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信頼だとか関係性だとか。

前に、何かの会話の中で、ある先生からこんな質問をされました。
「孤児受け入れ家族の中で、最も『成功』するのはどんな家族だと思う?」
「愛情たっぷりの家族?」「お金持ちの家族?」と答えると、「違う、冷淡、というのは言い過ぎかもしれないけど、干渉しない家族」と言われました。
へ?
孤児の多くは苦しい生活を経て、人を信頼できなくなった状態になっている。求めてもない愛情を無理に注がれると、かえって苦しくなる、家出する子もいる。まぁ、人は信用することができない、と頑なに心を閉ざしている心情の中で、深くも知らない人から愛情を注げられても、気持ち悪く感じるのも無理がない。それとは対照的に、干渉しない家族は、孤児にとって心地いい傾向がある。食事と寝る場所を与えるだけ、と冷酷に捉えられがちだけど、孤児にとってはそういう「安心感」が最も必要なのだ。
その説明を聞き私は、確かに、なるほどね。って得心が行きました。
この話を思い出したのは、女子高校生サポートセンター一般社団法人Colabo代表・仁藤夢乃さんの著書「難民高校生」を読んだからです。夢乃さんのお言葉を借りると、人には3種類の「溜め」が必要です。

❶経済的溜め。
 孤立しても安定した生活ができるように。
❷精神的溜め。
 嫌な出来事が起きても、今までの経験が力になって立ち直れるように。
❸人間関係の溜め
 ある人間関係において問題が起きても、別で頼れる人がいるように。

これらの「溜め」がないが故に、居場所をなくしてしまった高校生たちを夢乃さんは「難民高校生」と呼んでいます。この本を読み、ある質問が浮かびました。そもそも居場所、というのは何なのだろう?

居場所。


いろいろ考えてみた結果、「自分が安心して存在できる場所」じゃないか、と私は思いました。ご飯が食べられたり寝るところがあったり「存在できる場所」であったとしても、虐待されていたり、毒親のもとであったり、「安心」がなければ子どもはそこから逃げ出してしまう。そんな「安心」は、「信頼」なくしてはならない。そして、先ほどの孤児の話でもあったように、人を信頼できなくなった状態から信頼し直すのは、とても難しい。これは生物学的にも関連づけられるのではないかと思う。毛穴の根本にある立毛筋が縮む現象、いわゆる鳥肌、というものがあります。以前まで、情緒的ストレスに反応すると立毛筋の交感神経が刺激されて体毛が立ち、敵を威嚇する役割を持っていました。しかし、今のヒトは体毛も少なくなり、立毛筋の役割は重要ではなくなりました。生物が互いを信頼して、安心して生活できるようになるまで、とても長い時間かかったのだ。しかしその反面、信頼には大きな力があります。信頼できる、ということは、自分の居場所がある、自分が認められる、と実感することです。そして人は、自分が認められて初めて、自分に価値を感じられるようになります。

環境犯罪学上に割れ窓理論というものがあります。これは、軽微な犯罪をも徹底的に取り締まることは凶悪犯罪を含めた犯罪を抑止できる、ということを主張しています。小さな犯罪も徹底的になくしていくと、全体的に安全な環境になり、犯罪に狙われません。泥棒はしっかり施錠してある家よりも、割れ窓のある家に忍び込むのです。この理論と似て、安心できる居場所がある子は、その環境も安全なものになっていきます。悪事を企んでいる人は、安心し切った子より、不安そうにしている子、弱った子を狙います。例として、痴漢が挙げられます。痴漢犯は露出が多い人ではなく、大人しく、気弱そうな人を狙うのです。
このように、「信頼できる」「居場所がある」ことは、人の内側だけではなく外側にも変化をもたらすのです。
逆を言えば、信頼する人がいない人、居場所のない人は、危険にさらされやすいのが現状です。信頼できない状況にいる難民高校生は、その環境を抜け出そうとします。その方法として多いのが、不良グループや暴走族など、自分と似た境遇の人が集まる新たな集団に入ることです。不良グループや暴走族など、社会的に悪い印象が持たれている集団も、団員がお互いを認め合う、立派な居場所なのです。しかし、それは極めて脆い繋がりで出来ている絆であり、常に危険に晒されることになります。しかし、それ以外の人、特に大人を信頼できない彼らは、外の世界を知ることができず、また、助けを求めたかったとしても頼れる人がいないため、社会の中で孤立していきます。それが犯罪につながることも少なくないのです。

「居場所」「信頼」はレアアイテム


今の社会、「居場所」「信頼」がどんどんレアアイテムになってきていると思うのは、私だけでしょうか。SNSが普及し、ワンタップで、好きなものだけ見て少しでも不満のあるものは簡単に切り捨てられる今の時代、SNS上だけの付き合いは珍しくなくなり、対面でのコミュニケーションも大幅に減りました。いざ窮地になった時に頼れる人がいない、ということも珍しく無くなってきているようです。『確固たる「信頼」というものが減っている』という私の主張の根拠となるには信憑性が薄いかもしれませんが、「信頼」が薄れている例として、反抗期が減っていることが挙げられます。
何ヶ月前かに、私は友達と喧嘩しました。その子は私のとても仲良かった子ですが、その喧嘩中は、声をかけても無視され、ラインも未読スルーされていて仲が回復する兆しが全然見えていませんでした。ある日、その話を先生にしたら、甘えられているねぇ。と言われました。―いや、え???
いくら喧嘩していても、無視する、というのは強い関係がある上でないとなかなか出来ないことだよ、と言われました。それほど仲良くはない子だったら、喧嘩していても気が引けて無視なんてできないでしょう?無視できるのは、無視しても大丈夫、という安心感があるから、とのこと。
その話を聞き、確かに!!とすごく腑に落ちたのを覚えています。(今その子とはいつも通り仲良くやっています😂)
保護者に対して反抗期があるのも、これと同じ理論ではないのだろうか、と私は思いました。安心し切っているからこそ、反抗できる。確かに、もし安心できない家庭環境であれば、反抗する気にはなれないでしょう。家を出る、家に帰らなくなる子どもたちは、反抗する気を失せた、もしくは反抗できない子たちなのです。しかし近年、反抗期は減っています。親子関係が良好になっているから、という仮説ももちろん立てられますが、情報化社会の今、インターネットに夢中な中でそもそも反抗する関係にまで到達してない親子が多いのではないか、というのが私の持論です。

また、信頼関係の薄れを加速させるかのように、現在の社会では、自己責任論が強まっています。生活保護をなかなか受けられない、という現状があるように、社会的弱者への支援が行き届いていません。他にも、性的犯罪の被害者へのセカンドレイプが目立つ現状もあり、3月には路上生活をしていた男性が5人の少年に殺害された事件も起こりました。その加害者は「ホームレスを見下している意識があった」と供述しています。社会的弱者を見下すような社会になっているのです。
しかし、矛盾している点もあります。高校生の薬物乱用で、その生徒が所属している部活が活動停止になった、というニュースもあったように、日本では連帯責任を強く求める風潮があります。国語の授業で「異文化」について学習しましたが、その際に、東洋では人を「集団の一員」として見られ、西洋は人を「単体」として見る、という文化があることが取り上げられました。確かに、私は帰国子女ですが、初めて日本にきた時にびっくりしたのが、友達を下の名前ではなく苗字で呼ぶことです。これは、人を家族柄として見ていた、という日本の歴史から残る慣習でしょう。他にも、英語では自分のことを “I/me” と呼びますが、先生を名前つけずに単に「先生」と呼んだり、親が自分のことを「パパ/ママ」と呼ぶように、日本語は「関係性の中の位置」を代名詞として使うことが多いです。その日本文化独自の関係性の強さを、良い方面でもっと生かしたい。

わかんない。だけど、

ここまで「居場所」「信頼関係」「関係性」について語ってきましたが、正直、「だからこうしよう」という解決策は私には分かりませんし、自分はそんな策を提言できる身ではないと思っています。「居場所を作ろう」って言っても、居場所は「作る」ものじゃないだろうし、でもだからと言って「きっと居場所は見つかるさ!」と楽観視することもできない…。ただ私にできることがあるならば、それは周りを安心できる環境にすることじゃないのかな、と思っています。いつ悪口を言われているかわからない・表面上ツイッターで叩かれているかもしれない、そんな不安は今の中高生の中では珍しくないです。私その現場には絶対加担したくない。

そして、このように私が長々と自分の考えを綴ったのは、この孤立化社会に目を向けて欲しいからです。特に今年のコロナ禍は大変な年でした。10月だけでも自死の数は2158人に昇り、前年同月の40.2%増加しました。自分の子ども、自分の大切な人のことを考えた時、こんな社会で生かせたいって思いますか?


拙い文章でしたが、最後までお読みいただき、本当にありがとうございます!😭About Me...
創作系が大好きな高校1年生🌸法学部目指し✊
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【犯罪のない社会を目指して】
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