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昔の日本人はなぜボタンを使わなかったのか

発端はこの増田(はてな匿名ダイアリー)の書き込みとブコメツリーでした。

>2020-07-18
■なんで江戸時代はボタンを作れなかったの

ジッパーやマジックテープは無理でもボタンは作れていいはずだよな

https://anond.hatelabo.jp/20200718210620

上記に対するはてなブックマークコメント
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20200718210620

これに筆者は、次のようにコメントを書きました。

  >ボタンはあったよ。メジャーじゃなかっただけ。 https://ja.ukiyo-e.org/image/etm/0189204062 なんでボタンを好まなかったのかはよくわからん。諸説あるが百字じゃ紹介できん。まあ、西洋人も靴から靴ひもを駆逐できてないし。

  https://b.hatena.ne.jp/entry/4688712405632683298/comment/mitimasu


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喜多川歌麿『風流四季の遊 皐月の肴売』(享和期:1801年~1804年)

「百字じゃ紹介できん」と書いたのは、うそ・いつわり無く申しますと、ザ・うそいつわりです。
筆者は日本の服飾史に詳しいわけじゃなく、もっと適切に解説してくれる人がいると思ったので、逃げたのです。
うっかり偏った知識でヘタを打ってアホをさらしたくない。君子アヤ、雨季に地下寄らず。
ところが期待に反して、
「なぜ江戸時代以前の日本ではボタンがあまり普及しなかったのか」
という疑問を快刀乱麻してくださるブクマカーは現れませんでした。
しかたないので、偏った知識ではございますが、自説をちょっと述べようかと筆をとった次第です。
まちがってたら、ごめーんね。

## 宗教は考慮すべきではない


本論の前に、ここを否定しておきたいと思います。

  >日本人は古代から結ぶのが宗教的に大好きなんだよ。だから服にボタンを付ける発想が出なかったんじゃないかな。
  (はてなブックマークコメントより引用)

私もかつてはそのように考えていました。水引のように「結び目」に宗教性を見出しているものは少なくありません。
が、これは否定できますし、また否定されるべきです。

なぜなら、結び目に宗教性を見出すのは日本のみならず世界各地で見られるからです。
古代ギリシャ・ローマ人も本結びのことを「ヘラクレス・ノット」と呼び、子孫繁栄を願う意味を結び方に込めていました。


  本結び > 歴史 - Wikipedia
  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E7%B5%90%E3%81%B3#%E6%AD%B4%E5%8F%B2


結び目に呪術的意味合いを込めるのはケルトにも見られます。トリケトラは中でも有名です。


  トリケトラとは (トリケトラとは) [単語記事] - ニコニコ大百科
  https://dic.nicovideo.jp/a/%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%B1%E3%83%88%E3%83%A9


マクラメはアラビア世界で生まれた結びをモチーフとした装飾です。これを用いた装飾品は正倉院にも納められています。水引など日本の結び目・組ひも文化への影響も考えられます。このマクラメを用いた装飾品で、現在もっとも知られているのはミサンガであり、信仰的な意味合いの強いものです。
したがって、結びの持つ神秘性にこだわったのは日本だけではなく、中近世日本がボタンを好まなかった理由を宗教性に求めることはできません。
近代ヨーロッパや現代日本がそうであるように、宗教的な意味を持つ結び目文化を残しつつ、ボタンを受け入れることは可能なのです。

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もうひとつ。
古事記からは、古代日本が宗教的に強く結び目にこだわっていたようには読めません。
万葉集や古今和歌集を読むと、一部の人々は下帯を解くや解かざるや!?が人生の一大テーマであったように読めますが(誇張)、これは性愛文化の現れです。それはそれで重要な問題ですが、宗教性を感じることはできません。

拙著『近世大名は城下を迷路化なんてしなかった』でも述べましたが、よほど強力な証拠がないかぎり『宗教的な理由で』を用いて謎を解くのは慎重であるべきです。
『宗教的な理由で』というのは歴史上の多くの謎を説明可能にしてしまうマジックワードです。
それで説明は可能になりますが、説明可能になったからといって正しいということにはなりません。
しかしながら、人は説明可能になってしまうと、それを正しいと思い込みがちです。自説ならばなおさら。
強力な物証や史料もないのに謎の解明に宗教的な理由を用いてしまうと、シャーロック・ホームズばりに
「ほかのあらゆる可能性を排除して」
宗教を用いなければ解が成立しないことを立証しなければならなくなります。
でないと誰も正否を判断できないのです。
歴史上の謎解きに『宗教的な理由で』を使うのは慎重であるべきなのです。

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『近世大名は城下を迷路化なんてしなかった』 

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https://note.com/mitimasu/n/nf71167fb5a63
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というわけで、この『中世日本人とボタン』の問題の解として、宗教面でのアプローチは否定することとします。

## 大前提:ボタンホールの発明は13世紀

  Buttonhole - Wikipedia
  https://en.wikipedia.org/wiki/Buttonhole

英語版のエントリです。

  >Buttonholes for fastening or closing clothing with buttons appeared first in Germany in the 13th century. However it is believed that ancient Persians used it first.

  訳:衣服を開閉するためのボタンホールが最初に現れたのは13世紀のドイツである。しかし最初にボタンホールを使ったのは古代ペルシア人だと考えられている。

なかなか誤解を招きそうな記述です。ドイツ人が発明したが彼らは使わず、最初に使ったのはペルシア人?そんな、まさか。
13世紀にはペルシア帝国はとっくに滅んでいるので
「物証のある最古の例は13世紀ドイツだが、史料などから推測できるボタンホールの発明時期と場所は古代ペルシア帝国――少なくとも7世紀以前――」
ということになるのでしょう。
ボタン自体の出現は紀元前29世紀に遡ります。

  Button - Wikipedia
  https://en.wikipedia.org/wiki/Button#History

ただし、Wikipedia(EN)の執筆者は、この古代のボタンを留め具ではなく装飾品としており、衣服の開閉器具としてのボタンは13世紀のドイツであり、ボタンホールの出現とともに始まるとしています。
これは明らかに執筆者の誤認です。缶切りの発明前に缶詰が生まれたように、古代のボタン型オブジェクトがボタンホールの発明を待たずに留め具として用いられたのは明白だからです。
たとえば盤領の受け緒と蜻蛉が、反証として挙げられるでしょう。

しかしともあれ、我々の考える近代的なボタンとボタンホールの衣服は、13世紀までは存在していたとしても、あまり普及していなかったのでした。

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ジョットの残したダンテの肖像

まあ、ボタンとボタンホールを使わない服装でございます。
おおざっぱに言えば西洋も17世紀くらいまでは結んで留める服が主流であって、洋の東西でそんなに違いはなかったのです。

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ボタンホール発明後である15世紀のザビエルだってそうでした。

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コロンブスもそうでした。

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メディチ家なんかの上流階級だってそうだったのです。

ですから、

  >割れづらく、乱暴に洗濯しても外れないボタンというのは、意外と技術的に高度で、それを大量生産するのは大変。ヨーロッパでも、一般民衆に行き渡ったのは、産業革命以後だったりする。
  (はてなブックマークコメントより引用)

というのは、まったくその通りであって、16世紀のブリューゲルの絵画を見ても、ボタンは一部のオシャレさんにしか使われておりません。

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大半の人々は基本的にひもで結んでいたわけです。ブリューゲルさんはオランダ人。ボタンに積極的だったドイツのお隣です。

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一部のおしゃれさん。

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え?オーバーパンツ履くときは、これぜんぶ結ぶんですか?めんどくさっ!気が狂うー。

しかし、だからといって日本でボタンが普及しなかった理由を単純に産業革命に求めることもできません。なぜなら、江戸時代までの日本人はボタンホールを使わないボタンも好まなかったからです。

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## ボタンホールを使わないボタン

ボタンホールの物証としての初出は13世紀で、推定される発明時期はペルシア帝国の時代なのでしょう。
しかしボタンそのものの出現は紀元前29世紀までさかのぼります。
二千年以上、ボタンホールを使わないボタンの歴史があるわけです。
ボタンホールを使わないボタン、それはいったいなんでしょうか?

  >こはぜじゃダメなのかよ

  >ダッフルコートの留め具的なものは作れそうだなって思ったけど、

  >ボタンはこはぜとして有った。

  >狩衣の首のところのトンボとか用途としてはボタンだと思ってる。紐のデカい結び目だけど

        (以上4つ、はてなブックマークコメントより引用)

と、まさにこの「ループと留め具」こそボタンホールを使わないボタンの代表格です。
広い意味では根付もこれに入れられると筆者は思います。はてブでは根付の存在を指摘するコメントがありました。同意できる指摘です。

太刀緒と帯執《おびどり》までいくと、「結ぶ」とボタンの中間かと思いますが。

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「足袋のこはぜ(小鉤)」 写真……Author:katorisi License:CC BY-SA 3.0

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Japanese_socks,shiro-tabi,gyoda-city,japan.JPG

ブコメにある足袋の「こはぜ」は間違いなく日本的な「ボタン」です。
日本の鎧の肩の所のひもを留める一種のバックルもまた「こはぜ(鞐)」と呼びます。
これまた、原理的にはループとトグルです。

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「鎧のこはぜ(鞐)」

このループを用いるタイプのボタンを何と呼びましょうか。
ダッフルコートのあれはトグル(棒)と呼びますが、適切とは思えません。
中国ではチャイナドレスのそれを盤釦と呼ぶようです。
盤領に使ったボタンから来ているのでしょうが、これまた適切とは思えません。
いちおう、「紐ボタン」という言い方があるようなので、以下はそれを使います。
便宜上、紐ボタンと区別するために、ボタンホールを使う方は本エントリでは「穴ボタン」と呼びます。

ほかに、筆者の調べでは道中合羽に紐ボタンを用いた例が近世日本で見つかりました。

しかしこうした少ない例を除いて、日本人は穴ボタンはおろか、紐ボタンをも好まなかったようなのです。

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## ボタンを好まなかった中世~近世の日本人

いわゆる奈良貴族の正装は唐にならった中国風の服装です。えりの形は盤領で、ループと留め具(とんぼ)を用いた紐ボタンでした。

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しかし鎌倉時代の水干では盤領がループと留め具(とんぼ)ではなく、ひもで結んで留める形式へと改造され、そちらが主流になっていったのです。

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写真 Author:orpse Reviver License:CC BY-SA 3.0

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Jidai_Matsuri_2009_552.jpg

(……と、ものの本には書いてあるんですけど、平安末期~鎌倉の絵画史料からは、この、紐で留めた水干の例を、筆者は見つけられなかったと申し上げておきます)

ループと留め具(とんぼ)の様式は公家の正装として廃れこそしませんでしたが、庶民の服としては好まれなかったのです。

ブコメで筆者は江戸時代にも穴ボタンがあった例を動かぬ証拠(歌麿の版画)で示しました。
しかし、これは江戸時代日本(それも江戸時代後期)に穴ボタンの服があった証拠にはなっても、普及していた証拠にはなりません。
描かれた魚屋の髪形は当時のスタンダードな髪型からも逸脱しています。それは歌麿らしい誇張かもしれませんが、この若者が
「新奇な格好のイカした(イカれた?)兄ちゃん」
という趣旨で描かれている可能性は高いと思います。

結局のところ、江戸時代の末期までボタンは穴ボタンも紐ボタンも日本ではさほど普及しなかったのです。この点で
「産業革命以前であっても上流階級にはボタンが普及したヨーロッパ」

「紐ボタンを好んだ中国の伝統服」
とは、明らかに様相がちがいます。
江戸時代にボタンがないのなんで?という元増田の疑問はもっともなのです。

"割れづらく、乱暴に洗濯しても外れないボタン"の生産が技術的に高度であっても、上流階級用の少量生産は江戸時代日本でもできたはずです。
刀の高度な拵えやベッコウ細工、象牙細工を見ると、適切な原材料と技術、技術者は日本にも存在していたと断言できます。
しかし、日本は庶民のみならず上流階級すらもボタンを嫌いました。
穴ボタンに限らず伝統的な紐ボタンさえ。産業革命の有無は中近世日本でボタンが普及しなかった理由に結びつけることはできないのです。

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## ペルシャ帝国や北部ヨーロッパはなぜボタンを欲したのか。なぜなら寒いから

この謎をとくためには、そもそもに立ち返りましょう。
つまり、なぜボタンホールは発明されたのか?ボタンホール発明以前の紐ボタンが、世界全体としては「結ぶ」文化に対して劣勢だったのはなぜなのか?です。

ダッフルコートのトグルとループによる紐ボタン、あれが「結ぶ」よりも有能選手であれば、「結ぶ」は二千年も前に服の開閉から駆逐されていたことでしょう。しかし、世界はそうはなりませんでした。
すなわち、紐ボタンはあきらかに性能として「結ぶ」に劣る面があったのです。

まず、紐ボタンというものは、案外ほどけやすいという欠点があります。これを回避するには留め具を大きくするのが手っ取り早いわけですが、留め具が大きくなると寝っ転がったときにゴリゴリ当たって痛かったり、トグルがそこらの出っ張りにひっかかりやすかったりと、よろしくありません。

そして、さんざん言われている通り、手工業の時代のボタンは高価です。しかも「結ぶ」に比べると補修が難しい。外れただけならともかく、割れたり紛失したりすると、非常に困ったことになります。穴ボタンにしろ紐ボタンにしろ、代わりのボタンの調達が難しいからです。
出先でボタンが割れたり紛失したりして、代わりのボタンもない。
一次産業が主流の中世では、ぞっとしない状況です。
おまけに代わりのボタンは元のボタンと、大きさが同じくらいじゃないといけません。

そして、ボタンは頑丈でもありません。乱暴な洗濯で外れるほどに弱い。
簡単に外れないくらいしっかり付けてしまうと、それはそれで生地を傷めることになります。
これに比べると「結ぶ」は安上がりで、しっかりと衣服を留めてくれ、シンプルで調達も修理もしやすく、そのうえ丈夫です。
まあ、激しく動くとゆるんでいくんですが。

筆者はブコメで
「西洋人も靴から靴ひもを駆逐できてないし」
と書きましたが、まさにこのシンプルで修理しやすく、しかもタフという利点こそが、くつひもが21世紀になってなお君臨し続けている理由です。靴というハードワークは、ボタンだのジッパーだのという貧弱なぼうや達には荷が重いのです。
まだまだ履ける、まだまだ着られる、もしくは使えるのにジッパーがダメになってブーツやジャンバーやカバンを泣く泣く処分したという経験、誰しもあるんじゃないですか。もったいない。ああ、もったいない。


  >そういえばジッパーが発明された目的は「靴紐の代替」なんですよね「いちいちほどいたり結んだり面倒くせー」と思った人が発明したのがジッパー。でも未だに高齢者用のシューズにしか使われてませんね。
(はてなブックマークコメントより引用)



というコメントで紹介していただいた通り、ジッパーの発明家はくつひもから解放されたくてジッパーを発明したと伝わります。だから、最初はジッパーという名前ではなく『靴の自動開閉装置』だったと……。おもしろおかしい逸話ですが、今回、念のために Wikipedia(EN)を読んだところ、この巷説は面白おかしくザックリ要約されたバージョンで、事実はもう少し複雑だったと知りました。

  Zipper - Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Zipper#History

脚色なしに要約すると

1. エリアス・ハウ(実用的なミシンを発明(もしくは改良)した人物)がジッパーの原型となる器具を発明。このときの名前が『Automatic, Continuous Clothing Closure(自動連続式衣服閉鎖装置)』。しかしミシンで成功をおさめていたため、この発明の売り込みに熱心ではなかった。また、彼の発明は現代のジッパーからは大幅にかけ離れたものだった
2. ウィットコム・L・ジャドソンがエリアス・ハウの考案した『Automatic, Continuous Clothing Closure(自動連続式衣服閉鎖装置)』を改良。このときに現代的なジッパーに近づいたと考えられ、ジッパーの発明という栄誉も一般的にはジャドソンに帰せられる。彼は自分の改良品によって人々がくつひもから解放されると考え、特許登録の際にもそのように主張した。ただしジャドソンによる命名は『Clasp Locker(留め具固定機)』
3. ギデオン・サンドバックがジャドソンの『Clasp Locker(留め具固定機)』を改良。ほぼ現代のジッパーが完成する。サンドバックが特許に付けた名称は『Separable Fastener(分離可能ファスナー)』(※注 ファスナーは留め具全般を指す言葉)
4. サンドバックの発明した『Separable Fastener(分離可能ファスナー)』を長靴に採用したグッドリッチ社が、そのファスナーを『Zip Fastener』または『Zipper』と呼び、定着した

と、なります。おおう、『靴の自動開閉装置』なんて誰も言ってなかった……

閑話休題。

……とまあ、こうして見ると中世世界のボタンの評価は散々であり、「結ぶ」に対してまるでアドバンテージがありませんでした。

いやいや、ボタンは「結ぶ」より手軽じゃないか、とお思いでしょうか?
しかし、着物なら帯を一回、結ぶだけです。甚平や作務衣なら付け紐を二か所。くらべるとボタンのシャツは4ヶ所も5か所もボタンがあり、全体としての手間は同じくらいです。

  >さして合理的でもないからじゃないかな。
  (はてなブックマークコメントより引用)

というブコメの通り、産業革命以前のボタンは、全体として合理性のある服の留め方ではありませんでした。

ではなぜ、古代中国は盤領に紐ボタンを用い、古代ペルシャはボタンホールを発明し、近世ドイツは穴ボタンのシャツを身につけ、北欧の猟師は仕事着であるダッフルコートにトグルボタンを採用したのでしょうか?

なぜなら、寒いからです。そう、寒いから。

温かい地方の人間にはボタンは要らないのです。いや、服が袋状になってる必要すらありません。古代ギリシャ人も古代インド人も、一枚の長い布を体に巻き付けたような服装でした。水島上等兵ーッ!!!

まあ、とにもかくにも、上に示したルネサンス絵画で見たように、温かい地方の人間はだぼだぼのローブを腰のあたりで結わえりゃ事足りるわけです。ボタンの出る幕はありません。

しかし、寒い地方は違います。ゆるい服だと襟口や袖口や裾から寒い空気が入ってくるのです。わかる。
重ね着したいので下の服がだぼだぼだと具合が悪いのです。重いし。わかる。
帯で止める服は激しく動くとゆるんでいくので、それじゃ寒いのです。わかる(柔道経験者は語る)。

したがって、寒い地方の人間はだぼだぼの服ではなく、ゆるすぎずきつすぎず、着る人の体形に合わせた服で、袖も襟もすきまを作らずに閉じたいわけです。
そして、動いてもゆるまない服が望ましいのです。
ペルシャ(現在のイラク)は乾燥帯で暑そうに思えるかもしれませんが、砂漠の夜は寒いのです。

そういうわけで、寒い国の衣服は個人の体形に合わせた開口部の少ない服が求められました。
そして、全体をゆるっと帯で結わえるのではなく、開口部を細かく閉じられるしくみが求められ、ボタンへとつながっていったのでしょう。
ダッフルコートは時代がぐっと下るわけですが、手袋をしたまま、あるいは寒さでかじかむ手では結んだり小さなボタンの開閉は難しいので、ああいうトグルのボタンが好まれたのでしょう。

隋・唐の服も、そういう寒い地方が出自である北方騎馬民族の欲求によって、個人の体形に合わせて調節した服、紐ボタンで襟をぴっちり閉じられる盤領になったわけです。

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ブリューゲルの絵に戻りましょう。筆者は多すぎる付け紐に

  >これぜんぶ結ぶんですか?めんどくさっ!気が狂うー。

と書きました。まったく、いやほんと、古代ペルシア人や北ヨーロッパ人たちはめんどくさくて気が狂いそうになっていたのでしょう。
しかし袖や裾や襟は閉じたいし、結ぶのがめんどうでもズボンの上にオーバーパンツを装着したいのです。なぜなら寒いから。
冬にトレーナーのズボンを重ね履きしてる人は察しがつくと思いますが、ズボンを重ね履きすると、重みでだんだん下がっていき、おなかが出てしまうものです。
16世紀の北ヨーロッパの人は、くそ面倒でもいちいちオーバーパンツを結んで装着するしかなかったのでしょう。

こうした状況でしたから、ボタンホールが発明され、穴ボタンが少しづつ「結ぶ」にとって代わっていったのです。
高価と言う大きな問題を抱えていたにも関わらず。

北ヨーロッパでボタンの需要があれば、南ヨーロッパの職人たちも、それを作って儲けようかと考えたことでしょう。
で、作ってみれば、自分たちに必要のないものでも、ちょっとは使ってみようかとなります。
温かい国でのボタンは実用面ではそれほど必要ないものでしたが、ファッションの小道具としては有能でした。
このようにして、産業革命以前とはいえ、それを必要としたヨーロッパの人々に穴ボタンはじわじわ浸透していったのです。

清代までの中国人が穴ボタンに興味を示さず、紐ボタンにこだわり続けたのは、ちょっと謎です。

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伝統的満州服を身につけた中国人男性(20世紀初頭)

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17世紀の中国高級官僚(部分)

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清代の男性上着 Attribution: Auckland Museum  License:CC BY 4.0

https://commons.wikimedia.org/wiki/Category:Clothing_of_the_Qing_Dynasty#/media/File:Robe,_short,_man's_(AM_10827-2).jpg

穴ボタンの発明がペルシア帝国に始まるのなら、元の時代に穴ボタンは伝わったことでしょう。
中国北部の寒い地域の人々は、北ヨーロッパと同様の状況にあり、穴ボタンに飛びついておかしくなかったはずです。

筆者はこれを合理的に説明する説明を持ちません。
しかたがないので、仮にではありますが、

* 中国ではすでに紐ボタンが高度に発達していて庶民にまで普及していた。後発の穴ボタンが普及しにくい状態にあった
* 北ヨーロッパではまだ紐ボタンが普及していなかった。後発の穴ボタンが普及しやすい状態にあった

と、しておきます。

穴ボタンが西洋で広まっていった14~17世紀に、中国の王朝が南方系の明であったことも、影響しているのかもしれません。
明は重農主義で、異民族との対等な交易を建前上は禁止しました。
ボタンを有効活用できる北方騎馬民族との交易が低調な時代だったのです。

しかし、この考え方では清の時代にも穴ボタンが普及しなかったことの説明がつきません。
まあ、清は清で、過剰に民族主義的で、服装の変革に保守的だったのかもしれませんが。
辮髪と満洲服こそアイデンティティー!

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## 基本的にボタンを必要としなかった中世日本。なぜなら暑いから

さて、ようやくお話を日本に戻します。
唐をお手本にした奈良貴族たちでした。盤領を留める紐ボタンも学習しました。
しかし、紐ボタンは、あんまり日本では役立たなかったのです。なぜなら暑かったから。そう、暑かったから。

温暖湿潤なこの国は、基本、寒さ対策より暑さ対策の方が重要だったのでした。吉田兼好も言ってます。
「家の作りやうは、夏をむねとすべし」
この感覚は建築だけでなく服装にも影響したにちがいありません。

もちろん十二単の例がありますし、ある平安女官は二十枚重ね着して動けなくなったという逸話もあります。しかしながら十二単は実際には十二枚ではなかったとする説もあり、また、当時の絹織物は今よりずっと薄くて軽かったという見解もあります。

いずれにせよ日本が温帯であることはゆるぎません。大陸からやってきた沓《くつ》や盤領や裾をしぼったズボンなんかが次第に廃れていくのは、それら北方騎馬民族由来の「寒い国」の服装が日本の気候にそぐわないものだったからです。

とんぼを用いる盤領の紐ボタンが好まれず、庶民の服である水干になると「結ぶ」に変化したのも、同じ理由です。
奈良から平安にかけての日本は、かなり温かかったのです。
服は、ゆるゆるで開口部が多い方が良かったのです。
十二単は十二枚だよ派の中には、平安時代は寒かったと推測する人もいますが、気候学者はこれを否定しています。

温かいのであれば、ゆるっとした服を腰ひもで留めるくらいの服装の方がラクチンであり、安上がりで、丈夫です。
帯がちぎれたって動ずることはありません。荒縄一本あれば応急処置できるのです。なんなら蔓草でもいいですし、だぶだぶの部分を縛ったってよいのです。
紐ボタンや穴ボタンの服には難しい芸当だぜ。

もひとつ言えば、トンボという小さなものより、紐や帯の方が大きくて目立って、装飾品としても都合が良かったのでした。
複雑な組みひもは、時間をかけないと作れない高級工芸品です。
だからこそ、蟄居させられた真田親子が暇を持て余して真田紐を編んで売ったのではないかという想像が出てくるわけです(真偽はともかく)。

また、温かい気候は羊の飼育にも向かず、羊毛織物の文化が日本には生まれませんでした。

  >羊がいなかったからとか。綿や絹しか無いと布が貴重で、耐久性に難がある。ニットやフェルトは縢らないボタンホールを作れるし、傷んでも解いて再利用できる。あとボタンは使用人に留めてもらうものだとかなんとか
  (はてなブックマークコメントより引用)

という指摘は非常に的を射ていると思います。これは後述する次の「貧乏になるに従い可リサイクル服へと進んだ和装」へも関係してきます。

そんなこんなで中世日本。紐ボタンは、どうしても紐ボタンでなければならない部分を除いて、廃れていきました。

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## 貧乏になるに従い可リサイクル服へと進んだ和装

もうひとつ、和服がボタンを阻んだ理由に、その形態があります。
律令体制が崩れるにしたがい、朝廷はどんどん貧乏になり、税としての布も供給不足がはなはだしくなっていきました。
すでに紹介した通り、絹は耐久性に問題がありました。
木綿が普及したのは戦国時代で、奈良・平安時代の植物繊維は麻や苧《からむし》です。
おそらくではありますが、木綿にくらべると麻や苧は生産性で劣るのでしょう。
もとより、北方騎馬民族の服は、布地を人間の体形にあわせて裁断する――つまり、ハギレがたくさん生まれる――もったいない服でした。
しかも、個人の体形に合わせて裁断してしまうと、リサイクルも難しくなります。
布不足を背景として、和服はなるだけ布を切らず、
「一枚の布から縫い上がり、縫い目をほどけば一枚の布に戻る」
という、きわめてリサイクル性の高いものへと変化したのです。

大人から子供まで、太った人から痩せた人まで、仕立て直すことで対応するリサイクラブルでレスポンシブな服、それが和服でした。

こういう形態であったために、和服に穴ボタンが向かなかったということは、当然に考えられます。

> 着物には生地反物への可逆性がある 冬になれば夏の着物の縫い目をほどいて綿を入れたし 縫い目を全部ほどいて反物に戻してから染め直すなんてことも普通だった つまりボタンホールなんてじゃま
(はてなブックマークコメントより引用)

という指摘の通りです。

ひとつの可能性としては、北ヨーロッパもまた、布地の節約のためにボタン導入を進めたと考えられます。
日本とはまったく逆のアプローチですが、ボタンを使えば、和服の着物のように上前と下前を深く重ねなくてもよく、結果として布地は節約されるからです。

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## ボタンを必要とした、寒い地域のお金持ちと交易がなかった日本

ところが、その日本にも転機が訪れます。
14世紀から19世紀にかけての世界規模の小氷期です。
地球は寒くなったのです。冷房いらずでエじゃないか。

おそらくですが、産業革命以前の南ヨーロッパで高価な穴ボタンが普及していくのは、この寒冷化とも関係があるのでしょう。
もともとは北ヨーロッパの王侯貴族から銭こさかっぱぐために作り始めたボタン。
しかし、寒くなったら南ヨーロッパの人々も使いたくなっちゃった……と。

この、北は北極圏から南はイスラム圏まで、密な交易網があったことこそインド=ヨーロッパ語族文化圏の強みでした。
交易ネットワークがあり、ボタンが産業として成立しやすく、産業規模が拡大するほど生産コストが下がり、普及に拍車がかかる正のスパイラルがあったのです。
こうしてヨーロッパでは産業革命をまたずとも、14~17世紀にかけて、ちょっとした小金持ちや、服にお金をツッコむオシャレさんなら穴ボタンの服が手が届くようになっていったのです。
16世紀のブリューゲルが描いたオシャレ兄さんは、どう見ても上流階級ではありません。

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しかし、一方そのころ、日本。ちょっと寒くなりました。戦国時代に西洋と接触して穴ボタンの原理は知っていたかもしれません。
鎖国の後でもオランダ人はやってくるわけですし、17世紀や18世紀にもなれば穴ボタンのシャツを着たオランダ人がいたことでしょう。
穴ボタン、原理的には見ればすぐ理解できます。
実物がなくても、口で説明して日本の職人に作らせるのは容易だったと思います。

もし、この穴ボタンが普及すれば便利だろうと、近世の日本人もちょっとは思っていたかもしれません。
ところが日本は長いこと、寒い国のお金持ちとの大規模な交易というものが無かったのです。
しいて言えば北方騎馬民族系の中国王朝がそれにあたりますが、海にへだてられており、航海技術が未発達な時代にはリスクの大きい交易でした。
おまけに日本で貨幣経済が成立してから交易があった宋に明は、南方系の朝廷でした。
日本と同様にゆったりした「結ぶ」服装が主流だったのかもしれません。
北方騎馬民族の建てた元とは交易がありませんでした。
同じく北方騎馬民族の系譜である清とは国交はありましたが、徳川幕府は鎖国を国策としたので清との交易も限定的なものでした。
というか、徳川幕府は亡命してきた明の学者の影響を強く受けました。
明は重農主義的であり、異民族との交易を重視しなかった政権です。

アイヌの人たちは穴ボタンがあったらうれしかったかもしれません。しかし悲しいかな、彼らはそんなにお金持ちじゃなかったのです。
しかも、その交易は松前藩が独占していました。

工芸都市として栄えた会津、東北最大都市の仙台あたり、家内制手工業としてボタン産業が興っても不思議ではなかったと思います。
東北は寒帯に近い気候ですから。

しかし結局のところ、日本でボタン産業は生まれませんでした。

ヨーロッパのように家内制手工業でボタンが作られることはなく、作られないから普及しない、普及しないから誰も作らないという負のループが続いたのです。
江戸時代の日本人は少々の寒さや不便を我慢で乗り切る道を選びました。
作れなかったのではなく、作らなかった、が事実なのです。

> 薩摩ボタンは海外に輸出されていました http://www.satsumabuttons.jp/
(はてなブックマークコメントより引用)

というブコメがありました。薩摩藩のボタン輸出は幕末に始まります。
まさに、幕末になって幕府にいじめられ、進退に窮した薩摩藩が見出した「寒い国のお金持ち」との交易だったわけです。

そして明治。外国との交易網が樹立すると、もともと根付のような狂ったレベルの細工が大好きな日本人です。ボタンごとき、技術も材料もお茶の子サイサイであって、ボタン産業は飛躍的に伸びていったのでした。

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## まとめ

* 最初にボタンを必要としたのは服をぴっちり閉じたい寒い国
* 温かい国ではボタンはあまり必要ない
* 手工業の時代のボタンはコスパが悪かった
* コスパが悪くてもボタンを必要とした寒くて金持ちな国での需要があったため、西洋では手工業としてボタン生産業が発達した
** ボタン生産が発達する→生産コストが下がる→ボタンがさらに普及する正のスパイラル
* 日本はボタンをあまり必要としない温かい国だった
* ボタンを必要とする寒くて金持ちな国との交易もなかった
* もとより羊毛文化が根付かず、律令体制の崩壊とともに布不足になったため、和服がボタンに向かない仕様に進化していった
* 必要ない&向いてない&交易もないの三重苦でボタン生産が発達しない→生産コストが下がらない→ボタン生産が発達しないという負のスパイラル

以上です。
したがって、江戸時代日本にボタンがあったかなかったかで言えば、私の示した浮世絵やこはぜや紐ボタンが示す通り「あった」わけですが、普及していたかどうかでいえば、からっきしだったのでした。

ところで、私が示した歌麿の浮世絵の魚屋さんが着てるシャツ、どう見ても穴ボタンなわけですが、彼はどうやって、それを調達したのでしょうか?

画像19


長崎下りの舶来品を入手したのか、たまに江戸にやって来る外国人の服を見てオーダーメイドしたのか、蘭学者から海外の本を見せてもらって、それをもとにオーダーメイドしたのか。
喜多川歌麿が蘭学の本を見て、それを絵の人物に着せたという線も考えられます。
が、やはり西洋の服を模倣して誰かがボタンの服を作り、わずかながらもこの時代に出回っていたと見るのが自然に思えます。
同じく喜多川歌麿には『ポッピンを吹く女』という作品があります。

画像20

蘭学ブームの中、ポッピンやボタンのように安全で原理のわかるものから西洋を摂取しようという気分が、庶民にも広がっていたのかもしれません。

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まあでも、最初に申した通り、私はあんまり詳しくない分野です。
ぜんぜん的外れかもしれません。
あんた、めちゃくちゃ間違ってるで~な指摘を受けたら、しっぽを巻いて削除逃走するかもしれませんので、そこんとこよろしく。
(よろしくってなにを?)


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