岡本みっくのプロフィール
お笑いライブや映像を作ったり、文を書いたりしています。
経歴がややこしいので、なんでこうなったか、順を追って書きます。ここからは長い文章になります。
大学まで
岡山県倉敷市に生まれる。
小学生の頃、『笑う犬の冒険』を見てオセロの中島知子さんに憧れる。自分にあんな才能はないから、このすごい芸人さんたちを売り出す人になろうと考える。フジファブリックが大好きだったので、バンドもやりたいなと思う。
毎日YouTubeでネタを見たり、ドラムを習ったりするも、田舎ではどうにもならず、上京を目指して勉強する。岡山大学教育学部附属中学校、岡山朝日高校を卒業して、早稲田大学商学部に入学。青春を犠牲にして、晴れて上京に成功する。
ウキウキ大学生活では、バンド、ヨセケン、劇団、ストンプ、放研など、よくばりまくったが、最終的に自分に何が残ったのかわからない。今ブームの大学お笑い世代よりも数年早かったので、そのへんのつながりもない。音楽だけは20代半ばまで頑張ったものの、踏んだり蹴ったりで全く向いていなかった。学部も商学部なのに、社会経済どころか飲み会の割り勘すら苦手。
就職とWalive!
卒業後は、お笑い業界のために何かしたいと思い、テレビよりも身軽に動けそうという理由でWEBディレクターの仕事に就く。いろんな企業のウェブサイトや企画を考える。
ちょうどその頃、『Walive!』というHTMLむき出しのお笑いライブ検索サイトを発見する。日付で検索すれば、ルミネも無限大も芸小もtwlも、都内のライブがずらっと一覧表示されるという、当時は他にない画期的なサイトだった。
「吉本のひとり勝ちで地下ライブがなかなか見つけてもらえないお笑い業界にとっては絶対必要なサイトなのに、見た目がしょぼすぎる!」と中の人を叩き起こす。
そこからタッグを組んで、お笑いライブシーンに役立つサイト作りを始める。
ナタリーに転職
1年後、あの「ナタリー」の求人が出たので、だめ元で応募する。
面接に行くと、唐木さんと卓也さん(恩人①)にその場でツイッターを特定され、自分がドラムを叩いたバンドのYouTubeを大音量で流されるという散々な目に遭うも、合格。自分と抱き合って歓喜する。108円をケチって自分で作った履歴書がよかったと入社後に唐木さんから褒めてもらえた。
ナタリーアプリの立ち上げに携わらせてもらい、楽しすぎる2年間を過ごす。今も卓也さんをはじめナターシャの皆さんには感謝している。
一方、Walive!も順調に整備され、インタビューなどコンテンツも増えた。暇さえあれば夜行バスで大阪へ行って、走ってライブをはしごしまくった。
しかし、幸せも束の間、25歳という節目を前にして、今のお笑い業界をよりよくするためには、芸人目線で必要なことを探らなければという無謀な挑戦心がむくむくと芽生えはじめる。ナタリーで働いていると、同じライブシーンでもお笑いは音楽の経済規模に全然勝てないという現状を痛感したので、どうにかしてお笑い業界のあり方を変えなければと鼻息を荒くしていた。
4月、NSC入学を決意する。
芸人になる
大好きだったナタリーを辞めて、とつぜん芸人人生がスタートする。ちなみに一緒に入学するはずだった友人がいたが、入学金を振り込まず不合格になった。震えながら一人で入学する。同期の自己紹介で、憧れの芸人が「ダウンタウン」さんではなくほとんど「サンドウィッチマン」さんで、時代の変化に驚く。
授業では、エチュードがまったくできず泣きながら通う。関西弁と広島弁が混ざっているので、エセ関西弁と言われて悩む。ラッキィ池田先生の授業は、恥を捨て去れば意外と楽しかった。同期のおもしろ男2人とトリオを組んでからは軌道に乗り、素人にしては十分すぎる結果で卒業する。青春がなかった分、卑屈な童貞ネタがいくらでも思いつき、それが武器になった。
憧れのびーちぶの舞台にまで立つことができて、飛ぶ鳥を落とせる気がしてくる。このまま芸人でもやれるんじゃないかと勘違いしそうになったところで、トリオが解散する。さらに同じ頃、Walive!が不可抗力によって消滅。
(現在、同機能はワラリー!さんが提供しています。)
すべてを失って占い師に
戻る場所を失い、ただのニートになる。
正確に言うと、芸人として一芸のために歌舞伎町のタロット占いバーでアルバイトをしていたので、残った肩書きは「占い師」だった。
自分としては非科学的なものはそんなに好きな方ではないのだけど、なぜか占いに縁があり、どの占い師からも共通して「前世は巫女」で「占い師に向いている」と言われた。
バーのマスター夫婦(恩人②)も本当に可愛がってくれたが、このままお笑いを諦めて、天職(?)の占い師を本業にするしかないのかと悩んでいたところ、同期の作家で薬剤師でもある渡邊さん(恩人③)が「作家になったらどうですか?」と吉本に話を通してくれる。深夜ラジオは聞かないし、大喜利もそこまで好きじゃない自分に、作家という仕事が向いているのかよくわからなかったが、他にできることもないので作家になる。
暇すぎて
作家になると、NSCでもお世話になった本多先生の作家講義みたいなのを受けることができた。本多さんは何千人もNSC生を見てきているのに、私が芸人としてネタ見せにいたことを覚えてくださっていて、本当にすごい方だと思った。
作家としてライブについたり同期のYouTubeを作ったりして楽しくなってきたところで、次の人生が出現する。公務員の年齢制限が迫っていた。もちろん公務員になりたかったわけではなく、唯一お笑い以外でなりたい職業がたまたま公務員の中にあった。
(家裁調査官という仕事です。詳しくはググってください。この仕事に就きたかった理由は大真面目な話になるので、いつか機会があれば別記事で書きます。)
もういいかなと忘れかけていたが、鎌倉でオリジナルの指輪を1000円で作れるお店へ行った際、1時間待ちの大行列で、あまりにも暇だったので、公務員の予備校に資料請求する。今から合格するのはさすがに厳しいと言われたが、どのみち作家の仕事もまだ少ないし、ずっとやりたかった勉強を時間のあるうちにしておこうと思い、0から心理学の勉強を始める。
霞ヶ関生活
3ヶ月後、合格し、公務員の人生がスタートする。田舎の親戚一同が"国家公務員"とだけ聞いて大喜びしていた。
大切な金髪のロングヘアーをバッサリ切り、黒髪ボブにして心がしゅんとなったが、趣味で裁判傍聴に行っていた時期もあるくらい好きな分野だったので、毎日犯罪心理や発達心理について勉強できて、再び充実した生活となる。税金も払えない極貧作家から税金を頂く霞ヶ関OLへとスーパーレベルアップする人生ゲーム。
1年と数ヶ月、あまり記憶がないくらい働きづめの生活を送る。社会的に弱い立場にいる人や苦しんでいる少年たちの役に立てたかはわからないけど、寄り添って一緒に考えることができて、本当にやりがいのある仕事だった。結局任官せずに辞めてしまったので語る権利はないのですが。
お笑いに戻る
退職したのは、公務員の働き方は自分にとって非常に息苦しかったのと、なにより憧れてきた先輩芸人の解散のしらせを仕事終わりに見て、自分がどうにもできない関係ない世界にいることがもどかしくなったからです。本当に体がふたつあればと思いました。
ちょうど退職を考え始めた時に、街裏ぴんくさん(恩人④)からYouTubeのお話をもらい、戻る場所ができました。戻ってきた今、すぐに声を掛けてくださったマルクスさんや福田さん、小林さんも恩人⑤です。
ちなみに、田舎の親戚一同にはまだ退職したことを伝えていません♡
これから
自分はやっぱりネタが好きです。ネタ見せで、的確な講評の最後に「好きなようにやりい」といつも言ってくださった本多先生のように、芸人のやりたいことを尊重し、ネタを大切にする作家になりたいです。
でも、そもそも自分が作家に向いているなんて思っていなかったし、今も向いているのかわかりません。友人や先輩にアドバイスをもらって流れ着いた結果です。自分の社会的価値は、自分が思い描くところではなく、周囲が求めるところにあるんだと思います。
だから、今後突入していく30代でも、自分にできることを決めつけず、求めてもらえることに精一杯応えていきたいと思っています。転々とした分、お笑いの地下深さだけでなく、法律や心理学、占い、音楽など幅広いジャンルに詳しくなったので、それらが誰かの役に立てばなと思います。ちなみに、弟は新進気鋭のゲーム制作ディレクターなので、アニメや漫画にも詳しく、自分と弟の知識を足すと、岡本家でminiナタリーが完成します。自分に何かできる仕事があればお声掛けください。
また、調査官の仕事は辞めましたが、あらゆる状況で苦しんでいる少年や悩んでいるお父さんお母さんたちのために、自分にできることを続けていきたいと思っています。保護観察の制度自体も、もっと若者が協力できる部分があるのではないかと考えているので、いつかは自分も保護司をやれたらいいなと思っています。そのために引き続き勉強を続けていきます。
連絡先
okamoto.mick@gmail.com
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