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「肩書を目標にするなら形容詞をつけろ」

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ツイッターでこのようなツイートを見た。考えてみた。

ひとつの肩書きにはたくさんの顔が

「将来の夢は何?」って聞かれると『職業』、つまり「何になりたいか」を考えるのが主流になっている。だけど、あまりにも「何」という型に囚われ、「なぜそれになりたいのか」という本質を見失っているかもしれない…。

例えば「先生になりたい」という夢を持っているとする。
「なぜ先生になりたいのか」この質問を追及することで、「本当になりたいもの」が見えてくる。
あくまで私の想像だが…
「子どもと過ごすのが好きだから」
「次世代を担う子どもをしっかり育てたいから」
「勉強を教えるのが好きだから」
「子どもの勉強意欲を高めたいから」
このような理由が挙げられるだろう。
みてみると、全て同じ「先生」という職業を目指しているが、その本質は全然違うことがわかる。
「子どもに寄り添う先生」なのか「勉強が好きになるような授業の楽しい先生」なのか。
前者だったら、子どもの心理学チックなものを勉強するのが効果的だろうし、後者だったら、授業術を研ぐことに意味があるだろう。
どこに重点を置くかを自分で明確化することで自分の意識は変わり、仕事をする上で自分を見失うことが減ると私は思っている。

他の職業例でも考えてみると…
「患者を病気による苦しみから助ける医者」「人々が常に健康でいられる社会を作る医者」
「自分の経験をもとにした作家」「現実にはない未知の世界を書く作家」「リアルを伝える作家」
「人々の幸せを守る警察」「悪人を排除する警察」
「体に良い食事を提供する料理屋」「お客さんが何度も訪れるような食事を提供する料理屋」
「問題を解決するNPO」「問題を啓発するNPO」

一つの職業にはたくさんの顔があるんだなぁってひしひし実感した。

そしてこの「なぜ○○になりたいのか」を考えるにあたり、「個人的好み」と「社会的需要」という2種類の理由を持ち合わせることが大事だということにも気がついた。
お仕事や活動を持続できる1番の原力はやはり、好きだから。やっていて楽しいから。でも楽しいだけじゃただの自己満足だし、続かないだろう。人は「与える」ことで一番大きい喜びを見出すと言われており、実際にそうだなぁと思う。一人暮らしになると自炊が疎かになりやすいのは作った料理を食べてくれる人がいないから。特別な行事にプレゼントを渡す風習だったり、豪快な食事を作ったりするのは、プレゼントを渡したり食事を作ったりする提供側も、それらを受け取る側も、両方が楽しいから。必要のないものまで与えるという意味を持つ、「余計なお世話」や「おせっかい」という言葉ができるほど、人は本能的に人に「与えている」のだ。つまり、「良く、多くのモノを与えられる」のが良質なお仕事だと言える。

こんな持論を導き出し、私もこの「なりたい自分探し」を始めてみた。
「司法関係のお仕事に就きたい。」
これが私の夢。そして、自分に問いかけてみた。

【なんで司法関係のお仕事に就きたいの?】

正直、この質問には随分悩み、考えた。
なんで私は司法に興味があるんだろ?
とっさに感じたのは「面白いから」。
一つの書物によって社会の「善」「悪」を分けるというコンセプト、そして、ほとんどの人はそれを疑問なく受け入れていることが私からしたら興味深いのだ。

【具体的に司法の何に興味があるの?】

私は、司法のあり方に懐疑的だ。今の司法は「被害者を守るため」ではなく「加害者の更生のため」でもなく、ただただ「社会秩序を守るため」に存在している気がする。
虐待を受けたり、いじめられたり、「被害者」の立場だった人が後に加害者になるケースが多い。だが、前者の「被害者」の時に彼らを救うことはせず、「加害者」になった途端に一気に注目を浴びさせるのが現在の司法だ。しかも、加害者を裁く時、「被害者のため」と言うには刑期が短すぎたり、犯罪を立証するのに入手困難な多くの証拠を必要としたりする。一方で、「加害者の更生のため」と言うには、更生プログラムや出所後の更生支援が十分に行われていない。結局は、「犯罪を犯してはいけないよ」と社会に注意喚起するだけのもののように思うのだ。つまり、「犯罪を犯さない社会を守るだけのため」に司法は存在し、当事者として何らかの形で法律に触れてしまったらその守られている社会から排除される。現在の司法は被害者も加害者も取り残している気がするのだ。

これが良いことかどうかは一概には言えないが、少なくとも言えるのは、この「社会から排除する」という行為は「生きづらさ」を生む。
どんな人であれ、生きづらくない社会を作りたい。「普通」じゃなかったとしても、大丈夫だよって社会を作りたい。
いろいろ考えた末、私の根本的な志を明確にできました、!

生きづらさ大量生産国の日本

今の日本社会はあらゆる場面で生きづらさを生んでいる。

●障がい者に対して:
身体的にバリアフリーな社会は実現できていない。特別支援学校の建設が進んでいたりもしているが、それらは「障がい者」と「健常者」の隔離に貢献しているとも言える。

●外国人に対して:
ハーフであるだけで注目が集まる。ハーフの人に自然と「どことのハーフ?」と聞いてしまうの、なぜなのか、考えてみたことはあるだろうか。それは、人のアイデンティティをジャッジする上で「出身国」が自然と重大要素になっているからなのだ。どの国の人かだけで、良し悪しもイメージがついてしまうのだ。

●LGBTQ+コミュニティに対して:
これは言うまでもなく、性的マイノリティの人は「異種な人」として見られ、非難されたり多くの苦しみを味わっている。

●ジェンダーに対して:
「女性は料理が上手」「男性は泣かない」「女性は子どもを育てる」「男性は家庭の大黒柱である」これらの世間が考える「普通」から落ちこぼれた人は自分に負い目を感じたりする。

カテゴライズできない生きづらさも数多く存在する。
・学校制度と相性が合わない子に対しては「落ちこぼれ」と評する。
・うつ病やHSPといった人に対して「大変だね」と他人事のように捉え、時には根性論や感情論を押し付ける。

こうやってマイノリティを排除する傾向がある日本社会を、変えたいんです。どんな子が生まれても心の底から誕生を祝える、これからの社会に対して100%希望を持てる社会を、作りたいんです。

その中で、「加害者が直面する生きづらさ」に焦点を当てようと思ったのは、司法について考えることが面白い、ワクワクするという上に、加害者の多くが性格や思考回路、背景に「生きづらさ」を持つからだ。ネグレクトを受けながら育ち、暴力的に育った人、うつ病に苛まれ覚醒剤に走った人、摂食障害が引き金になって窃盗症になった人。
日々の生活に潜んでいた「生きづらさ」が犯罪につながることが多いのだ。つまり、加害者の「生きづらさ」にフォーカスすることが、社会全体の「生きづらさ」問題に対する解決策を導き出せると思っている。
その中で、私たちの生活に刻まれている司法の存在が、「生きづらさ」問題を解決する鍵を担っていると私は考えている。現在の司法のあり方に加えて「マイノリティをも守る」「加害者を更生させる」この2つの要素が制度化されれば、?と私はぼんやりと考え、それについて追究したいと思っている。

【じゃあその司法に関して、どのように携わりたいの?】

うーんんん!我ながら難しい質問だなぁ笑
正直、私は自分が生きている間に何らかの改革を起こすことは不可能だと思っている。また、私は一生かけてでもそれについて勉強して自分を成長させ、その成長力を生かして社会に発信する立場となり、社会全体で改革を起こしたい。

つまり、私がやりたいのは、一生かけて司法学を中心に勉強して、勉強したことを踏まえて一般世間に発信して、「生きやすさ」を全員が一丸になって目指す社会を作ること、なのだ。

私は【「生きづらさ」を感じている人に寄り添う】、【司法学に関して勉強する研究者】と同時にそれを【一般社会に対して発信する啓発家】になりたい。

最後に

高校生になると、進路について悩むことが多く出てくると思います。
私も自分がやりたいことがはっきりしなくて、モヤモヤしていました。。そんな中で、この「目指す肩書に形容詞をつけてみる」という手法をやってみて、自分の目標を明確にできたので、シェアしようと思いました。
後半は自分のことを長々と書いてしまいましたが、何か響ければな、と思っています😊
最後まで読んでいただき本当にありがとうございます🌸!

About Me:)
創作系が大好きな高校1年生🌸法学部目指し✊
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【犯罪のない社会を目指して】
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日常生活でふと思ったこととか呟いてます😂
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