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近世大名は城下を迷路化なんてしなかった(24) 第5章 5.4.4. 中世の方格設計都市③

### 5.4.4. 朝鮮と日本の都城制都市たち

■ 非北闕で不定形な異端児――シルラ・ワンギョン(新羅王京)

日本へ飛ぶ前に朝鮮半島の三国時代を征したシルラ(新羅)の首都、シルラ・ワンギョンを見ます。

ここも日本の平城京や平安京と同じく碁盤目を持った王都でありました。

古文献に、そのように碁盤目型への都市改造を行ったと記されており、発掘調査前に推定した復元図は平城京や平安京の兄弟のような正方形に近い都市を想定していました。

ところが実際の発掘調査から確認された条坊(中国都城制における碁盤目を条坊と呼びます)の範囲は、不定形だったのです。

54501_新羅王京1

図 5.4.5.1: 新羅王京復元案(左)と確認された条坊範囲(右)

出典: 日本の都と新羅の都 - なぶんけんブログ
https://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2015/04/tanken92.html


これは意外な結果でした。ともあれ、シルラ・ワンギョンの発掘調査からは以下の事が判明しました。

(1) 城域が方形ではなかった

すでに述べた通りです。

シルラ・ワンギョンは建国から滅亡までの約900年間、一貫して首都であり続けました。彼らは遷都しなかったのです。これはシルラ・ワンギョンの大きな特徴です。

要の東西を問わず、方格設計都市が生まれやすいのは、ゼロから新都市を建設するときでした。

ローマ植民都市の多くが新設都市でしたし、バビロンが方格設計都市に変わったのも戦争で街が徹底的に破壊されたあとの再建においてでした。もちろん日本の藤原京・平城京・平安京も新規に作られた計画都市です。

ところがシルラ・ワンギョンは紀元前57年とされる建国から、一貫して首都でした。それも、さほど平地のない山間部の盆地です。

シルラ歴代の王たちは創業の地から離れることを拒んだのでした。

それはそれで素晴らしいことです。しかし、すでに住民が多く存在することや、地形的な制約は、計画都市の実現に障害となって立ちふさがったにちがいありません。

シルラ・ワンギョンは最初から方格設計都市だったわけではなく、条坊制を採用した都市への改造が始まったのは6世紀中ごろでした。日本が藤原京を作った694年より約140年ほど先輩です。

しかし、先述した障害のために改造の進みは遅く、最終的には改造が中断され、そのままシルラの滅亡に至ったと考えられます。

復元案の根拠となった文献は、完成したらこうなる、という設計案を記録したものだったのでしょう。

実は、完成をみないまま中断されたのはシルラ・ワンギョンに限った話ではありません。

ほかならぬ平安京もそうでした。いま、私たちは平安京というと、ほぼ正方形の都市を創造します。百科事典や古語辞典なんかにも、そういう図が載ってますよね? しかし、あれもまた、完成したらこうなるという設計案なのです。

平安京の東南隅の部分は賀茂川が食い込んでいるので宅地化できません。これはまあ、地形由来なのでしかたがない面もあります。

しかし右京区がもとより低地で湿地になりがちで、早々に過疎化が進んだことはご存じの方も多いでしょう。桓武天皇は建築開始から20年目にして、ついに中止を命令するのです。西南隅のエリアでは大路が作られず、ただ、計画上の条坊が割られただけに終わりました。

したがって、平安京も厳密には、シルラ・ワンギョンと同様の理由で不定形の城域になった都市なのです。

これこそがテンプレ化した中国都城制を吟味せずに採用した周辺諸国が抱えた問題でした。

ここまで何度も繰り返してきたように、方格設計都市の建設と維持にはお金がかかるのです。

東漢(後漢)や北魏、隋、唐ほどの強大国家にはそれが可能でした。しかし、シルラや奈良・平安期の日本には荷が重かったのです。

奈良時代は古代・中世の日本において、もっとも中央集権が進み、大仏建立のようなハコモノ行政がズンドコできた時代でした。藤原京・平城京・平安京と立て続けに巨大な都城を建設しました。しかし、そうやって国家予算を湯水のようにハコモノへ使った結果、平安時代は初期から息切れが始まったのでした。

あの金で何が買えたか・イン・奈良時代があったのです……おおっと、話が大脱線。シルラ・ワンギョンに話を戻しましょう。

(2) 北闕(ほっけつ)型ではない

推定復元案ではチャンアンや平城京、平安京と同じく、都市の北辺に近い位置に宮があり、宮の南に都市を二分する南北道があると推定されていました。

しかし発掘調査では、中心軸上の北寄りに大規模な王宮跡は見つかっていません。中心に近い位置で小規模な殿廊址が発見されていますが、これはその規模から一種の離宮であっただろうと推定されています。

では、都市の中心となる王都はどこだったのでしょうか? 

それは中心軸の南端に位置する月城であろうと考えられています。

月城は丘陵の上に存在し、シルラ・ワンギョンの都市改造計画が始まる前から王の在所でした。

遷都を選ばなかった王族は、王宮の移転もやはり選ばなかったのです。

シルラ・ワンギョンが自らを方格設計都市に変えようと考えたとき、隋はまだ建国されておらず、したがって隋時代のチャンアンも生まれておりません。

シルラが参考にしたとすれば北魏ルオヤンでしょう。すでに述べた通り、北魏ルオヤンは外城を城域と見れば、王宮は北辺というよりは中央やや北に位置していました。

隋・唐チャンアンが有名であり、平城京や平安京が真似しているので宮の北辺ルールが絶対的なもののように感じてしまいます。

しかし実際には、北闕型はそこまで絶対的なルールではなかったと考えたほうが良さそうです。

疑問も残ります。北闕型が北方遊牧民族の北辰思想から出たものだとすると、日本よりも北方遊牧民に近いシルラがその影響を受けず、飛び越えて平城京・平安京に影響したというのは不自然ではないでしょうか?

(3) 朱雀大路相当の政庁前南北大路がない

これも、あると予想されていたものでしたが、今のところ月城から北へ延びる街路の道幅が、とりわけ大きかったとする証拠は見つかっておりません。

大陸と地続きであるシルラは、日本よりはるかに外国の使節を接待する機会が多かったはずです。幅広の道が国家の威信を示すのに使えるのならば、シルラはその建設に積極的になったのではないでしょうか?

都市改造の始まった6世紀中ごろ。中国は南北朝時代で隋・唐ほどに遠慮しなければならない大国は存在しません。そして朝鮮半島情勢も三国時代まっただ中で、西にも北にも、威信を示したい相手ばかりです。

してみると、広い道幅で国威を示すという説は、どうも説得力に欠けるように思えます。

(4) 羅城が無かった

中国の都城はルオヤンだろうとチャンアンだろうと、そのほかの小さい城でも、羅城と呼ばれる土を突き固めた城壁がありました。この土を突き固める工法は版築と呼ばれ、築地塀なんかもこの版築で作られます。

この羅城。ようするに都市の外郭ラインですから、これこそ中国都城制における防衛の要と言っていい部分だと思いますが、シルラ・ワンギョンにはそれがありませんでした。

シルラ・ワンギョンだけでなく、藤原京にだって平城京にだって平安京にだってありませんでした。

正確に言えば、平城京と平安京は都市の南門にあたる羅城門の左右に、お情け程度にちょっとだけありました。ちょっとだけあったって防衛の役には立ちません。

では、シルラ・ワンギョンは城壁ではなく、なにをもってして都市を防衛したのでしょうか?

シルラ・ワンギョンが山間部の盆地にあることは述べましたね? 彼らは山を天然の土塁、羅城の代用としたのです。

この考え方は、四方を山に囲まれた平安京の防衛プランに影響を与えたのかもしれません。

ちなみに同時代、ペクチェ(百済)の都となったサビ・ドソン(泗批都城)では、羅城が確認されています。サビ・ドソンは条坊を作らなかったようですが、羅城は採用したのでした。

以上、シルラ・ワンギョンについてみてきました。チャンアン(長安)型の都城制と異なる点、日本の平城京・平安京と共通する点を踏まえつつ、いよいよ日本の都市へ向かいます。

■ 北闕型で中心線南北大路もあった。前期難波宮

日本のトップバッターは、飛鳥時代に外国使節をもてなした飛鳥朝の外交拠点、前期難波京です。

え? 藤原京から始めると思ってた?

そうはいきません。

近年の発掘調査により、前期難波京には条坊があり、宮が城域の北辺に置かれていたことが判明しています。

朱雀大路に相当する南北大路はまだ発見されていませんが、都市の南門から南に向かう(通称)難波大道は発見されています。

発掘調査で判明した条坊遺構や寺院の配置からも、前期難波京が中心軸プランで設計されたことは、ほぼ間違いないと考えられます。

したがって、宮の南正面門から都市の南正面門までの南北大路も当然に存在していたであろう……というわけです。

ただし、この道が朱雀路と呼ばれていたかどうかはわからないため、便宜上、難波大路とか難波宮南門大路と仮称されるのが一般的です。

では、前期難波宮に条坊や中心軸プランができたのはいつでしょうか?

難波宮南門大路は未発見ですから、発見されている都市の外の官道、難波大道に着目します。

この難波大道が建設されたのはいつでしょうか。原初の道ができた時期がいつかはともかく、大道(官道)として整備されたのは、天武期と考えるのが妥当、次いで孝徳期にも可能性がある……だそうです(積山 洋『難波大道と難波京』)。

つまり、日本書紀が言う、天武天皇が難波京に羅城を建設した(あるいはその計画を立てた)とされる年(679年)の前後に、条坊や官道や中心線プラン南北大路も整備されたと思われます。

白村江での敗戦が尾を引いている当時の緊迫した状況下です。

防衛のために大陸の最新式城郭都市プランを用いて、玄関口である難波を改造した……おおいにありうることです。

してみると、この天武が整備した前期難波京こそ、日本で最初に中国式都城制を採用した都市だったのです。

藤原京より先に、まずここから始めなければならない理由、ご理解いただけましたでしょうか。

さてその前期難波京、推定復元図によれば東西約1.5km、南北約4.5kmの縦長な都市であったようです。

54502_前期難波宮推定復元図

図 5.4.5.2: 前期難波宮推定復元図

出典: 積山洋『複都制下の難波京』


この、前期難波京の特徴は次の通りです。

(1) 中心軸プランであるが、中心軸が城域を等分しているわけではない

これは魏晋時代のルオヤン(洛陽)でも同様でした。都城制の普及過程における、あるある現象なのでしょう。

難波京は上町台地に築かれています。地形的な制約が大きいため、いたしかたなかったと思われます。

(2) 中心軸の大路は南北方向である

それが中国都城制のルールなんだから、当たり前のように思えます。しかし、この当たり前も 「そもそも、なぜ南北方向限定?」
を考え出すと、よくわからない点が多いのです。

ルオヤンは東西に横長の都市でした。チャンアンも正方形に近いものの、わずかに東西の方が長い都市です。

東西に長い都市であれば、南北道で二分し、分割管理するのは理にかなっています。

が、難波京は南北に縦長の都市です。平城京はほぼ正方形、平安京も南北に長い都市でした。

だとしたら、東西道で上京と下京に分割しても良さそうに思えます。

いやいや、北闕型で祭祀のためで威信を示すためなんだから、宮が北辺にある以上、南北道しかありえない――ヴィスタだよ、お見通しだよ、パースの中心に宮の朱雀門が見える、それでこそ威信が示せるってもんじゃないか……そう考えるのは簡単ですが、本当にそれでよいのでしょうか?

難波京は難波津があるから生まれたような都市です。港ありきの都市です。

この難波津はどこにあったのでしょうか。難波宮の北の淀川河口部か、西の大阪湾の海岸のどちらかと考えられています。

すると、船から降りた人は、難波京の正面玄関である南の端から入京するには、かなりの遠回りです。5kmはよけいに歩かされます。そして南の正門から北端の難波宮までまた4kmくらい。これはダルい。

訪日使節団にしちゃ防衛の都合上、しかたあるめえと納得できるかもしれません。

難波京にしても、南大道は大和へ至る道につながるので、南を正門にするのは理にかなっています。

しかし「もてなす」という目的のために難波京が整備されたのだとすれば、遠回りを強いるのは得策とは思えません。とくに、この時期の日本は事実上の敗戦国であり、唐の使者を下に置くような扱いは不可能なのですから。だとすれば西に正門を開いて、逆L字の大路で国威を示してもよかったように思えます。

後述する長岡京だってそうです。平城京との連携を考えたら、南北道よりも東西道で都市を分割してもよかったはず。なにより淀川に近い位置に正門を開いては、洪水時に都市機能が麻痺しやすいくらいのことは、実際に洪水に遭うまで予測できないことでしょうか?

つまり、政庁前の南北大路に実用性から考えた合理的な理由はパッと見て、見出せません。

だからこそ、祭祀や示威(しい)行為を持ち出さねば説明がつかないのです。

あるいは、日本の朱雀大路は単にお手本の中国都城制をそのまま真似しただけ――そっくりそのままクローンを作っただけで、なぜそうなっているかなんて考えてなかった――と推測することもできます。

でも、実はちゃんと、実用的な理由があったとしたら?

遣隋使の留学生たちは、根本的な原理を正しく理解して持ち帰っていたのだとしたら?

大和朝廷は、その合理性に納得したからこそ、中国都城制を採用したとは考えられないでしょうか?

政庁前の南北大路の実用面、なぜ南北でなくてはならないのかは、やはり、あとで考察します。

(3) 建設は車輪の伝来以後である

ここまで繰り返し、方格設計都市は車輪が伝来して生まれると述べてきました。

古代日本もまた例外ではありません。

日本における最古の車輪の発見例は、2001年の奈良県桜井市小立(こだち)古墳から出土したものです。7世紀後半のものと見られ、ちょうど難波京の建設時期と重なります。

車輪が伝来した時期は5世紀ごろと推定されています。伝来から一世紀半が過ぎて、車輪(荷車)のメリットと、舗装道路の必要性が認識されたことで都城制の採用に結びついたのでしょう。

文字や暦や仏教の需要より時間がかかっているのは、荷車というものが大きいため、海を越えての運搬が難しかったからだろうと思います。

かといって、高度な工作技術を必要とする車輪を実物も見ずに、伝聞情報だけで作ることはできません。そのうえ牛馬がそれなりに供給されないと、あまり役立ちません。

実物が役立つところを見ないことには、良さを理解するのは難しいものです。

(4) 朱雀門はあった。難波宮南門大路もおそらくあった。しかし……?

日本書紀には一ケ所、難波宮の朱雀門が出てきます。乙巳の変を成功させたクーデター仲間(であったと思われる)阿倍内麻呂(あべのうちのまろ)大臣が死んだ日です。

> 巳朔辛酉、阿倍大臣薨。天皇幸朱雀門、舉哀而慟。皇祖母尊・皇太子等及諸公卿、悉隨哀哭。

649年3月17日に阿部大臣が亡くなった。天皇は朱雀門にて大声を上げてなげき悲しんだ。前天皇である皇極、中大兄、そのほか公家たちは皆、つきしたがって大声を上げて悲しんだ……という内容。

この記述を根拠に、朱雀大路と呼ばれていたかどうかはともかく、難波宮南門大路で国葬が行われた――つまり、政庁前の南門大路は祭礼のためにあるのだ、とする説があります。

しかし、この記述が国葬かどうか、断定できるものではないでしょう。

記述をそのまま字句通りに解釈すれば、大臣は 3月17日に亡くなったとなります。だとすれば、殯(もがり)も済まない当日に国葬が行われるとは考えられません。

仮に 3月17日が国葬の日だったとしましょう。ところが 3月17日以前に阿部大臣が死んだという記述は無いのです。国葬が行われるほどの人物にしては、おかしな扱いです。

妥当な解釈をするならば、やはり阿部大臣は 3月17日に亡くなったのでしょう。それもおそらく宮中で。政務中の突然死だったのではないでしょうか。

死は穢(けが)れですから、すみやかに宮の外、阿部大臣の自宅に死体を運ばなければなりません。しかし宮の外もまた穢れでいっぱいですから、孝徳天皇は朱雀門より外に出られません。天皇が宮の外へおでかけするのは簡単ではないのです。

そこで、孝徳は朱雀門まで見送りに行き、そこで声を震わせて泣いたのです。孝徳にとって阿倍内麻呂は、腹心・相棒・親友ともいえる存在でした。

さて、天皇は宮の外に軽々しく出られませんが、前天皇である皇極や、皇太子の中大兄、その他の上級国民たちにそんな制約はありません。

彼らは運ばれる死体のそばで嘆き悲しみながら阿部大臣の自宅まで付き添ったのです。

……という筆者の推測を証明する材料はありません。が、証明できないという点では難波宮南門大路で国葬が行われた説もどっこいどっこいです。

であるならば、日本書紀のこの記述は難波宮南門大路が祭祀のために用意された道だと証明する材料とは言えません。

そのうえ先に説明した通り、条坊制を整備したのは天武期が濃厚です。だとすれば、孝徳が泣いたときの朱雀門の前の道は、普通のどうってことない道だった可能性が非常に高くなります。

なお、649 年には難波京はもちろん、難波宮も未完成であり、阿部大臣のくだりは日本書紀の通りには受け取れないという説もあります。時代をずらして、藤原宮の時代・別の大臣の話を書いたのだろう、と。

いずれにせよ、この逸話が朱雀大路で祭祀が行われた証拠にはなりえない点は変わりません。しかし、藤原京の朱雀大路だったとすると「朱雀大路の道幅が広いのは祭祀のためだよ派」には、困ったことになります。

なぜなら、後述しますが藤原京朱雀大路は他の大路にくらべて道幅が広いわけではないからです。

つまりやっぱり、朱雀大路が祭祀のために広い道幅になったという説の証拠にはなりません。

示威行為の方はどうでしょうか? すでに述べた通り、難波京は外国の使者を迎えるための都市でした。

大化の改新のあと、孝徳天皇が難波に遷都してから藤原宮に朝堂が作られるまで、約40年間、朝廷に外国使節の大和入りはありませんでした。

孝徳天皇の死後、飛鳥川原宮、後飛鳥岡本宮、近江宮、飛鳥浄御原宮と首都は転々と移りました。しかし藤原京が完成するまでは、朝廷が直接に来賓(らいひん)をもてなすのは難波宮でした。

なぜなら難波には難波津なる良港があったからです。

しかし、実際の難波京南門大路が見つかっていないのが現状です。

難波京には外国人施設の宿泊施設や迎賓館に相当する施設があったでしょう。が、それを根拠にして難波京南門大路が威信を示すための道路であったにちがいない! なんてことは言えません。

道幅もわからないのです。せまくてショボい道路だったのかもしれないのです。

え? 文献史料ですか? 難波京南門大路が朱雀大路と呼ばれていたかどうかもわからないという時点で、お察しくださいという状況です。

(5) 北闕型である

見事なほどに、城域の北側に宮が存在しています。北闕型と見ていいでしょう。

そもそも天皇という言葉自体が北極星を神格化した北辰思想から出た言葉だそうです。

天皇という語を最初に使ったのは天武・持統期だとする見解が主流ですが、推古期にさかのぼる可能性も指摘されています。

もし、この宮を都市の北辺に置くルールが北辰思想から出たものだとするならば、孝徳の時代にすでにその概念が伝わっていたとしても不思議ではありません。

とはいえ問題があります。なぜなら後述する藤原京は北闕型ではなく宮を中心に置く、周礼型だったからです。先行する難波京が北闕型なのですから、これは大きな矛盾です。くわしくは藤原京でやりましょう。

前期難波宮からは以上です。難波宮はその後の藤原京・平城京の時代も、大和朝廷の副都として奈良時代の間、しぶとく存在し続けました。

■ 天皇は来ないのになぜか北闕型で朱雀大路もある。大宰府

難波が大和朝廷の玄関口なら、九州にあった大宰府は日本の玄関口に相当しました。

大宰府は大和朝廷が「西の都」と呼んだほどの大都市でした。「天下一之都」とも呼んでいますから、その経済的な繁栄ぶりは難波京や藤原京・平城京をしのいでいたかもしれません。政治の首都と経済の首都が異なるのは、よくあることです。

そして、大宰府の建設は藤原京とほぼ同時期か、もしくは少しだけ早く始まったと考えられています。宮ではありませんが政庁があり、条坊も備えていました。

したがって、筆者は難波京のあと、すぐに藤原京へ進まず、先に大宰府を攻略するのです。

それどころか、大宰府こそすべての謎を解くカギを握る都市でした。

謎解きはもっと後になるので、まずは碁盤目を持っていた大宰府の姿を見るとしましょう。

54503_大宰府

図 5.4.5.3: 大宰府条坊復元図

出典: 井上信正『大宰府条坊の基礎的研究』


図 5.4.5.3は井上信正氏による8世紀大宰府Ⅱ期の推定復元案で、発掘調査との一致も多いことなどから、近年もっとも支持されているものです。本書もこの推定復元案に基づいて話を進めます。

ではいつものように第Ⅱ期大宰府の特徴を以下に記します。

(1) 中心軸は東西を等分していない

井上氏の新説では、東十二坊、西八坊のレイアウトとなっています。中心軸プランがエリアを等分するルールは、それほど重要ではなかったのかもしれません。難波京もそうでした。

そして、わずか二条とはいえ、大宰府も南北方向に長い都市だったようです。

(2) 政庁が北辺にある

井上氏は後述する藤原京から平城京への変化と同様に、第Ⅰ期大宰府は政庁が城域の中心にあり、Ⅱ期(8世紀中ごろ)に北闕型へと変化したと推定しています。

これは筆者にはいささか勇み足に感じられました。

まず、白村江の敗戦のあと、天智期に大野城が築かれ、中央から派遣された人々は大野城で必要な政務を執りました。

その後に平野部に都市が築かれたとしても、当時の状況下で大野城がすぐさま不要になったわけでもないでしょう。大野城との連携効率を考えれば、第Ⅰ期の大宰府も北闕型だった可能性を捨てることはできないと思います。

(3) 羅城がある

天智天皇は白村江での大敗のあと、大宰府に水城を作らせました。図の左上です。

水城は版築で作られた城壁(土塁)ですから、これはまごうことなき羅城です。

羅城で都市全体を囲んだわけではありませんが、平城京や平安京のお飾りの羅城と違い、そこそこの長さのある、本物の実用性を備えた羅城が水城でした。

(4) 轍(わだち)の跡が発見された

2008年に大宰府条坊跡で8世紀中ごろの轍の跡が発見されたとの発表がありました("「古代大宰府に“交通ルール”!? 牛車と人 分かれて通行 奈良時代 道路にわだち跡」2008年10月9日 西日本新聞朝刊")

轍は三本の筋を引くように残っており、牛車が左右に分かれて通行していたこと、道路の中央を牛車が通り、その外側を人間が歩いていた可能性が示唆されました。

やはり、ここでもまた、車輪の伝来後に方格設計都市の建設が始まったのです。

6~7世紀の飛鳥朝は一代一宮くらいの勢いで頻繁に遷都を行いました。遣隋使も派遣していましたし、渡来人からの情報もあったはずですから、おぼろげながらにも方格設計都市を「知って」いたはずです。

しかし、方格設計都市の建設へ着手は7世紀末の難波京・大宰府・藤原京を待たねばなりませんでした。

おそらくそれは、車輪のついた乗り物の伝来や普及が海に阻まれて遅れたからでしょう。牛車は仏像や経典のように船に積みやすいものではないですから。

そして、車輪という概念と、その実装を見ないことには、クソバカにコストのかかる「計画都市」なるものの必要性は理解できません。

さらに方格設計都市を「知って」、さらに「必要性を理解」しても、まだ不十分です。方格設計都市の建設そのものに、十分な牛馬と荷車の供給体制が整うのを待たねばなりませんでした。

(5) 朱雀大路があった

古代大宰府が実際にどのような形状であったか。これはいまだ推定の域を出ませんが、Ⅱ期大宰府は北辺に政庁があり、その南に市域を二分する朱雀大路があったのは発掘調査により確定しています。道幅は平城京朱雀大路の約半分、35~36mでした。

これはきわめて重要なポイントです。

なぜなら、大宰府に天皇がいた(もしくは行った)ことはないのですから。すなわち、大宰府朱雀大路の道幅が広いのは天皇家の祭祀とは無関係ということです。

北闕型・条坊制・政庁前南北大路は中国都城制の三点セットです。逆に言えば北闕型・条坊制・政庁前南北大路を備えていれば、中国側から見て、属国の首都です。海をへだてた島国の細けェ政治体制なんざ知るかーい! てなもんです。

ですから、このとき九州には大和王朝とは別の九州王朝が存在し、大宰府は彼らの首都であったとする見解もあります。大宰府朱雀大路が幅広なのは、九州王朝の祭祀のためだったのでしょうか?

しかし、この仮定には無理があります。大宰府に最初の条坊が作られた時期は白村江の敗戦のあとと考えられるからです。

白村江の戦いの前あたりから、すでに九州には大和朝廷に対抗しうる政体は残っていなかったと見るべきでしょう。仮に九州に王朝があったとしても、それは磐井(いわい)の乱(527年)の鎮圧とともに滅亡させられたと考えるのが妥当です。

白村江の戦いの頃の九州に、大和朝廷へ抵抗できる勢力が存在していたら、唐を後ろ盾にして大和朝廷に立ち向かっていたに違いありません。

ところが白村江の大敗で大和朝廷が弱体化してなお、九州で大規模な反乱が起きてないのですから、そんな勢力はとっくに消滅していたと考えられます。

したがって、大宰府を都城制都市にしたのは大和朝廷です。存在したかどうかはともかくとして、九州朝廷ではありません。

方格設計都市としての大宰府は、大和朝廷とは別の朝廷の首都ではないのです。

都城制大宰府を築いた大和朝廷は、大宰府を「西の都」「天下一之都」などとおだてていますが、その一方で、ふたたび反乱を夢見たりしないよう、常に警戒していました。

以上、長々くどくど述べた理由により、大和朝廷は大宰府に国家運営で必要な機能を持たせなかったと推測できます。大宰府がシャドウ・キャビネットと化しては困るのです。

ところが! しかし! にもかかわらず! Ⅱ期大宰府には朱雀大路があった! これは困ったわけわからん。

朱雀大路の道幅が、統治者の祭祀――神(天)と対話し厄神をなだめ、神(天)の力をいただく儀式――に必要であったため幅広になったのだとしたら、その幅広道路を九州に設置するのは、きわめて危険です。

そんなん、誤解しちゃう。大宰府の長官が
「オレって準天皇?」
て誤解しちゃう。

自分たちを天下の副将軍と誤解した水戸藩が何をしたか、記憶に新しい話です。ん? そんなに新しくもないか。

のちの鎌倉時代。平安京の朱雀大路を勝手に耕して田畑にしてしまう連中に対して朝廷が
「朱雀大路は大嘗祭の要路たり」
と非難しています。

しかし、だからといって朱雀大路が大嘗祭のために、この道幅になったと短絡することはできません。

現代のわたしたちは、阿波踊りや、よさこい祭りや、岸和田だんじりや、東京マラソンなどのイベントで公道を使用します。それぞれ、その都市の大事なイベントです。

が、大事なイベントであるからといって、都市の幹線がこれらのイベントのために設計されたわけではありません。あたりまえのことです。

レインボーブリッジがループしているのは東京マラソンのランナーを楽しませるためではなく、航路の上では高さを下げられないので航路の無い場所でループを用い、ゆるやかな勾配を作らねばならなかったからです。

大嘗祭の行列が朱雀大路を通ったのは、阿波踊りやよさこいやだんじりや東京マラソンと同じです。そこがちょうどよい通路、宮の正門に向かう正面道だったからにすぎない、と考えるのが筋でしょう。

すでに申した通り、大宰府に天皇が来たことはないのです。にも関わらず朱雀大路があった……ということは、朱雀大路は天皇家の祭祀のためのスペースではなかったということです。

天皇が来ない大宰府に朱雀大路があるからには、大嘗祭にしろ、即位の儀にしろ、天皇家に関わる重要な祭礼のために朱雀大路が存在したと見ることはできないのです。

では、統治者に関係しないその他の祭礼に朱雀大路が必要であったと考えるのはどうでしょうか?

春の再生を喜ぶ祭り、夏の疫病をおはらいする祭り、秋の収穫を祝う祭り、冬の神霊を鎮める祭り、若い男女の婚活の祭り。

民間には様々な祭礼があります(ちなみに大嘗祭などの統治者の祭礼だって、そもそものルーツは民間の素朴な儀式に求められます。それがのちに格上げされたものです)。

しかし、民間の祭りレベルであれば、わざわざ政府がお金をかけて幅広の道路を用意するのも変な話です。もっと有効な税金の使い道があったことでしょう。大仏建立とか大仏建立とか、たとえば大仏建立とか。

他に、そのものズバリ、道饗祭(みちあえのまつり)という、道路からやってくる悪霊や鬼や魔を接待してお帰りいただくという祭りもありました。しかしこれは朱雀大路ではなく、都の四隅の大路路上で行われた祭祀でした(平安時代)。

つまりは、都城制における中心線南北大路が幅広である理由として、祭祀の線は見込み薄だということです。

残る一方、示威のためという線はどうでしょうか?

この考え方はシルラ・ワンギョン(新羅王京)で揺らぎましたが、シルラ・ワンギョンは他の都城制とはかなり異なる独自色の強い都城でした。

大宰府はなんといっても、九州の玄関口、ひいては大和朝廷の支配する古代日本の玄関口、海外との窓口です。威信を示してナンボの都市です。

外国人の入国管理施設でもある大宰府には3つの大きな役目がありました。

蕃客(ばんきゃく)
. 外国使節の管理・監督
帰化(きか)
. 帰化志願者の管理・監督
饗讌(きょうえん)
. 外交使節のもてなし・迎賓

特に「饗讌」は朝廷と大宰府だけが持つ機能だったのです(太宰府市教育委員会『大宰府条坊内の客館(8~9世紀)』)

だとすると、大宰府には国家の威信を示す機能があったと考えてしかるべきです。朱雀大路の道幅は、威信を示すために広くとられた……なかなか、筋が良いように思えます。

しかし問題があります。大宰府の朱雀大路の道幅は、Ⅱ期になって拡張された道路である可能性が高いのです。

大宰府は日本の玄関口です。これは最初からわかっていたことです。

白村江の大敗のあとの危機的状況がひとまず回避され、大野城の政治的機能を平野部に移すところから大宰府が始まりました。だとすれば、大宰府で国の威信を示さねばならないことは、最初からわかりきっていたことです。

戦争により唐との国交は途絶えていたのでチャンアン(長安)の情報は入ってこなかったかもしれません。が、邪馬台国の時代から魏晋期のルオヤン(洛陽)と四百年は交流があった日本です。北魏ルオヤンには幅広の政庁南大路である銅駝街が存在しました。

都城制の正確な作り方はわからなくても、幅広の道で国の威信を示すという概念くらいは知っていそうなものです。そんな概念が実在したのであれば、ですが。

しかしⅠ期大宰府は幅広の朱雀大路を作りませんでした。

このことは、幅広の道で国の威信を見せつけるという考え方そのものが間違いである可能性を示しています。

祭祀でも示威でもないとすれば、Ⅱ期になって道幅が拡張された。これは大宰府が発展し人口が増えたことで、都市生活上必要な理由が生じ、拡張されたと考えるのがもっとも自然な考え方です。

なぜその自然な考え方が否定されて、祭祀や示威が持ち出されるのでしょう?

それは、36mあるいは84mもしくは147mもの道幅を必要とする
「都市生活上必要な理由」
が簡単に見当たらないからです。

この疑問の解決こそが、最後の謎解きになります。

しかしあわてずあせらず、ようやく藤原京へ進みます。

■ せまい朱雀大路と広い横大路を備えた周礼型――藤原京

藤原京は大宰府と同時か、ほんのわずかに遅れて建設が始まったと考えられる、首都としては日本最初の都城制の都市です。

あ、いや、孝徳天皇の時代の難波京はたしかに首都だったわけですが、難波京を都城制都市に改造したのが天武であるならば、そのときの首都は飛鳥浄御原宮になり難波京は副都なのです。首都としての最初は藤原京であった可能性の方が高いと考えられます。

藤原京は東西5.3km四方の広さがあり、平安京や平城京よりひと回り大きい、古代日本では最大面積の都市だったことがわかっています。

発掘調査では「くびき(牛馬が車を引くための横棒)」や、重い荷物を運んだために病変した馬の骨などが見つかりました(奈良文化財研究所『藤原宮跡出土馬の研究』)。やはりここでも車輪の伝来とともに方格設計が……あ、もういいですか?

ともかく、藤原京の建設は重労働で、車輪と牛馬なしにはできない大事業でした。これはすなわち、牛馬の供給が安定してきたことをも意味します。車輪だけ伝来してもエンジンである牛馬がいなくては、どうにもならなかったのですね。

54504_藤原京

図 5.4.5.4: 藤原京のレイアウト

引用元 : File:Fujiwarakyo2.gif - Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Fujiwarakyo2.gif


では、毎度おなじみに、藤原京の特徴を以下に記します。

(1) 羅城は無かった

先に述べた通り、大和朝廷が作った首都としての都城制都市はいずれも実用的な羅城を持ちませんでした。天武は難波京に羅城を作らせた(または作る計画を立てた)と日本書紀にありますが、今のところ見つかっておりません。

平城京と平安京はお飾りレベルの羅城を羅城門の左右にちょこっと作っていました。

特に藤原京では宮が大和三山に囲まれており、これはシルラ・ワンギョン(新羅王京)と同じく山を天然の土塁として羅城の代わりとする防衛計画ではないかと思います。

藤原京の建設にシルラ・ワンギョンが影響を与えたかどうか。これについては懐疑的な見解が多いようです。

大和朝廷はシルラ(新羅)を見下していたので、参考にするなどありえないと。

実際に大和朝廷がシルラ朝廷に勝っていたかどうかはさておき。唐との関係が険悪になってきたシルラです。彼らは日本まで敵に回す愚は避けました。シルラは唐にも日本にも朝貢(ちょうこう)して、形だけは服属するふりをしたのです。朝貢された大和朝廷がうぬぼれてシルラを下に見ていたのも無理はありません。

そんな大和朝廷は奈良時代、数年おきに
「あの生意気なシルラをこらしめたる~戦争準備じゃあ~」
と息巻いていました。でも、実際に攻め込むことはありませんでした。口では強がっても、白村江の大敗は相当にトラウマになっていたのでしょう。

8世紀末には唐の使者をもてなすにあたって、シルラではこうしていたパルヘ(渤海)ではこうしていた……と参考にしまくってます。情報収集しまくりです。シルラを下に見つつも、それはそれとして、参考にするしないは別問題だったのです。

都市建設においても、唐との国交が途絶えていた藤原京建設時です。シルラ・ワンギョンを知る渡来人の話を参考にした可能性は当然、あると思います。

(2) 北闕型ではない

藤原京の宮は都市の北辺ではなく中央に据え置かれました。

これは通説では、唐との国交が途絶えていたため情報不足であり、伝統的な周礼の述べる理想形を採用したとされています。

そういうことも、なきにしもあらず、という気はします。

実際、唐との国交が途絶えた状況でありますから、渡来人からの伝聞で北闕型を知っていたとしても、確実な文献資料である周礼の方を重視したというのは大いにありえることです。

しかし。

すでに見てきたように、日本の都城制として藤原京より先に作られた前期難波京は北闕型でした。そして朱雀大路相当の南門大路(仮称)があった可能性がきわめて高いとされています。

大宰府はⅠ期に北闕型であった証拠は見つかってませんが、完全に否定される材料もまた、ありません。

前期難波京を見る限り、大和朝廷は北闕型を実装できています。

多少の情報不足はあったかもしれませんが、難波京建設時点で大和朝廷は北闕型を理解していたのでしょう。

ならば藤原京は情報量不足や理解不足ではなく、熟慮の末あえて北闕型ではなく周礼型を選んだと考えるべきです。

律令だって大和朝廷は自分たちで取捨選択して日本に合わせてローカライズしました。藤原京が周礼型なのも、知識不足や古典崇拝ではなく、当時の技術官僚の練りに練った計画だったのではないでしょうか?

そもそもシルラ・ワンギョンも北闕型ではありませんでした。北魏時代のルオヤン(洛陽)も外城を外郭ラインと見れば北闕型ではありません。

隋・唐時代のチャンアンが有名すぎるため北闕型が絶対的なルールのように錯覚してしまいますが、実際には例外の許されるゆるいルールだった可能性があるでしょう。

藤原京の水源は飛鳥川で、南東が高く北西が低い地形です。こういう地形で北辺に王宮を置けば、庶民が汚したあとの水を殿上人が使うことになってしまいます。

北闕型が絶対的なルールではないとすれば、そういう都市生活上の理由で宮を中心にもってきた可能性が考えられます。

(3) 朱雀大路はあるが藤原京において道幅最大の道路ではなかった

藤原京の朱雀大路の道幅は24m程度でした。……おやおや。これは困ったことになりました。

図 5.4.5.4を見ると、下ツ道、中ツ道、横大路がけっこうな道幅を持ってそうに見えます。これらの道の道幅はどれくらいだったのでしょう?

下ツ道はのちの平城京の朱雀大路につながる道で、道幅は34.5mでした。路面幅は18mですから、左右に6~8mの水路をそなえていたことになります。水運や貯水池も兼ねていたのでしょう。

中ツ道はくわしいことが判明していませんが、23m~28mほどの道幅だったと推測されています。藤原京の朱雀大路と同程度か、やや広いレベルです。

横大路にいたっては、中ツ道を上回る道幅42m、路面幅36mでした。

これらとくらべて、24mというのは、いたって普通の大路の道幅です。のちの平安京の普通の大路の道幅が24m。それと同じなのです。

これはいったい、どう解釈したらよいのでしょうか?

やっぱり前言撤回! 唐との国交断絶により、情報が限られていたので朱雀大路を幅広にするお約束がよくわかっていなかったのだ!
……なのかどうか。でも、だとするとなぜ、横大路はこれほど広いのでしょう?

横大路の路面幅は36m。一車線2.5mで考えたら14車線です。牛馬や二輪荷車がやっと実用レベルに普及したばかりの古代日本で、これほどの道路を必要とする交通量はありません。

だとすれば、やはり祭祀か示威目的だったのでしょうか?

祭祀だとすれば、それはどういう内容でしょう? これほど幅広の道を必要とする祭祀が飛鳥時代日本にあったものでしょうか?

大嘗祭は藤原京時代から始まっていたとされますが、標山(しめやま)引き回しがこの頃すでにあったかどうかはわかりません。

仮にあったとしても、この手のイベントがだんだんエスカレーションする傾向にあると考えると、始まったばかりの藤原京時代には、ずっと小規模で地味な引き回しだったろうと推測されます。

藤原京の推定人口は3万人とされます。

大雑把に横大路を5km×36mで計算しても0.18km²です。55000人が収容できる東京ドームで計算して約4つ分の広さです。

住民参加率100%のイベントがあったとしても、空席率85%以上です。たとえ古代の人々の生活の中心に信仰があったとしても、これほどの無駄を許すほどの余裕は無いでしょう。じゃなきゃ、病変するほど働かされた馬がかわいそうです。

示威行為はどうでしょうか? 仮に朝鮮半島あるいは中国の使節は西門から藤原京に入ったと仮定しましょう。ありえないと思いますけど。ともかく、横大路の道幅を大きく作って、国威を示したと考えられるでしょうか?

しかし、たとえ藤原京への入京が西からでも、藤原宮そのものの正面玄関は南の朱雀門です。どのようなルートを通るにしろ、最後は朱雀大路から朱雀門に入るわけです。

その宮の正面道である朱雀大路が、横大路の半分程度の道幅……うーん、これで外国の使者は
「ははーっ」
となるでしょうか? 道の幅におそれいるという概念があったとして、ですが。

ここでもやはり、祭祀や示威行為では、この異常な道幅の説明はつかないのです。

物流や交通アクセスで見るのはどうでしょうか? 藤原京は奈良盆地の南側に位置します。難波津で上陸して入京する人も、陸揚げされた物資も、原則として北西からやって来ます。

うむ! 南門まで遠回りさせてはヤマトに運輸の人たちが大変だ! そうだ横大路を幅広に作って、こちらを物流のメインにしよう!……なんて考えたのかもしれませんが、横大路より南に宮があるのですから、この考え方も分が悪そうです。宮の正面玄関は南の朱雀門で、宮の北を通る横大路からは回っていかねばならないのですから。

純粋に物流のために横大路が幅広にされたのだとすれば、宮は北闕に置かれていそうなものです。

軍隊が出撃するために幅広の道が必要だったという考え方はどうでしょうか?

西には重要な副都の難波京があります。東は名張から鈴鹿関を経て東国へ向かう道へと連なります。いずれもすみやかな出撃を考えると、横大路の道幅にはそれなりの意味がありそうです。

が、これは、藤原京にとっては意味がありますが、他の都市では矛盾します。

チャンアンを作った隋は、建国後も北方遊牧民国家との戦いを継続しました。では、チャンアンの朱雀大街が都市の南に向かうのは、火急の出撃に有効でしょうか? とてもそうは思えません。

大宰府においても、防衛線である北西の水城や北の大野城へ急いで兵を向かわせるのに、南へ向かう朱雀大路が役立つわけがないでしょう。

なんなんでしょう? この八方ふさがり!

(4) 藤原京は短命都市に終わった

694年に建設が開始された藤原京は、たった16年で捨てられて710年に平安京へと遷都されました。

藤原京は平城京よりも広い城域の巨大都城でした。当然、おカネをめっちゃつぎ込んだはずです。でも、捨てざるをえませんでした。藤原京の設計担当者はふるえが止まらなかったんじゃないですかね。

なぜ藤原京が捨てられたのでしょう? さまざまな説が提唱されています。通説では、藤原京にはインフラになんらかの問題があり、疫病などが蔓延(まんえん)したからだとされます。

そこへ遣唐使が戻ってきてナウくてイマいトレンディでイケててグルーヴィーでヤヴァくてチェキラでエモくて萌え萌えキュンな、唐の首都チャンアンの情報を日本に伝えた。

地味に有能だった元明天皇は、派手に有能だった藤原不比等の提言に従い、コンコルド効果に惑わされず失敗作の藤原京に見切りをつけ、平城京を作って遷都したのである……というわけです。

(遣唐使が戻る前から、難波京ではわりとちゃんとした北闕型都市を実現してるのが気になりますが)筆者も、まあ、そんなところだろうな……と思います。

ここで重要なことは、巨額を投じた藤原京を惜しみなく捨てられるほどに、伝えられたチャンアンのプランが魅力的だった(もしくは藤原京がポンコツ過ぎた)ということです。

実際に、平城京は約百年ほど、なんとか首都であり続けました。ときどき恭仁京や難波京や紫香楽宮に政治機能を移動させることもありましたが、結局は平城京に戻ってきています。

この事実は平城京がチャンアン型プランを正しく理解していたことを物語ります。うん、失敗は成功の母。

だとすれば、藤原京の特徴――宮が都市の中心にある、朱雀大路ではなく、横大路が最大の道幅を持つ――は、インフラとして、何かが間違っていたわけです。

陰陽五行が伝えられ、北極星を重視する概念に感化され、北越型にしなければならない、朱雀大路は道幅70mにしなければならない……と、大和朝廷が考えたとしましょう。

しかし、それならⅡ期大宰府のように、宮を北辺に移動させ、朱雀大路を拡張すればよかったはずです。

もちろん、ここまで何度か述べてきた通り、すでに住人がいたら、執政者とはいえなかなか立ち退きを強制できないという障害は立ちはだかります。

しかし、奈良時代の大和朝廷は絶頂期でした。その「なかなか」をやってのけるパワーがありました。そのうえ、政庁を移動させ、すでにある朱雀大路を拡張させるだけですむのですから、コスト的には新たに都市を作るより安くつきます。

にもかかわらず、藤原京は捨てられました。

だとすれば捨てるしかなかった理由は祭祀や示威行為上の問題ではありません。

都市住民の生活にかかわる問題。宮の移動や朱雀大路の拡張ではどうしようもない問題。それが誰の目にも明らかになったのでしょう。

中国式の都城制はどういうものなのか、やれば作れるか……表面的には簡単に会得して、難波京で実現できました。

しかし、
「なぜ、宮が北なのか? なぜ、中心線南北道が幅広なのか?」
という原理的な部分の理解はできていなかった。誤解があったのです。だからこそ藤原京は間違ったのです。

そして、原理をマスターした留学生が帰ってきました。それで明らかになったのは、藤原京は根本の部分で間違っており、捨てるしかないということでした。

いったい、藤原京の犯した間違いはなんだったのでしょうか? なぜ、都市を分割する中心大路は南北方向でなくてはならず、東西方向ではいけなかったのでしょうか? その合理的な理由とは?

と、もったいぶりながら解決は後回しにして、次は原理を理解して正しく作った成功例、平城京へと進みます。

■ せっかく作った幅広の朱雀大路が活用されない――平城京

いよいよ、平城京です。ここが国の中心だった約百年、大和朝廷は安泰でした。歴代天皇の中には、なにか具合が悪いことがあったのか恭仁京(くにきょう)や難波京や紫香楽宮(しからぐう)に遷都する人もいましたが、結局は平城京に戻ってきました。

のちの平安京のように大火や大規模テロに悩まされなかったピースフルな約百年がここで運営されたのです。

結果的から言えば、平城京という計画都市はまずまず大成功だったと言えます。中臣(なかとみ)あらため藤原鎌足の息子・藤原不比等、あんたガチで有能だ!

54505_平城京

図 5.4.5.5: 平城京復元図

出典: 小澤毅『日本古代宮都構造の研究』


では、計画が計画通りにいったらしい成功シティ・平城京の特徴を見ていきましょう。

(1) 北闕型になった

見ての通りです。藤原京の周礼型を改め、北闕型になりました。
通説では、唐から戻ってきた留学生たちによって最新の道教や陰陽五行がもたらされた結果、北極星を神格化した北辰崇拝が受容された結果だとされます。

仏教を受け入れるかどうかでは揉めに揉めた大和朝廷だったのに、北辰崇拝にはわりとすんなり染まってしまうとは、どういうことなんでしょう。

そもそも大王(おおきみ)から天皇へと呼称を変えたのも、北辰崇拝の影響によるのだそうです。だとすれば、北辰崇拝思想は平城京建設よりも半世紀前、推古天皇の時代から始まっていた可能性があります。

しかし、言うまでもなく天皇家は太陽神・アマテラスの子孫です。のちの代々の天皇の詔(みことのり)を読んでも、その意識に変化は見られません。

彼らの言葉は痛々しいほど、神通力のない自分を責める文言であふれかえっています。ある程度、テンプレだったのでしょうけどね!

テンプレだと差し引いて考えても、自分が太陽神の子孫だという自負がなければ出てこない言葉だと思えます。

それほどに太陽神の子孫というプライドがあったのであれば、北辰崇拝なんて仏教以上に受け入れがたいものだったのではないのでしょうか?

いや、中国は中国でどうでしょう。北辰崇拝の結果、北を敬って政庁を都市の北辺に置く――これはどうでしょうか?

北がエラいと考える宗教観は、それこそ匈奴だの突厥だの北方遊牧民族を自分たちより上位だと見る風潮に直結しなかったのでしょうか?

商(殷)も周も魏も唐も、北方騎馬民族の影響が強かった政権です。北方由来の宗教観が政治に影響していたのは当然でしょう。

しかしながら、現実問題として、商(殷)も周も魏も唐も北方民族と敵対し、彼らから国土を守るために戦っていたという事実を忘れてはなりません。北魏は北方遊牧民に由来する鮮卑が建てた国ですが、一方でさらに北方に存在する柔然と戦い続けたのです。

安易に北を上位に置く宗教観を採用しては、国家の安全がおびやかされかねないと思うのですが。

第一、天子は北に坐して南を向いて政治をする……というのがそんなに重要なルールなら、首都は可能な限り北のギリギリに置くべきでしょう。

のちの北京のように。

でも、ルオヤン(洛陽)もチャンアン(長安)も、そんなに北に位置しているわけじゃありません。むしろ北魏の創業の地が現在のモンゴル自治区であることを考えると、ルオヤンは南のギリギリ、南朝との境界線に近い位置です。

すでに見てきたように、ルオヤンが北闕型になったのは魏晋の時代です。しかし、北魏時代の外城は北側に拡張されています。外城を外郭ラインと見れば、北魏ルオヤンは北闕型とは言えません。そして、北魏は北方騎馬民族である鮮卑族の拓跋氏が建てた国でした。

隋・唐時代のチャンアンは北闕型で、これを設計したのは隋です。

隋を建国した楊堅は楊氏、つまり漢民族出身を自称していますが、多くの学者はこれを疑っています。おそらく鮮卑族の血が混じっていただろうとする学説が主流です。

したがって、隋は三百年ぶりに中国を統一した北方遊牧民族の国家であり、政治システムも祭祀も、北方遊牧民族のものであったという論調が大勢を占めています。

これらの論は、なぜか楊堅の業績や政治内容を無視しているように思えます。

北周を倒した楊堅を支えたのは、北周を見限った漢民族たちでした。

北周もまた鮮卑系の国だったわけですが、楊堅はその鮮卑系の北周皇室を皆殺しにし、北周の宇文泰が行った漢民族の鮮卑化政策をやめさせました。鮮卑風に改名した漢民族を、元の名前に戻させたのです。

楊堅に鮮卑の血が流れていたとしても、その政治内容が鮮卑的だったとは言えません。漢民族の支持を後ろ盾にして三百年ぶりの統一王朝を実現した楊堅です。皇帝になった彼がまず行ったのは長年、対立してきた南北の融和でした。そんな彼が鮮卑系の北周の政治体制・宗教観を踏襲して、自分の支持基盤である漢民族を挑発するでしょうか?

似たような例は時代を少し戻りますが、北魏においてもありました。

鮮卑の建てた国である北朝北魏の第6代皇帝・孝文帝は南への拡張の過程で、鮮卑風の名前を改め漢化政策を推し進めたのです。

つまり、出自が政治体制や風俗・宗教儀式に強く影響するとは、必ずしも言えないのです。

コンスタンチノープル(のちのイスタンブル)を陥落させたオスマン・トルコのメフメト二世は在住のギリシア人やキリスト教徒を手厚く保護しました。

さらにダメ押ししましょうか? 誰もが知ってる北方遊牧民の打ち立てた大帝国・元。チンギス・カンの孫・フビライが建てた、あの王朝。その首都であったダードゥー(大都)は北闕型ではなく、宮が中央に置かれる周礼型でした。

これらの事実をまとめると、北方遊牧民族系だから北辰崇拝で北闕型、という決めつけがそもそも間違っている可能性が考えられます。

宗教的な理由とは別の理由で、宮が北辺に置かれた――この可能性の検証は、はたして十分でしょうか?

平城京以外の話が長くなりすぎました。ここらで平城京に戻りましょう。

藤原京とちがって、奈良の地は北が高く南が低い土地です。北辺に宮があれば、上流の庶民が使った汚れた河川を下流の殿上人が使うなんてことは起こりえません。

また、古代の奈良盆地には、巨大な湖がありました(当時の名称は不明ですが、現代の我々は便宜上、それを奈良湖と呼びます)。平城京が建築されたころはだいぶ干拓が進んでいましたが、それでも大雨が降ると、城域の南地区は洪水に見舞われました。

しかし、北辺に政庁があれば、政庁が洪水被害を受けるリスクは少なくなります。南の庶民の住宅地はともかくとして(ひでえ)。

逆に、藤原京では、北辺に政庁を置いてしまうと洪水リスクが増加してしまうので周礼型を選んだ可能性があります。

平城京と平安京にとっては、北闕型を採用することで利水的なメリットがあったと言えます。

では、水利こそが北闕型採用の理由だったのでしょうか?

いえいえ。そうでもなさそうです。なぜなら、お手本となった隋・唐チャンアンは南高北低の地形であり、利水のメリットは薄いと考えられるからです。

……というところで、謎解きは最後のお楽しみです。

(2) 朱雀大路が道幅73mに。にも関わらず、活用されていない

藤原京ではけっこう狭かった朱雀大路ですが、平城京ではかなり幅広になりました。その幅73m。それでもチャンアンの朱雀大道の約半分ですけど。

藤原京朱雀大路の3倍以上になってるわけですから、これこそ遣唐使の持ち帰った成果であり、藤原不比等ら大臣たちも
「なるほど! そりゃまったくその通り! 採用しよう」
と納得する理由があったのでしょう。でも、その理由がよくわからない。祭祀にしても示威目的にしても矛盾だらけ、という。

ともかく現代の我々の感覚では異常としか思えない道幅です。当時の交通量をさばくのに、これほどの道幅は必要ありません。

祭祀でしょうか? 示威でしょうか?

どちらの理由だとしても、もしくはどちらの理由ではないとしても、もう、文字とか紙とか木簡とかを使いこなすようになった大和朝廷です。

応仁の乱で史料が散逸した平安京よりも、史料状況が良い面もあります。

奈良時代の約百年の政治内容は『続日本紀』という書物にことこまかに記録されてました。

これは信頼できる奈良時代の基本資料ですから、この本をひもとけば、この異常な道幅がなんのために使われたか、見つかることでしょう。

……と思ったアタシがおおまちがい。

ちょっとアンタ、『続日本紀』を「朱雀」で全文検索してごらんなさいよ! たった7件しかヒットしなくてびびるから! おまけにそのうち2件は朱雀門や朱雀大路とは関係ない朱雀だから、実質5件よ!

平城京時代の約百年、毎月毎日どこでどういう政治をやったか、どんな出来事があったか、細かく書いた記録の中で、わざわざ道幅73mに作った大事な大事な朱雀大路もしくは朱雀門が出てくるの、たったの5回よ! うち2回は平城京以外の朱雀大路または朱雀門だから、正味3回よ!

びっくりしてオバチャン口調になっちゃったわ! もう!

それじゃあ、その五回の内容とは?(素に戻りました)


①和銅三年(710)一月朔日

> 隼人蝦夷等亦在列。左將軍正五位上大伴宿祢旅人。副將軍從五位下穗積朝臣老。右將軍正五位下佐伯宿祢石湯。副將軍從五位下小野朝臣馬養等。於皇城門外朱雀路東西。分頭陳列騎兵。引隼人蝦夷等而進。

隼人と蝦夷の連中を朱雀門の前に並べて天皇陛下が謁見(えっけん)した。左右にズラリと将軍や兵士を並べて威圧しながらな! という話です。

平城京への遷都は同年3月ですから、これは藤原京での話ですね。

なるほど、これは示威行為のように見えます。やはり、朱雀大路は示威行為のためだったのでしょうか?

②霊亀元年(715)一月朔日

> 陸奥出羽蝦夷并南嶋奄美。夜久。度感。信覺。球美等來朝。各貢方物。其儀。朱雀門左右。陣列皷吹騎兵。

東北の蝦夷と奄美・屋久島・徳之島・石垣島・久米島の人々が訪朝。朝貢の儀式をした。朱雀門の左右に楽隊と騎兵を配置してもてなしてやったった……という話。

ここでもやはり、示威行為のために朱雀門の前が使われております。

やはり、朱雀大路の道幅は示威行為のためだったのでしょうか?

しかし、多く見積もっても二百人いかないレベルでしょう。幅73m、長さ約4kmもの道路が必要なイベントには見えません。

相手が隼人や蝦夷や南方諸島の、大和朝廷から見て征服した後進国の人々ばかりで、シルラ(新羅)やパルヘ(渤海)や唐の使節ではないのも気になります。

自分よりはるかに格下へ威張るためだけに、幅73mもの道路を用意したのでしょうか?

③天平六年(734)二月朔日

> 天皇御朱雀門覽歌垣。男女二百卅餘人。五品已上有風流者皆交雜其中。

平城京で歌垣(当時の婚活ダンスパーティー)が行われた。若い男女が二百四十人ほど、ギラギラガツガツ、ムラムラモンモンと歌い踊る様子を天皇陛下は朱雀門からご覧になられた……という話。悪趣味かよ。

朱雀門からご覧になったのですから、歌垣は朱雀大路で行われたのでしょう。

この約二百三十余人が、『続日本紀』で数字のわかる朱雀大路最大イベントの参加人数です。わざわざ庶民を含めた人数を記したくらいですから、平城京での最大規模イベントだったと見ていいでしょう。

それが、約二百三十余名。

道幅73m、距離約4kmの巨大道路の圧倒的無駄づかい。

そして、歌垣という風習は婚活です。個人にとってはきわめて重要なイベントではありますが、天皇家や国家の祭祀には関係ありません。

民衆の幸せは、すなわち国家の安泰かもしれません。が、このレベルのイベントであれば、イベントのために朱雀大路の道幅が必要だったと考えるのは難しく思えます。

のちの宝亀元年(770)年にも同規模の歌垣が行われたという記述が『続日本紀』に見られますが、このとき天皇は平城京におらず、離宮である由義宮に滞在中でした。

したがって歌垣は由義宮で行われたと考えられます。朱雀大路は歌垣のためにあったのではないのです。

④天平十六年(744)三月十四日

運金光明寺大般若經致紫香樂宮。比至朱雀門。雜樂迎奏。官人迎礼。引導入宮中奉置大安殿。請僧二百。轉讀一日。

大般若経を紫香楽宮(離宮)に運ばせた。朱雀門のあたりで楽隊が出迎えた……という話。文脈から判断して、この朱雀門は紫香楽宮の朱雀門でしょう。平城京の朱雀大路は無関係です。

⑤天平十六年(744)十二月

度一百人。此夜於金鍾寺及朱雀路。燃燈一万坏。

新しい僧を百人、認可した。この夜、金鍾寺(のちの東大寺)から朱雀路に一万の火が灯された……という話。

④で見られるように、天皇陛下は紫香楽宮におられましたので、ここの朱雀路とは
「紫香楽宮に朱雀大路があったのかも」
という可能性があります。しかし金鍾寺(のちの東大寺)が出てくるので平城京の朱雀大路と考えるのが一般的な解釈です。

僧を認可するのは政府の権利でしたから、これは国家の祭祀と見てもいいかもしれません。

認可された僧は百名でも、一万もの灯火とは大規模な話です。これは朱雀大路でしかできないイベントのように思えます。

しかし、朱雀大路に大量の火が灯されたのは、この一回しか『続日本紀』に見つけられません。

単発的なイベントであり、この祭祀が都市計画に盛り込まれていたとは考えられません。

以上です。……ない。ないないない。祭祀も示威も、ほんのお情け程度。

いったい、平城京の朱雀大路はなんのためにこんな幅広に作られたのでしょう。奈良時代の基本資料、『続日本紀』でそれがわからないんじゃ、もうお手上げです。

この際、万葉集でも何でもいい、この朱雀大路のクソ広さや、ここで行われた催し事を詠んだ和歌があったでしょうか? 筆者は和歌にうとくて、何も思いつきません(やーい役立たずゥ!)。

そういえば、外国の使者はどこへいったんでしょう? 朱雀大路で外国の使者に国威を見せつけていなかったとしたら、彼らはどこでどのように応対されたというのでしょう?

――実はこれは都の外、羅城門の前だったのです。

遣唐使の出発や帰還の式典も、海外の使者の出迎えの儀式も、対外的な儀式は基本的に都市の正面玄関である羅城門の前で行われたのです。

そりゃ、そうでしょーよ! だって玄関ですもん!

言ったじゃないですか。威信を示すなら王宮や神殿や門を巨大にするほうが効果的だって。道幅を広くして威信を示すだなんて、伝わらないって。ツッコまれるまでもなく、大和朝廷はそのことをわかっていたんです。

でっかいでっかい羅城門の前に楽隊や兵隊を並べて外国人使者を出迎えた方が、はるかに効果的だって。

せっかく、おためごかしで作った門の左右の羅城も、活用しなきゃ意味がない。いったん都市に入ってしまえば、ふりかえらなきゃ羅城は見えなくなっちゃう。それじゃあ作った意味がない。

アルベルティも『建築論』で言ってます。大きな道を都市の「外に」作れば威信を示すことになると。

すると、①や②はどう見るべきなのでしょう?

①に関しては、平城京遷都直前ということを考えなければなりません。このとき藤原宮の建物の多くは移築のため解体されて建設中の平城宮に運ばれていましたから、宮内でのもてなしができなかったのかもしれません。

しかし、②も踏まえて考えると、彼らが宮に入れられないほどの未開人だったから、という可能性もあるでしょう。

いずれにせよ、のちの時代には蝦夷も隼人も宮の中で朝貢の儀式が行われています。朱雀門の前で行われた、このふたつのケースは例外処理であり、朱雀大路の道幅が儀式のためにあったとはと考えられません。

というわけで、平城京において朱雀大路の道幅は73mへと大幅に拡張されましたが、その理由はますますもって、祭祀にも示威にも求めるのが難しくなりました。

鎌倉時代の朝廷は
「朱雀大路は大嘗祭の要路たり」
と言っていますが、『続日本紀』において奈良時代の大嘗祭に朱雀大路が関わったとする記述はないのです。

宮の正面道ですから、大嘗祭で供物を運ぶ人々の行列が朱雀大路を通行することは当然にあったでしょう。平安京での大嘗祭でも、行列は最後に朱雀大路を通って大内裏へと入りました。
しかし、『続日本紀』に大嘗祭の行列が通った道は記録されませんでした。

それは、朱雀大路に単なる通路以上の意味がなかったことを示唆します。宗教的な意味はなく、他の道路と同じ存在だったことを意味しているのです。鎌倉時代の朝廷は
「そこ、通るから、勝手に田んぼに変えないでよ」
と言っていただけと読むべきで、朱雀大路で祭祀をした証拠にはなりません。

(3) 大路に面した場所に門を作らせなかった

平城京~平安京では大路に面したところに門を作ってはいけませんでした。

このルールはのちに緩和され、三位以上の身分に限り門を作ってもよいことになりました。

ともかく、大路に面したところに門を作れなかったのですから、ちょっくら不便だっただろうな、と思います。

また、
「条坊を囲む築地塀に穴をあけてゴミを捨てたりするバカがいるんですけどー! 今度から見つけたら激おこぷんぷん麻呂!」
みたいなことも朝廷はおふれを出してます。

これらの政策は、やっぱり国家の威信を見せつけるためだと説明されます。またか! またなのか!

道じゃ! デカくてかっこいい道を見せつけるんじゃ! 庶民の門があって小汚い庶民が出入りしてたら恥ずかしいんじゃ! 壁に穴が空いててゴミとか見えたらもっとはずかしいんじゃ!

……なんだか、オリンピックにむけてホームレスや路上喫煙を外国人から見えないようにしよう、みたいな話になってきました(そうかしら?)。

朱雀大路は国威を見せつけるため! そう推測したからには、その説で泳ぎ切らなければ! みたいな悲壮感さえ感じます。

なぜ、筆者がこの考え方に懐疑的かというと、門を作るのを禁止しているのが朱雀大路に限ってないからです。大路すべてが対象だからですね。

外国人に威信を見せつけるのが目的なら、外国人使者が通らないような都のはしっこの大路まで対象にする必要はありません。

素朴な疑問があります。大路に面した側に門が見当たらなくて、人通りが少ない状態に、使者は感心するのでしょうか。

道幅73m。左右に見えるのは築地塀と、側溝と、街路樹だけ。人通りは閑散としている。門前雀羅(もんぜんじゃくら)を張れるほどに……あ、その門が無い……。

これに「ははーっ」となるのでしょうか。

筆者の主観で申せば、大小さまざまな門がひしめきあい、路上には老若男女、貴族から底辺まであふれかえり、鼓腹(こふく)をポンポコ打ち鳴らし、大地を撃壌(げきじょう)して踊ってる人々が見られる大路の方が、よっぽど国家の勢いを感じます。

朱雀大路が庶民に使わせない道路だったのならば、都市の中に存在しなくてもいいのではないでしょうか?

目的が祭祀にしろ示威にしろ、京の外に幅広の道路を用意すればすむ話ではないでしょうか?

そうした方がより多くの宅地が都市内に生まれ、全員が幸せになれるでしょうに。

大路に面したところに門を作らせない、条坊の壁に穴をあけたら罰する……というのは、両方とも大路の築地塀の維持管理の話です。

そして、これが都市内のすべての大路に関する規定なのですから、これはやはり都市住民の生活のために必要な措置であったと推測するべきでしょう。

謎ときは実利面から考えた方が良さそうです。

(4) 朱雀大路は穢れていた?

天皇が離宮などへお出かけすることを行幸と言います。奈良時代から平安時代、天皇は行幸するときに必ず輿(こし)を使いました。牛車はNGだったのです。

なぜなら、道路とは穢れた場所であり、車は車輪を介して穢れた路面に接地しているから……という理屈なんだそうで。

じゃあ、輿だってそれを持つ人間は道路に接地してるのでは? と思いますが、モノはダメだけど人間ならOKみたいな感覚があったんでしょうね。

パソコンはダメ、直筆は心がこもってる、みたいなアレの奈良・平安時代バージョン。

なんでこの話をしたかというと、つまり、中世の道路は穢れていたことを示すエピソードだからです。

牛車が普及しますと……いや、牛車でなくとも陸運の主力は牛馬なのが中世です。彼らは悲しいかな、教育が足りてないので路上でジャアジャアブリブリと垂れ流します。

中世都市の道路は穢れていたのです。

人間様はどうでしょうか。

こちらはさすがに牛馬とちがって教育がありますから、往来のど真ん中で垂れ流すなんてマネはいたしません。

お行儀よく、ちゃんと道路の端へ寄って、側溝でジャアジャアブリブリいたします。

貴族なんかはたいしたもんで、側溝から水を引き込んで自宅の庭のすみっこに水洗便所を作って、そこでジャアジャアブリブリいたしました。汚れた水はどうなるかというと、元の側溝に戻るのです。

それでもちゃんと水が流れてればよろしいのですが、動力ポンプのない時代ですから、渇水すれば側溝がクソ溜まりと化してしまいます。これは臭い。死んだ牛馬も側溝に捨てられてたようですから、排水溝がつまって汚水が路面まであふれるのは日常茶飯事でした。

外国からの使者も、ちょっと斜に構えたツウぶった御仁ならば
「これこそ都市の香りである」
なんて逆にほめるかもしれませんが、まあ、ほとんどの使者は顔をしかめたでしょう。

側溝に大小便をしたり、ゴミを捨てたり、牛馬の死骸を捨てても特にとがめられたりはしなかったようです。

となると
「築地塀に穴をあけるの禁止」
というおふれの理由を
「穴があいてたら外国の使者に威信が示せない」
とするのは、ちょいと説得力が足りません。

そこらじゅう、ウンコ・オシッコ・ゴミ・死骸だらけなのに、壁の穴くらいで何を今さら……てな話でしょう。

さて、臭いだけなら顔をしかめるだけですみますが、不潔な場所はえてして伝染病の発生源となるのでございます。

現代の我々はそれを細菌やウイルスのせいだと理解しておりますが、中世人はなんだか目に見えない怖い「穢れ」だとして、恐れました。

ところが古代人も中世人も、理屈は知らなくても観察眼だけは無駄に持ってやがりまして。

疫病は道路からやってくることに気づいたのです。

当然ですね。道路が汚染されてて、道路を使った人が汚染物質を媒介(ばいかい)して拡散させているのですから。表面上は目に見えない「穢れ」や「厄神」が都市の道路を巡回しているように見えます。

のちの祇園祭(京都御霊会)が、都市を巡回して魔を祓う形に向かうのも、無理からぬことでした。

ということであるならば、そんな穢れた場所で大事な祭祀をするのだろうか? という疑問が沸くのは当然でしょう。

大嘗祭の行列は朱雀大路を通りますが、これは宮の正門につながる正面道だから仕方がありません。好む好まざるに関わらず、通るしかないのです。

その際に「造酒児(サカツコ)」と神聖な稲穂は穢れがうつらないよう神輿にのせて運びました(牛車では穢れてしまうことは説明しましたね?)。

大嘗祭の行列で引き回された標山(しめやま)をマネした祇園祭(京都御霊会)は平安京時代に始まった祭祀ですから、朱雀大路の成立とは無関係なのは明らかです。山鉾がミヤコの道路をねり歩くのは、道路からやってくる魔(穢れ)を祓(はら)うためなので、当然です。

しかし、それ以外の祭祀はどうでしょうか? わざわざ穢れた路上でやらなければならない祭祀とはなんでしょうか?

天皇家にとって必要な祭祀ならば、宮中でやればよいことです。『続日本紀』では宮中の朝賀毎年、五位以上の官人が集まっています。それくらいのスペースがあったのですから、貴族全員参加くらいの祭祀であれば、なにも朱雀大路は必要ありません。

庶民にも見せる必要がある祭祀であれば、のちの京都御霊会の最初が神泉苑で行われたように、路上ではない清浄な場所で開催するものでしょう。

その京都御霊会も最初は「特別に」庶民が見るのを許可したといいます。つまり、原則として朝廷が行う祭祀は庶民に見せるための儀式ではないのです。

庶民に祭祀を見せないのが原則ならば、朱雀大路が住民参加のイベントスペースとして設計されたとは考え難いものがあります。

奈良仏教が国家宗教であり、庶民のための宗教ではなかったことは有名な話です。「祭り」が庶民に見せるためのものとして成立するのは、都市民の発言力が増した平安中期以降であると、柳田國男や折口信夫も指摘しています。

すなわち、平城京の朱雀大路が幅広である理由が
「祭祀を一般庶民に見せるため」
と考えるのは難しいのです。

では、示威行為の方はどうでしょう? 牛馬が路上で垂れ流す・人間が側溝で用を済ましてる……のは、チャンアンとて同じでしょう。それを外国人に見られて、馬鹿にされるということはなさそうです。どこでも同じだなァ、くらいのものです。

しかし、羅城門から朱雀門まで、約3.7kmです。外国人使節団の中にも、途中でもよおす者が出てきても不思議じゃありません。公衆便所なんかないのですから、当の外国人使節その人が、ちょいと朱雀大路の端に寄って、ジャアジャアブリブリいたしたというケースも考えられます。

そんな道路で威信を示せたのかどうか。まあ、道幅73mですから、ちょっとドブで立小便するためだけにも30mくらい、歩かなくてはいけない。これは、おそれいって途中でもらしたかもしれません。

平城京は北が高くて南が低い地形です。都市の汚れた水が南の方に集まります。そして、秋篠川と佐保川を都市に引き込み、それぞれ東堀川・西堀川として運河を開削し、排水が都市の途中で詰まってしまわないように配慮していました。

藤原京の問題点のひとつに排水があったとされ、その反省が活かされたと考えられます。

その東堀川も西堀川も、城域でもっとも低い羅城門のあたりへ向かっていきます。都市を通過して汚されまくった水が集まってきてるわけですから、羅城門のあたりはすさまじいドブ臭がただようエリアだったはずです。

外国の使節は羅城門をくぐって入京して、吐き気をもよおすようなドブ臭にさらされたことでしょう。

これでは国威を示すどころではありません。

平城京は成功例と書きました。でも、この評価は甘いのかもしれません。約百年、平和な時代が続いたという事実は、逆に言えば、たった百年で捨てられたということです。

一方、平安京は早々に右京が廃れ、残った部分も火災や戦災が相次ぐなど散々な目に何度もあいますが、三百年ほど、平安時代の首都であり続けました。

平城京が捨てられたのは政治的な理由が大きいとされます。インフラ的には平城京は、まだまだ持ちこたえられたと。

それに平安京の場合、三百年持ちこたえたというより、あそこから遷都する引っ越し費用が工面できなくなっていたと見るのが妥当でしょう。

手づまりになるまえに遷都という手が打てた平城京と単純比較はできませんから、優劣は簡単に決められそうもありません。


ともあれ「平城京は約百年、大火も戦災もなかった」という点だけは、踏まえて次へ進みます。

■ ここにも南北大路が。しかも柵を超えて城域の外まで。多賀城

多賀城は奈良時代から平安時代にかけて、大和朝廷による東北侵略の拠点となった城です。

だんだん、このペースで書いてて終わるのか? という気がしてきました。とっととまいりましょう。

54506_多賀城と城下

図 5.4.5.6: 多賀城のレイアウト

出典: 多賀城史跡めぐり - 東北歴史博物館
http://www.thm.pref.miyagi.jp/taga_tour/


多賀城で着目する点は、ただ一つです。
・ 外郭の外まで伸びる道幅23mの南北大路がある

多賀城は城柵であり、都城ではありません。したがって、北闕型ではないとか周礼型であるなどといった判定は意味をなしません。

また、城柵内に碁盤目街路もありません。

南東に条坊が割られ、ここに城下町相当の居住区がありました。条坊が割られたのは平安時代とされます。

問題は、政庁から伸びる南北大路(政庁南大路)があることです。そのうえ城の外郭ラインを越えた先まで。

ただ道があるだけなら、利便性のための正面道だと考えられます。

しかしこの道は奈良時代に13mの幅だったものが、平安時代には23mに拡張されていたのです。

23mは、多賀城の城域および周辺で最大の道幅です。いわゆる都大路と同等の道幅がありました。

他の都市の政庁前南北大路とくらべると、それほどの道幅ではありません。が、多賀城の城下は他の都市と並びうるような「都市」ではありません。ちょっとした「町」のレベルです。そこに都大路と同じ道幅の道路があるというのは異例なことです。

一見すると不必要なほどに幅広という点で、朱雀大路とまったく共通しているのです。

したがって、この政庁南大路は都城制における朱雀大路と同等の目的のために拡張されたと見なければなりません。しかし、その目的とは?

多賀城だって大宰府と同様に天皇は来ませんから、祭祀の可能性は見込めません。大宰府で説明した通りですので省略します。

示威はどうでしょうか? 大宰府とちがって、多賀城に饗讌(きょうえん)の機能はありませんでした。ここに外国の使節は来ないのです。

にもかかわらず、多賀城には政庁南大路が作られた……ということは、中国式の都城における政庁南大路は外国の使者へ威信を示すためという説は、ここで否定できるということです。

さらに言えば、この幅広の道が外郭を越えて城下町のあたりまで伸びているのですから、城内で行われるイベント――祭祀かもしれないし示威行為かもしれない――ではなさそうです。

ついに祭祀も示威も、ほぼほぼ否定できるようになりました。それでは、多賀城の政庁南大路は、なんのために作られたのでしょう。

可能性はふたつ。軍事目的か、都市生活に欠かせない理由によるものか。

多賀城は徹頭徹尾、戦争のための拠点ですから、軍用道路という可能性はおおいに考えられます。

しかし、多賀城は東北の蝦夷と戦うための拠点です。奈良時代に前線の拠点だったとするなら、平安時代は後方支援の拠点でしょう。もう、「南に出撃する」事態が無くなってたのに、政庁から南に延びる道を拡張する必要があるでしょうか?

東門も平安時代に拡張されているところを見ると、出撃は東門からしていたと考えるのが普通でしょう。

出撃のためではなく救援部隊が入ったりや兵粮を運び入れるためという可能性は残りますが、そのために道幅23mが必要だったとしたら、最初からその道幅で作られそうなものです。ここは最初から軍事拠点なのですから。

しかし、むしろ軍事拠点としての役割が薄まった平安時代に南北大路が拡張されているということは、軍事目的の道幅という線はいまいち見込めなさそうに思えます。

奈良時代の駅路(税や物資を運ぶために整備された古代の高速道路)の道幅が平均で12mですから、多賀城の当初の政庁南道路の役目は通常の駅路だったと考えられます。

道路が拡張されたのは9~10世紀後半。坂上田村麻呂の蝦夷征伐が終わったのが804年ですから、比較的、安全な時代の道路拡張です。

以上のように考えると、869年の貞観地震による津波で城下が被災したあと、復興を機に南北道路を拡張したと見るのが正解に思えます。しかし、何のために?

軍用道路ではなく、生活目的の道路拡張と考えても、なかなか難があります。

なぜなら多賀城の政庁南大路は、政庁の中心線の上にはありますが、城下町にとっては東の端の道だったからです。

都市の物流のためだったら、城下町を等分する位置にあった小路を拡張すればよかったはず。津波の後の再建なら、それは容易なことです。

城下の物流は東西大路があるから十分、ということであれば、そもそも政庁南大路の拡張が必要ないわけです。

税や物資を平安京へ運ぶための駅路の役目としても、道路拡張は奇妙です。というのも平安時代は日本全国、いずこも駅路の幅員減少の傾向にあったのですから。

道幅が広いと維持費がかかりすぎ、また排水もうまくいかず雨天時に泥沼化しやすかったのです。この雨天時への弱さは、政庁南大路を軍用道路として考えても問題として立ちはだかります。

祭祀ではない。示威目的でもない。軍事目的とも考え難い。そして都市住民の利便性向上でもなさそう……なんなん? おまえホントなんなん?

多賀城のような地方行政の拠点でさえ、中心軸南北道に以下の条件があったことになります。

* 政庁の正面道でなければならない
* 道幅は広ければ広いほど良いらしい
* できれば八丈(約24m)は欲しかったようだ
* 南北方向でなくてはならない

これらのルールは、いったいなんだったのでしょう。あまりのわけわからなさに、筆者もマジックワード「宗教上の理由で」に頼りたくなりました。

しかし、進展もあります。ともかく、ここまでねちっこく検討した結果、通説である
「祭祀のため、あるいは外国の使者に威信を示すため」
は、自信をもって否定できるようになりました。
「あらゆる不可能を取り除き最後に残ったものが、いかに奇妙なことであったとしても、それが真実だ」

とシャーロック・ホームズは言いました。そのように言わせた作者のコナン・ドイルはコロッとオカルトに騙されましたが。

本項の最後に述べる謎解きは、決して「奇妙なこと」ではありません。もうそろそろ予想がついてる読者もいるかと思います。

というところで長岡京へ進みましょう。

■ 洪水被害は不運か必然か。長岡京

桓武天皇が平城京を捨てる決断をしたのは、強大になり過ぎた奈良仏教を嫌ったのが大きな理由とされます。

なぜ長岡京が選ばれたか? これまた興味の尽きない話ですが、筆者はもう、この項をまとめたくてしかたがないので、脱線を我慢してさっさと進めます。

54507_長岡京想像図

図 5.4.5.7: 長岡京想像図

出典: 「長岡京」とは | 長岡京市公式ホームページ
https://www.city.nagaokakyo.lg.jp/0000000674.html

都市のレイアウトは平城京から大きな変化もなく、新しく何かを考察する余地はありません。

朱雀大路は幅240尺、当時の造営尺が0.296mとのことですから、道幅71.04mとなります。

平城京の朱雀大路より3m狭くなっていますが、この程度であれば、ほとんど変わらないレベルと言えましょう。

目新しい要素はありませんが、本項のゴールのために長岡京で考えるべき点があるとすれば、つぎの一点です。
・ 自然流路による排水に注力した

藤原京では入水も排水も飛鳥川一本に頼っていたため、水不足も氾濫も飛鳥川のご機嫌次第というリスキーな都市でした。

> 世の中は何か常なる飛鳥川 昨日の淵ぞ今日は瀬になる

とは古今和歌集の歌ですから藤原京時代の歌ではないかもしれませんが、飛鳥川が無常の代名詞として誰もが納得できた世相を反映しています。藤原京住民は飛鳥川に生活を左右されていたのです。

これはリスク管理として問題がありましたから、平城京では二本の河川を引き込み、人工水路と自然河川の併用で水利用環境を整備しました。

おかげで水不足で悩まされることは少なかったようです。しかし、ゴミや排泄物や家畜の死体を排水溝に捨てるのが日常であったため、平城京では排水溝が詰まって氾濫することが頻繁にありました。

平城京の南端はもともと湿地だった、排水の難しい場所です。ここに汚染された排水が集中したため、きわめて不衛生な事態となりました。

これは平城京を捨てて遷都が必要になった理由のひとつです。

これらの反省をふまえて登場したのが長岡京です。図 5.4.5.7を見ると、基本的に自然河川をそのまま用いており、大きな人工水路が見当たりません。

長岡京は、人工水路を避けた都市だったのです(神吉和夫、神田徹、中山卓『わが国の古代都市の溝について 長岡京と平安京』)。見事に平城京の汚水問題がトラウマ化したようです。

長岡京は北西が高く南西が低い地形です。標高差は30mほどあり、標高差25mほどの平城京より、わずかに勾配の高い(つまり水が流れやすい)土地でした。

貯水池をかねた人工水路は作らない。汚れた水を停滞させず、排水はズンドコ淀川に流して都市を清浄に保つ……というプランだったと推測できます。

都市内の水路に水を溜めなくても、南東に淀川・桂川・宇治川の合流点があるのだから、水不足は心配ないと考えたのでしょう。

この目論見は、うまくいったのでしょうか? 結果は、日本史を学んだ皆さんがよくご存じの通りです。

785年、日照りによる渇水のあと、大雨による洪水が発生し長岡京は被災しました。これらは長岡京遷都に反対し、計画主任の暗殺に関与した皇太弟早良親王の呪いだと考えられ、長岡京は短期間で放棄されてしまったのです。

怨霊と化した早良親王の能力がいかほどだったか筆者は存じませんが、渇水と洪水については次の事が言えます。

長岡京内を流れる自然河川は、それほど蛇行しておりません。短い流路でそのまま淀川へ注いでいます。かてて加えて、人工水路を開削して水を溜めることもしておりませんから、こりゃあ日照りになったら、すぐ渇水するわけです。

対して、図 5.4.5.5の平城京の堀川を見ると、人工水路が意図的に東西方向に開削されているのがわかります。

北から南へ傾斜してる土地で東西方向に水を流せば、そりゃあ水はとどまりやすいに決まってます。会津若松の水路の工夫と同様です。排水溝がトイレ代わりだった平城京で
「上水・下水が分かれてない水路に水を溜めて利用する」
という行為が衛生的にどうだったかはさておき。

そして、水が流れやすいという長岡京の性格は、大雨が降っても住民に牙をむきました。

つまり、長岡京内を流れる自然河川は、それほど蛇行しておりません。短い流路でそのまま淀川へ注いでいます。大雨が降るとあっというまに増水し、例の淀川・桂川・宇治川の合流点が氾濫する。住民は逃げるヒマもなく流される……というわけです。

長岡京はたしかに清浄だったでしょう。しかし、そのために犠牲にした部分が大きすぎたのです。

北闕型である点や朱雀大路の道幅の謎について、長岡京から新しいヒントが得られたわけでもありません。

しかし、長岡京の失敗をふまえて平安京が作られたことは、覚えておきましょう。

さあ、次はいよいよ最後、平安京です。

■ 右京が荒廃、大火、戦乱。どっこい生きてる平安京

平城京はピースフルな百年を過ごしましたが、それでも途中の天皇が恭仁京ほかに点々としていた時期がありました。都市ゆえに発生する不衛生の問題(彼らはそれを穢れと呼びました)を避けたいとか、なにか思う所があったのでしょう。

基本的に都市には様々な弊害があるのです。

まず城域が広すぎるため、ゴミや汚物の処理が困難です。そのため不衛生になり疫病が発生します。不衛生な場所は避けられ、衛生的な土地の人気が高まります。土地不足は格差社会を引き起こし、社会が不安定になり、放火や内乱へと発展していくというわけです。

『続日本紀』によれば、平城京末期には放火して泥棒をするという手口が流行していたようです。

長岡京遷都の時期には反対派による伊勢神宮の放火などもありました。

平城京では大火が起きなかったというより、大火が起きる前に遷都できたというあたりが真でしょう。

54508_平安京_1

図 5.4.5.8: 平安京 レイアウト

出典: ファイル:HeiankyouMapJapanese.svg - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:HeiankyouMapJapanese.svg


さてその平安京。レイアウトは平城京・長岡京を踏襲しており、この点で本項の謎解きのためのヒントはさほど得られません。

しかし、いくつか拾っていくことにしましょう。

(1) 右京と左京の対称性が上がった

東市、西市があるのは平城京と同じですが、東寺と西寺、より対称性が上がっています。図 5.4.5.8には記されていませんが、海外の使節をもてなすための鴻臚館も東西にありました。

もっとも、せっかく双子のように作られながら、右京はその後、衰退していくのですが。

(2) 朱雀大路がさらに広くなった

その道幅は84mになりました。長岡京では71mとわずかに狭まっていましたが、逆に平城京超えです。

平城京朱雀大路の73mから1割以上も拡張しているのですから、大きな変化と言えるでしょう。

いったい、どんな必要があったというのでしょうか? 奈良時代の記録である『続日本紀』には実質3回しか登場しなかった朱雀大路なのに。

拡張されたってことは、平安京にとって、それは必要不可欠な道幅であったと推測されます。平城京・長岡京の70~73mでは足りないと考える理由があったのだと。

ここまで祭祀のため、あるいは示威のためとは考え難いことは、くどいほど指摘しました。

平安京造営のころは遣唐使も
「まだ続けるの?」
みたいな空気になりかけてて、唐に対するコンプレックスも薄まっていました。

白村江の敗戦も平安京造営から見て百年以上昔の話で、外国使節に強がりを見せなきゃならない時代でもありません。

藤原京、平城京、大仏建立、長岡京と国費をバカスカ突っ込んできたために、平安京造営の頃はそろそろ国庫の残高がアレレー? だったと思われます。この時代に朱雀大路を拡張しなければならない理由があるでしょうか?

祭祀や示威行為なんて、財布がさびしくなってきたら真っ先に事業仕分けの対象になりそうな部分じゃないですか。
「八丈(24m)じゃいけないんでしょうか?」
とか言われなかったんでしょうか(実際の話、室町時代から戦国時代にかけて大嘗祭は221年間、中断されたのです)。

やっぱり、朱雀大路が幅広である理由、南北道でなければならない理由は、祭祀や示威とは別のところで、根本から考え直さねばなりません。

(3) 人工水路の活用と右京の衰退

平安京の排水では自然河川は使われず人工水路ばかりが重用されました。見事に長岡京での大水害がトラウマ化したようです。

賀茂川・桂川はギリギリ城域の外に置き、城域内の水の流れは徹底して人工水路によってコントロールされました。

この取り組みにより、おそらく長岡京のような氾濫リスクは低減したのでしょう。

しかし、これは根本的な解決ではありません。あちらを立てればこちらが立たず。再び、平城京と同様の不衛生問題が都市を襲いました。

低地にある右京は汚水が集中し、盆地特有の湿度の高さも加わり、マラリアが流行するようになりました。平安京造営から百年を待たず、右京は衰退し放棄されるようになったのです。

(4) 右京が放棄されると、東朱雀大路が作られた

いま述べたように、もともとジメジメした土地だった右京は早々に過疎化してしまい、10世紀以降の平安京は左京を中心に発展しました。

朱雀大路も荒廃していき、道路を勝手に田んぼに変える連中も出てきました。朱雀大路は大嘗祭に使う大事な道路なので、勝手に田んぼにするなと朝廷がおふれをだしていたことはすでに述べました。なお、このおふれはムダだったらしく、14世紀には朱雀門さえ失われ田んぼと化していました。

ところが、です。本来の朱雀大路が衰退したためか、12世紀の中頃、左京の東端と賀茂川の間に「東朱雀大路」なる道路が出現するのです。また、このころ賀茂川は「朱雀河」と呼ばれるようになっていました。

これは非常に興味深いことです。

単に名称だけの拝借でしょうか?

それとも本来の朱雀大路が荒廃したので、左京の中心軸が新たに必要となったのでしょうか?

東朱雀大路は藤原道長が建立した法成寺の南門から二条大路(の延長線)までをつないだ道です。

現在の河原町通りの一部が東朱雀大路にあたります。

大路と名付けられたからには長さ8丈(約24m)の道幅はあったのでしょうが、距離は驚くほどに短い道路です。

法成寺があったのが現在の京都御苑の清和院御門の近くですから、簡単に言って一条と二条をつなぐくらいの距離しかありません。

いかに平安京が縮小していたとはいえ、城域を二分割する中心軸プランの道とはいえなさそうです。

このとき、左京の東端から賀茂川までは大きく発展していました。そのうえ賀茂川を超えて外京があり、白河院が存在していました。

とはいえ、白河が非常に発展していようと、都市の中心が左京なのは揺るぎません。賀茂川や東朱雀大路が新たな中心軸プランの位置にあるとは言い難いでしょう。

かの藤原道長が建立し晩年を過ごしたとはいえ、法成寺に政治機能はありません。里内裏であったことはないのです。

だとすれば、なぜ法成寺の南にある大路は東朱雀大路と呼ばれたのでしょう?

これもまた、朱雀大路が朱雀大路である理由を祭祀や示威行為にしてしまうと、矛盾になってしまう事例のひとつです。

ただ名前を借りただけでしょうか? しかし、新しい通りに朱雀の名を借りるだけでなく、賀茂川を朱雀河と呼ぶのはどうしたことでしょうか?

謎は深まるばかりで、いっこうに先が見えてきません。

(5) 朱雀大路は荒廃したが、大嘗祭は行われていた

平城京は大火のなかった平和な百年をすごしましたが、平安京はそうはいきませんでした。内裏は何度も焼失と再建が繰り返されたのです。

もっとも、平城京も末期には放火してそのスキに盗みを働くという手口が横行していたようで、いつ大火になってもおかしくありませんでした。

長岡京造営に際しても反対派による暗殺や伊勢神宮の放火がありました。平安遷都後も朝廷内の権力闘争が激しくなると、不審火が増える傾向にあったのでしょう。

内裏が消失すると、再建されるまで天皇は里内裏と呼ばれる家臣宅などで暮らすようになりました。そしてのちには、内裏が再建されても戻らなくなったのです。不衛生で過疎ってしまった右京の近くでは生活したくなかったのでしょう。

しかし、とはいえ。それでも。天皇家にとって最重要の祭祀である即位の儀と大嘗祭は、大内裏で行われていました(ただし室町時代末期~戦国時代には中断されました)。

奈良時代の儀式は史料も少なく詳細がよくわかっていませんが、平安時代の儀式は有名な『延喜式』にこまかく記されています。

今日の我々はおかげで平安時代の朝廷儀式の様子を知ることができるわけです。

こういった史料によれば、平安時代の大嘗祭では四~五千人の行列が朱雀大路を通って大嘗宮に供物を運び入れることになっていました。

本祭の日、北野の斎場を出発した行列が二手に分かれ、一方は右回りに、もう一方は左回りに、東西大宮大路を南進したあと、七条と朱雀大路の交差点で合流し、北上したのです。

このとき、標山(しめやま)と呼ばれる山車が引かれていました。標山の大きさは時代によって変わりますが、大きいときにはタテヨコ9mもあり、二十人ほどで引くほどでした(東野治之『大嘗会の作り物―標の山の起源と性格―』)。

この標山が、のちの京都御霊会すなわち祇園祭の山鉾につながっていくのです。

通説では、この大嘗祭における大行列こそが朱雀大路が幅広であらねばならぬ理由の一方、「祭祀」の部分だと、そう言われています。

特に遣唐使が廃止されて外国使節に威信を示す必要がなくなったあとは、この大嘗祭の行列のためだけが、朱雀大路の存在理由であったと。

これについて筆者はもう、思い出せないくらいしつこく反証を述べてきました。

天皇が来ない、すなわち大嘗祭が行われる可能性がまったくない大宰府や多賀城に朱雀大路や政庁南大路があるのだから、この道路が幅広である理由を大嘗祭に求めることはできない、と。

しかし、それでもダメ押ししましょう。

標山は大きなものでは約10m四方もありました。仮に合流した二台が並列して進んだとすれば、20m強の道幅が必要でしょう。

七条の交叉点から朱雀門まで、約2.5km。観客用のスペースは左右に20mづつあれば、1m間隔で前期平安京の全人口(推定)にあたる10万人が収容できる計算です。

これで道幅60m。おお、平安京朱雀大路は道幅84m、水路の分を引いた路面幅は70mほどとされますから、ちょっとばかし余裕をかました感じになりました。そう、不自然でもありません。

……そう、思いますか?

そもそも平安以前の朝廷の儀式は都市の一般住民に見せる性質のものではなかったことは、すでに述べました。大嘗祭も当然に含まれます。

仮に前期平安京の住民10万人という試算が正しかったとしても、その中には奴婢(ぬひ)や平安京造営のために地方から連れてこられた農民が多数含まれるのです。

中世の朝廷がそのようなカーストの下位に配慮していたとは思えません。祇園祭のルーツである京都御霊会の山鉾が標山を模したとき、藤原道長は驚いて停止命令を出しているのです(本朝世紀)。

この事件は、大嘗祭が本来、庶民に見せる性質のものではなかったことを示しています。

観客席が必要ないのであれば、五千人程度の行列のために十万人が収容できるスペースを用意するのは無駄が過ぎます。途方もない無駄です。

百歩譲って、一般市民の観覧がみとめられていたとしましょう。

しかし、庶民には庶民の生活があり、病人もいれば老人も赤ん坊もいて、あたりまえですが住民全員が見物に行けるわけではありません。

見てすぐ帰る人もいれば、途中から見に来る人もいるでしょう。見物人の入れ替わりは当然に考えられます。さらには、東西の大宮大路で見たっていいわけです。朱雀大路で合流後したあとの行列でなくてもいい観客だっていたでしょう。観覧が許可されていたとして、ですが。

百歩譲ったとしても、朱雀大路の道幅はもっともっと狭くて十分だったのです。

標山はどうでしょうか? 10m四方(三丈三尺)というのは『東大寺要録』(861年)の記述によるものです。これだけ大きいと並んで大内裏の門を通過はできませんから、そもそも並走するという仮定が馬鹿ばかしいと考えられます。

標山を引く両者のどちらかが前に、どちらかが後ろになり縦列で進んだと考えるのが妥当でしょう。道幅は12mもあれば十分です。

標山について考えても、朱雀大路の道幅はもっともっともっと狭くても十分だったのです。

のちの時代、祇園祭の山鉾巡行が普通の道幅の道路で問題なく巡行できていたのですから、奈良・平安時代の大嘗祭における標山の引き回しも、通常の大路の道幅があれば十分だったと考えられます。

標山が当初から大きかったとは限りません。10m四方(三丈三尺)は記録に残る大きい方のサイズです。いつもより大きいから、わざわざ特筆されたと見られます。飾りがエスカレートする性質のものだとすれば、儀式が始まった奈良時代初期の標山はずっと素朴で小さかったと推定されます。

朱雀大路の道幅はもっともっともっともっと狭くてよかったのです。

示威に関して言えば、国際的な緊張が高まっていたわけでもないのに、長岡京朱雀大路から12m以上も幅員拡張しているのは、説明がつきません(ダメ押しのダメ押し)。

(6) やたらめった起きた大火

しつこく繰り返しますが、平城京では大火が起きませんでした。

しかし平安京は繰り返し何度も大火の被害に遭っています。

内裏が何度も火災で焼失したのは、みにくい政権争いの結果かもしれません。また、応仁の乱で代表されるように戦禍による都市焼亡も何度もありました。

しかし、平安京の大火には、それだけではない、気象のために大火になったものもありました。

特に有名なのが、鴨長明の『方丈記』に記された安元の大火です。

1117年4月28日。新暦に直すと5月27日。このとき京都は日照りが続き乾燥していました。出火したとき、おりしも南東から乾いた強風が吹きこみ、北西方面へ広範囲に延焼した大火となったのです。『方丈記』には強風のため、なすすべなく延焼していく様子が記されています。

これは気象にくわしくない私のような人間には奇妙に思えます。盆地と言えば全方位を山に囲まれてて、風が弱い地域という印象がありますから。

そりゃまあ日照りが続けば、冬寒く夏暑い、湿度の高い京都だって乾燥するだろうとは思いますが、強風とは。

しかしこれは、春から初夏にかけて東北地方で異常な高温になる日があることを思い出せば、わりかし理解がはやまります。

フェーン現象。

京都盆地は温かい空気を伴った低気圧が付近を通過すると、フェーン現象で暑く乾いた風が吹き下ろされる土地だったのです(水越允治『京都における歴史災害とその気象・気候的背景』)。

メイ・ストーム(和製英語だそうです)というやつは低気圧の中心から離れた場所でも強い風が吹くという特徴があります。

1117年5月27日(新暦)、雨を伴わない強い風が京都の南東の山地を超え、フェーン現象を起こし、暑くて乾いた強風となって大暴れしたのでしょう。

現代の消防車をもってしてさえ、強風時には簡単には延焼を止められないことを、私たちは2016年の糸魚川市大規模火災で目の当たりにしました。

桓武天皇とその技術官僚たちがウィトルウィウスのアドバイスを知っており、都市建設の前に山城国住人から情報収集していれば、そもそも平安京は作られていなかったのかもしれません。

(7) 朝堂院(八省院)は大内裏の南にあった

大内裏とは平安京の宮の事で、朝堂院(八省院)とは天皇が政務を行うオフィスです。ときに大極殿とも呼ばれますが、これは朝堂院の本殿が大極殿だからです。

さて、大内裏のレイアウトは次のようになっていました。

54509_大内裏図

図 5.4.5.9: 大内裏 レイアウト

出典: 国史参照地図>第六圖 大内裏及内裏圖 - 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/981564/11


これ、どうなんですかね?

どうなんです?って何が? え、あ、はい。いやその……北辰思想によれば天子は坐北して南に向かって政治をするんでしょう? その政務を行う朝堂院が大内裏の南に位置してるのは、それでいいのか北辰思想って思いません?

いやいや朱雀門から入ってすぐのところにあるのは、毎朝出勤する公務員の利便性に配慮してなのだ……って、そんな気配りできるなら周礼型にしろ周礼型に! 羅城門のあたりに住む官人は出勤に5kmくらい歩かされてんだぞ!

出勤に5km歩かされる下っ端もいるから、せめてもの配慮かもしれませんが、どうにもフに落ちません。だって大内裏の北辺にあるのなんて、蔵ですよ蔵! 倉庫! オフィスですらないじゃないですか。北を神聖視したんじゃないのか、やい! と思うじゃないですか。

朱雀大路の道幅が広いのは祭祀が理由とは考えられませんでした。その他の部分においても、北辰思想の影響はもっと小さかったと疑うべきでしょう。

(8) 平安京は四方が山であった

平安京にも羅城は築かれませんでした。これには藤原京と同じく、山をもって土塁とする防衛思想があったと思われます。

強大になった奈良仏教を嫌って平城京を離れた桓武天皇でしたが、それは単なる思想上の好き嫌いの問題ではありません。

抵抗勢力は長岡京遷都の責任者を暗殺したり伊勢神宮に放火するなどテロを用いました。

内乱一歩手前の状態であったわけで、長岡京で身の危険を感じた桓武天皇は、防衛の意図もあって平安京を選んだと思われます。

しかし、四方を山に囲まれた土地は、大量の住民を抱えた平安京では、そのまま弱点と化しました。

物流を止められたら、都市の住民は打つ手が無いのです。

こうして平安京の都市住民勢は約270年後、都市住民より数で劣る東国騎馬集団に敗北し、平安時代は終わりました。

なお、東日本の武士が騎馬に秀でていたのは、飛鳥時代後期~奈良時代前期に近畿で持て余した渡来人を関東に送り込んだからといいます。

また、非公式に日本海を超えて東日本に渡ってきたパルヘ(渤海)のボートピープルも少なからずいたでしょう。

であるならば、東日本の武士は北方騎馬民族の血を引いている人間が少なくなかったから、乗馬に長けていたのだ、と言えます。

しかし鎌倉幕府の首都・鎌倉は北闕型でもなければ朱雀大路もありませんでした。奥州藤原氏の拠点である平泉もまた、北闕型ではなく朱雀大路もありません。

■ 終盤まとめ・反証と疑問の総ざらい

やっと終わりました。こんなに長くなるとは思ってませんでした。

そもそも第5章は、1~4章の理解の助けになればと思って、軽く世界の方格設計に触れるだけのつもりでした。

これが調べれば調べるほど疑問が疑問を呼び、ついには1~4章を巻き込んだ壮大な謎解きへとつながったため、こうして長い長い材料の提示を行ったのでした。

そう、謎は解けているのです。解けたからこそ、これほどの長い話になったのです。 推理小説であれば名探偵が読者に語りかけ、
「必要なデータは出そろいました。諸君も考えてみてください」
とニッコリ笑うところです。

あいにく本書は推理小説ではないので、ミスリーディングを仕込んでなんかいません。思い当たる予想のある人は、自分の予想が当たるのを確認することになるんじゃないですかね。たぶんですけど。

謎解きの前に、通説を否定する論拠と、解決しなくてはならない疑問をまとめておきましょう。


・ 通説の否定

通説:中国式都城制が北越型なのは、北極星を神聖に見る北方遊牧民由来の北辰思想によるものである。

反論:

* 北方遊牧民族の作った北魏ルオヤン(洛陽)は外城が宮の北方に拡張されており、北闕型とは言い難い
* 北方民族の朝廷・元の首都ダードゥー(大都)は周礼型である
* シルラ・ワンギョン(新羅王京)、藤原京も北闕型ではない
* 藤原京より先に作られた難波京は北闕型である。藤原京は北闕型を知っていながら、あえて無視したことになる
* インド・ヨーロッパ語のルーツは北方遊牧民であるポントス・カスピ海ステップに求めるクルガン仮説が近年では支持されている。この説に基づけばアナトリア・アラビアにインドそしてヨーロッパと、インド・ヨーロッパ語圏の人々は言葉が変わるほどに北方遊牧民の影響下にあったわけだが、北闕型のルール化は見られない
** クルガン仮説に基づかなくても、中国に馬と車輪を伝えたのは中央ユーラシアのステップ民(北方遊牧民)であることは変わらない。しかし中国都城制の成立前に北方遊牧民の国々において、北闕型の首都が現れている様子は見られない

通説:朱雀大路が異常なほどに幅広であるのは、祭礼のためと国家の威信を示すためである

反論:祭祀について

* 国の祭礼を行う必要が無い大宰府や多賀城にも朱雀大路や朱雀大路相当の政庁南大路がある
** 国の祭祀でなければ国費を費やして整備する理由がない
** 仮に祭祀だったとしても、道幅は通常の大路で十分可能である
* そもそも祭祀は本来、宮の中で行うものである。路上で庶民に見せるためのものではない
* 都市住民のために祭祀を行ったり公開するようになったのは平安時代以降であるが、朱雀大路は奈良時代から存在している
* 庶民に見せる儀式でなければ、官人および宗教・芸能関係者が全員参加しても数千人規模にすぎず、ここまでの道幅は必要ない
* 都城制都市の路上や道路の側溝は牛馬や通行人の糞尿で汚されていた。こういった汚れた場所が祭祀のために存在していたとは考え難い
* 大嘗祭の大行列が最終的に朱雀大路を通るのは、そこが宮の正面道であるからであり、通行のため以外の意味は考えられない
** 『続日本紀』に、そのような朱雀大路を使った祭祀がほとんど記録されていない。わずかに発見できる歌垣や献灯儀式は単発の催事であり、歌垣や献灯儀式のために朱雀大路が幅広に作られたと見ることはできない

反論:威信を示すためについて

* 外国人使節が来ない多賀城にも政庁南大路が存在する
* 日本以上に威信を示さねばならない環境にあったシルラ・ワンギョンに中心軸幅広大路は見つかっていない
* 中国ではもっとも国の威信を示す必要があった春秋・戦国時代に方格設計都市が減少する。朱雀大路どころではなくなっている
* 平城京・長岡京・平安京の南端は汚水の集中する臭くて不衛生な場所である。そのような場所で威信を示せるのか
* そもそも『続日本紀』によれば外交的な儀式・威信を示した場所は一貫して羅城門の前、すなわち京の外である
* 朱雀門の前で蝦夷や隼人、南方諸島の人々を出迎えたという事例が二例あるが、例外的なものと見られるし、威信を示さねばならない相手でもない
* 幅広の道路が国家の威信を示すことになるのであれば、なぜメソポタミアやエジプトやインダスやローマ人や中南米の王朝は、それを作らなかったのか
* さしせまった国家間の緊張がなかったにも関わらず、平安京は長岡京より朱雀大路の道幅を12mも拡張している

これらの反論により、通説は否定されたものとします。

したがって、解決すべき謎はこれまで通説で説明されてきた2つと、その2つに関わる「そもそも」の部分です。

疑問:

* 北闕型はなぜそのようなレイアウトなのか
* 朱雀大路は何のために、あのように無意味としか思えないような道幅で建設されたのか
* そもそも、中国と同じく温帯が多く北方騎馬民族の影響下にあったヨーロッパの城郭都市が中国同様の巨大・北闕・正方位・中心軸プランでないのはなぜか? 逆に言えば、なぜ中国の都城はヨーロッパのように石造り・コンパクト・非正方位にならなかったのか?

驚くべきことに、この3つの疑問は、ひとつの解につながるのです。

それでは、いよいよ次が解決編です。

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