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Y-DNAとインド・ヨーロッパ祖語の関係

 インド・ヨーロッパ祖語と言うのは6000年から9000年程前に分化したと考えられている、ヒンディ語、サンスクリット語、ペルシア語、ロシア語、ドイツ語、ラテン語、フランス語、英語(他無数)などの祖先とされているものであり、これらの言語は同一の言語から分かれたものとされている。

 これら言語を話す民族に特徴的に現れるY-DNA ハプログループ(Y染色体のDNAの分類、男系しか分からない)が、R1a、R1bと言うDNAになる。これらR1系は旧石器時代の中央アジアにいた狩猟採取民族だと思われる。縄文人がドングリを拾っていた時代に、動物の死骸を求めて徘徊していたと思われる。そのため、R1系の分布範囲はかなり広く、中央アフリカのカメルーン北部などにもホットスポットが存在する。これらはアフリカやシベリアに移動した集団が孤立した集落を維持し続けたため消滅せずにそのまま残った可能性が考えられる。そうでなければ他の集団に吸収されて残っていなかっただろう。このようなポイントはヨーロッパにもありサルディニア島は、I2aが非常に多い。バルカン半島(イリリア、トラキア)とサルディニア島では、この特徴的な遺伝子が多数派をしめている。古代史に出てくる謎の民「海の民」の末裔ではないかとなどと妄想してしまう。ちなみにバルカン半島のスラブ系はY-DNAでみるとI2aやギリシア系の比率が高いため純粋なスラブ系と言いがたい。しかしDNA全体で見ると東西スラブと親近関係にあるらしい。この当たりはY-DNAと言語の関係を調べるときの罠になる。母系社会はY-DNAでは追えないからだ。ヨーロッパの言語学者がこの罠によく引っかかる。家父長制のインド・ヨーロッパ語族の手法で正規化出来ると勘違いしている連中だから。

 現代のY-DNA分布図をみるとR1aはスラブ人、イラン人、インド人に多く、R1bは、ケルト人、イタリア人、スペイン人に多くみられる。特にアイルランド人は80%がR1bと結果が出ており、ケルト人は元々Y-R1bだけで構成された超純血集団らしき痕跡が見られるが、とあるデータによるとY-R1bがアイルランドに入ってきたのは5200-4000年前頃。しかしケルト人の移動は2500-2000年前なので、最初に入ってきたのはケルト人ではなくピクト人かもしれない。遺伝子分子学と考古学証拠が全く一致しない。

 一方、ゲルマン人の場合、スラブ系R1aや先北欧人とみられるI1(北欧神話に出てくるヴァン神族ではないかと邪推してしまう)も多く見られていて、どこぞのちょびひげが主張していた純血なアーリア人ではなくスラブとケルトと原ヨーロッパ人の雑種である。

 そして言語学とY-DNAを結びつける場合、一番注意すべきはR1aとR1bが分かれた時期になる。その時期は統計的には2万5000年ぐらい前になるらしい。つまり祖語が構築される遙か前に母集団が分裂している。これは言語学的には考えられない。そうなるとインド・ヨーロッパ祖語は、R1aの集団とR1bの集団が分裂し、R1a-M417とR1b-L23と呼ばれる一部集団が再合流(母集団に混血が見られないので接触だと思われる)した後に出来た可能性が高いと考えるのが合理的だ。またこの集団は農耕牧畜を行い、車輪が発明されていて、家父長制を引いていたと考えられる。すなわち、動物の死骸を求めて徘徊していた集団が(恐らくメソポタミア近隣の)農耕・牧畜民の影響を受けて半定住した後に構築された言語と考えられる。

 しかも5000前-7000前の男女比は1:17と言う説があり、男性が異常に少ないのだった。

 実際には考古学的な考察が必要になろう。しかし現状、諸説入り乱れている状況で候補の範囲が広すぎて特定が難しい。

 さらに古いインド・ヨーロッパ語居住地の古代ギリシア語の地域をみるとR1aもR1bも多いとは言い切れない地域が多い。古代ギリシア語はギリシア人(イオニア人、アイオリス人、ドーリア人)がバルカン半島に侵入した後に生まれたと考えられるのでおかしく無い。特にスパルタは全数に対するギリシア人の割合がそもそも少ない(1/20以下)。アテナイあたりだと市民の半数ぐらいが奴隷らしいが市民から奴隷落ちのケースがあるので参考にならなが、市外で農業やっていた非市民が数にカウントされていないし、そもそもギリシア人と言う集団が複数の言語集団の混合で構成されている。ギリシアに侵入して先住民を支配した民族の一つが原ギリシア語話者で、それが主流言語に置き換わったと考えるのが妥当だろうか?

 極めつけはヨーロッパの言語で1500年以上遡れるもので現存する言語はラテン語、ギリシア語、ゲルマン語、島ケルト諸語とインド・ヨーロッパ語に入らないバスク語とフィン語ぐらいしかない。つまり大半のケースは言語が入れ替わっただけで住民は入れ替わっていないと考えられる。領域国家における支配者交代による言語の入れ替わりは、ローマ帝国、トルコ、イスラム化したエジプトで見られておりかなり頻繁に起きる現象だ。しかし、言語交代が起きなかったケースも多い(イギリス、スペイン、ポルトガルなど)。

 ガリア地域はローマ化してロマンス語を話す地域になっているし、スキタイ語の地域はスラブ語に置き換わっている。イングランドに居たっては、ケルト語化した後、ラテン化し、ゲルマン化し、デーン語とフランス語の影響を受けた結果、ゲルマン語とは似ていない言語に変化している。

 しかしながら、英語を見る限りインド・ヨーロッパ語に於ける語群の文法の差は元の住民の基層言語の影響を受けていると考えられる。要するにゲルマン語がロマンス語と異なった文法や語彙を持つのは先北欧人の言語の痕跡と考えられる。別の説によれば、そもそもゲルマン語は原スラブ語と原イタロ・ケルト・ゲルマン語のハイブリッドらしい。

 Y-DNAの分布とインド・ヨーロッパ語族の分布が似ているのは偶然の一致と考えるしかない。先ヨーロッパの痕跡として残っている言語がバスク語ぐらいだが、バスク地方はなぜかR1bが多い。逆にバスク語への言語交代が起きた可能性があるし、バスクのR1bはインド・ヨーロッパ語族ではない可能性すらある。

 しかしインド・ヨーロッパ祖語は人工言語みたいな感じがする。あと父系社会率が異常に高い。その辺を踏まえて東アジアの諸言語に切り込めると面白そう。この話、大抵O-47zと日琉語族の関係の話になるのだけど、反証としてパプア=ニューギニアをあげておく。パプア=ニューギニアの場合、隣村で既に言語が異なる状況で800以上の言語が一つの島に存在している。つまりY-DNAの分布より言語の多様性の方が遙かに大きいのだ。しかもパプア=ニューギニアは定住農耕民である。半定住の縄文時代は、それ以上に言語多様性が高い状態だった可能性が高い。そのうち優勢な言語がピジン化して日本語やアイヌ語として成立したと言う説を否定するに足る材料は言語学者には存在しない。またこのような多数の言語を抱えている場合、社会制度が広域かつ複雑になると便利な言葉(公用語や行政言語)に置き換わるケースが見られる(フィリピンや台湾で見られた現象)。逆に言うとそのような淘汰圧が存在しない場合、モザイク状に言語が散らばることになる。これらはサハラ以南アフリカや北アメリカのネイティブアメリカン、アマゾンの先住民などでも起きている。ローマの草創期のイタリアでも少なくとも18つの言語が存在していた。イタリアは紀元前から文字記録が存在しているから分かるレアケースだ。フランス、イギリス、ドイツは10世紀頃までラテン語以外は無文字だからどのような言語が存在していたかなど分からない。

 縄文時代にも弥生時代にも統一国家は存在しない。数多の集落が共存した時代だ。むしろ統一された言語が存在した考える方が難しい。これは古墳時代に入っても同じで朝廷に帰服しなかった、土蜘蛛、隼人と言った集団は別言語を話していた可能性がある。なにしろ、日琉祖語は1500年前後(3世紀から7世紀の間と推測されている)から分岐が始まるとされているため分岐が非常に遅い。琉球語と九州方言の分岐は一説には7-8世紀。そのため大和王朝の王権拡大と共に広がった言語と考えるのが妥当だ。そして日本のやまとことばを文字で表記するようになるのも同時期だ。

 何が言いたいかと言うと言語学の範疇だけで言語の歴史など分かる訳がないし、考古学でも分かる訳がない。悪魔の証明的だが、弥生時代の日本語は複数存在したと考えられる。そういえば、4世紀の朝鮮半島は10個ぐらい言語あったな(三国志にかいてある)

※ 北欧神話(9ー13世紀に作られたもの)は西ゲルマン人(ドイツ)の神話がベースになっている様で、ドイツからスウェーデンを経てアイスランドに渡り神話としてまとめられたのだろう。北欧は、キリスト教化が遅かったため伝承を書物にまとめる余裕があった。同時期のドイツで同じ事をしたら恐らく禁書、火あぶり。その理由は、西ゲルマン人はオーディン信仰だが、北ゲルマン人(ノルマン人)はイング信仰だったから。イングは北欧神話ではヴァン神族出身のフレイと同化したと考えられている。つまりアース神族は西ゲルマン人、ヴァン神族は北ゲルマン人のことを差している。巨人族はそれ以前に住んでいた民族だろうね。

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