妄想邪馬台国(9) おさらい回

 前回までのおさらい(追記あり)

 ・音韻学から上古音を再構築し、邪馬台国仮名なるもの作成すると従来の慣用読みが間違っている可能性が高い。

  投馬国の読みはヅマ国になり、イズモに似ている気がする。

 ・音写ルールを確認する限り、邪馬台国の時代に上代特殊仮名遣いは成立しない。中古音をベースにしてこれはオ甲、オ乙を分類する意味は無い。そもそも魏志倭人伝は上古音で中古音とは音が違う。それ以前に上代仮名遣いに存在しない語頭濁音の存在が確認出来る。

 ・中国の外洋船は唐初期で40人乗りが限界(画期はイスラム商人来唐によるダウ船)を、中国では緩やかな大河川や運河を移動するための内航船は発達していたが激しい潮流や波高に対抗できる外洋船が発達していなかった可能性が高い。

 ・距離と方角は儒教によって決められており、宗教的な意味合いが強いのであてにならない。

・ 三国志では、懿の置き換え字に壱を使っているので誤読を招き兼ねない音写に使えないのでは?大元の資料から懿の字を避けていそう。

 ・水行の日数は合っているだろうから、帆船を使っていた場合、出雲経由の北陸説もしくは近畿説を採用した方が良かろう。帆船でなければ九州説が有力になる。魏志倭人伝に於いては伊都国まで陸行を挟んでいるので舟を乗り換えたとも考えられるが、魏略と比較すると伊都国の陸行は間違えて入れてしまったとも考えられる。また、末盧国から水行し、伊都国を経由していない可能性も考えられる。

 ・水行十日、陸行一月は、もしくはと取るべきである。のちにで読むと関東説が成立しうる。

 ・邪馬台国の派遣船の積載量は下賜されたものから、一艘あたり1t前後と予想される(この時代に馬が入ってきていないのも傍証になりそう)

 弥生時代の丸木船の積載トン数を検証したものはネット上では発見できなかった。

 ここから追記

 ・文字の意味から考察するのは無理。卑弥呼の卑の字であるが、正確に音写しようとすると非か卑の二択になる。音写に使える漢字の選択肢は、ネイティブになればなるほど選択肢が限られる。例えば、飛はヒと読めるがネイティブはプィ(pʉi)に成るため日本語にヒの音写に使えない。肥もブィ(bʉi)になるので選択から外れる。音写したのが倭人であれば飛や肥が使えるが、ネイティブなら選択肢に入らない。誤読を生じやすい非の文字を避けると卑一択になる。卑の文字は、むしろ音に忠実に音写した結果生じたと考えられる。上古音は音が多いので楽そうに見えるが、エの音写には苦労している。

 ・従来型の弥生人渡来人説は、例えば100万人移住したなどおかしな仮定が多い。この説は、毎年1000艘以上の大船団で北九州に組織的な移住してこないと成立しえない。当時の大陸の造船技術で対馬海峡を1000艘で運べるのは稲作半島経由説を唱える人物が想定するような丸木舟なら3000人そうでなくても10000人程度だろう。それ以前に半島経由説では帆船の存在すら想定していない様なので渤海使みたいに対馬海流に流され東北あたりに辿りつきそう。しかもその渡来人は水田が耕せる様になるまでの間、100艘以上の船を使って毎月物資や食糧を調達すうr必要がある。弥生時代の渡来人は焼畑が成立する数家族単位で、無人の地に入植して狩猟採取をしながら生活していたと考えた方が良さそう。

 ・千戸の対馬人が生活を維持するには月125艘以上が半島と北九州を往復して生活物資を運び込む必要がある(船の積載量を1tと仮定した場合)。年に必要な穀物は米一石に相当する150kg。1戸5人とした場合、年間750tを運びこむ必要がある。しかし、この時代の米は籾殻でなく穂の状態で運ばれていた。そのため倍の量を持ち込む必要がある。つまり1500tが最低のラインになろう(穀物を得るために必要な物資をさらに加える必要がある)つまり最低月125tを対馬に運ぶ必要がある。交易物資が無いと穀物が手に入らないことや遭難リスクを考えればその倍250tではないか?

 帆船がないと千戸も住めない気がするよね(もっとも魏志倭人伝の人口は全くあてにならない)
 古墳時代の対馬の推定人口が7000人。しかもその半数以上が防人。

・ 呉は遼東で工作していた(魏より呉の方が行き来しやすい)が司馬懿の軍に対抗するだけの兵を送り込めないので公孫淵を見殺しにしている。恐らく当時の舟で海を経由した軍の移動が出来ないのだろう。呉は、夷州・亶州(台湾とも日本とも沖縄とも海南島とも諸説あり)に兵1万を送り込んだが、亶州には辿り付けず、兵の八から九割を失う大失敗に終わっている。夷州には辿り付けているので夷州は海南島の可能性が高い。

・隋書流求伝(この時代の流求は恐らく沖縄ではない。諸説あり)で水行五日とあるが、これ時代でも中華王朝は、まともな外洋航海ができていない様である。陳稜伝には捕虜数千と言う数字があるが、この国は、膨大に数字を盛るし、その辺の農民を捕まえて捕虜にカウントするしで信用ならない。船に馬を積んでいたらしい記述があるので、この時代には馬を日本まで運べたようだ(馬は5世紀頃に入ってきたはず)そもそもこの伝にある流求の場所が唐の時代には特定できなくなっていた時点でお察し。

大業三年,拜武賁郎將。後三歲,與朝請大夫張鎮周發東陽兵萬餘人,自義安泛海,擊流求國,月餘而至。流求人初見船艦,以為商旅,往往詣軍中貿易。棱率眾登岸,遣鎮周為先鋒。其主歡斯渴剌兜遣兵拒戰,鎮周頻擊破之。棱進至低沒檀洞,其小王歡斯老模率兵拒戰,棱擊敗之,斬老模。其日霧雨晦冥,將士皆懼,棱刑白馬以祭海神。既而開霽,分為五軍,趣其都邑。渴剌兜率眾數千逆拒,棱遣鎮周又先鋒擊走之。棱乘勝逐北,至其柵,渴剌兜背柵而陣。棱盡銳擊之,從辰至未,苦鬥不息。渴剌兜自以軍疲,引入柵。棱遂填塹,攻破其柵,斬渴剌兜,獲其子島槌,虜男女數千而歸。

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