀しい。哀しいと思うことしかできない。今から過去に手を差し伸べることは、不可能だから。

あの「線」は、断絶でもあったのか、とも思う。

そして、
生き生きと生きる少女と、人生に絶望している親の対比として、
私が想い出したのが「ザ・ホエール」だった。

「ザ・ホエール」は、恋人との辛い別れから、オンライン講師として生計を繋ぎながらも、持病の治療を拒否し、ゆるやかに死へと向かっていく男の姿が描かれている。

彼が疎遠になったままの娘との関係性を修復したいと試みる、その二人の間の不器用で繊細なやりとりが主軸の物語。問題を抱えている娘に、なんとか融和を試みる男の姿はとても必死で純粋で、愛情の深さを思い知れる。

けれど男は死のうとしている。
絶望していて、死を待ち望んでいる。同時に、娘を愛し、将来を憂えて、幸福を祈ってもいる。

何だろう、この矛盾、と観たときは思ったものだった。

大事な娘がいるのに、彼女と和解できさえしたら、自分は死のうと思っている。置いていかれる娘はどう思うか考えなかったのだろうか。父という存在をほかでもない本人から引き寄せられた彼女は、また父と疎遠になる。今度は永遠に。彼女はどんなにか哀しく思うか、想像できなかったのか。

まあ、想像しなかったんだろうな、と。
彼にとってはただ死へ向かう道筋だけが光り輝きすらしながら確かにあって、ただひとつきりの今生での気がかりが娘との不和だった、それだけのこと。男の目線ではただそれだけで、彼女の人生なんて、きっとどうでも良かった。幸せであれと願いはしただろうけれど、そこで自分の存在が必要だとは思わなかったんだろう。

死にゆく父親が、娘の幸福を祈りながらも、自らはその傍にいなくても良いと確信している。

その父娘の立ち位置が、「アフターサン」と「ザ・ホエール」、似ているなあと自分は思えた、のでした。

リゾート地での多くの人々とのふれあいも兼ねつつ描かれる夏の日々と、
物にあふれたひとつの部屋の中でごく少人数で描かれるまるで舞台劇、

そんな対照的な作品なのに、
生と死の両極端をひた走る父娘の姿と、波音とただただ明るく照らす光、そんなイメージが重なって不思議と自分では相似を感じた映画となりました。

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