インタビュー 「街裏ぴんく」(2019年10月12日)
多種多様なお笑いの世界でも数少ない、”漫談”で独自の世界に引き込むピン芸人、街裏ぴんく。チケット即完売の熱狂的人気を誇ったお笑いライブ「バスク」への出演を契機に東京ライブシーンを虜にし、今やその噂はお笑いフリーク以外にまで広まっている。
今年こそはとR-1ぐらんぷりに向けてファンの期待が年々高まる中で、ストイックにネタを作り続ける彼は今どのような心境なのか。今回のインタビューでは漫談という芸風が築かれるまでの芸人としての出自と、現在のネタへのモチベーションを探ったが、そこには想像していた以上の、そしてそれは周囲の期待よりもはるかに大きい、彼自身による覚悟と追及の苦悩が見えてきた。(2019年10月12日)
取材・文 / 岡本みっく
写真提供 / 片岡フグリ(@kataokafuguri)
0 想像の原点
”うわーって上から落ちてくるんですよ、人形が”
(インタビューの前にアンケートに記入していただきながら)
──やっぱりひとりっ子なんですね。
そうなんですよ。
──ぽいですよね。
あ、ほんまですか(笑)。ひとりで人形でずーっと遊んでましたね。
──ひとりっ子って想像力豊かなイメージがあります。
半分に分けるっていうのが好きやったっすね。
──半分に分ける……?
例えば『抱きチラシ』っていうネタで、自分がやった単独のチラシとかって、変に記念に残して捨てれなかったりするけど、それを抱っこしてくれる教会があるっていうわけわからんチラシが入ってて、そのエントリー用紙に「都は明るい/暗い」って丸するところがあるんですよ。どういう意味やねんって適当に明るいに丸して出すんですけど、当日教会行ったら、こっちが明るいに丸した人で、こっちは暗いに丸した人って部屋の真ん中で分けられてるんですよ。
──いいネタですよね。
ああいうのも、人形を2分割するっていうのが自分の中の遊びとしてあったんで、あれをやってる感じなんですよ(笑)。
──人形を……?
なんかうわーって上から落ちてくるんですよ、人形が。それを自分の采配で分けていくっていう(笑)。
──ものすごい想像力ですね(笑)。
でも分けたい。
──分けたい(笑)。
で、「今回はこっちやったか」みたいなのをひとりで言ってるんですよ。こいつは昨日こっちやったとか、自分の中で覚えてるから。それが楽しかったですね。
──それはだいぶユニークな子どもなんじゃないですか(笑)。ネタに出てくる変わった名前なんかもそういう想像力から来てるんですかねえ。
あー、あれ好きなんですよ。でも適当にいっぱい出すだけですね。ほんまに適当に出してみて、響きですね。
──最初はなんでやろうと思ったんですか?
漫談の登場人物の名前ってめっちゃ迷うんですよ。なんかええ感じのが欲しくてね。あと、漫談の冒頭で突飛なボケしたいっていうのもありますけど。
──つかみとしてもいいですよね。普通はそれを考えるのに一苦労しますから、そういうフォーマットを生み出したのがすごいと思います。
なんなんですかね、どこがルーツなんですかね。たまにめっちゃいいのに巡り合ったりするんですよ。例えば、「田園調布に家が建つ」で「田調家建(たしらべけけん)」っていう、そういうちゃんとある言葉やのに、音読みにしていったらめっちゃおもろいとかがあるんで、やめられないんですよね。
──これ文字だと伝わるかわからないですけど、音で聞くとめちゃくちゃ面白いんですよね(笑)。
あと大阪時代は危ないことも言うみたいな感じでやってたんで、「白い粉を吸う」に太郎つけて「白粉吸太郎(しろごなきゅうたろう)」っていうのとかもあったんですけど、こっち来て忘れてて。そういや白粉吸太郎とかやってたなと思って。でもヤバいこと言いたいだけみたいになってもおもんないなと思って、黒い粉にしたら「黒粉吸太郎(こっこきゅうたろう)」ってよりおもろなったっていうのとかあったり(笑)。
──「こっこきゅうたろう」って響きすごくいいですね(笑)。
だからほんまに遊びですね。息抜きどころかもしれないです。
──それで遊べるのがひとりっ子っぽいですよね。
相方がいたらやってないかもしれないですね。ひとり遊びの延長ですよね。でも常にうわーって喋ってる自分を客観視はしてますけどね。何を言い放って、言い切って、押し通してたら面白いんやろ、みたいな。たまにね、おもろなるんですよ、お客さんはめちゃくちゃなことをすごい勢いで言われてるじゃないですか、その気持ちにたまになるんですよ、めっちゃかわいそうっていうか、不憫になってきて(笑)。何されてんねやろ、みたいな。19時に集められて、お金まで払って、ない話を延々と熱込めて喋られて、唾とばされて。
──いや本当ですよね(笑)。
めっちゃかわいそうやなって思ったらおもろい。かわいい。
──たまにネタ中にふっと我に帰ると、何やろこれ!?ってなりますもんね(笑)。
ねえ、そう思ってほしい。極論、何してるんやろって思って帰ってくれてもええし。そうなったらほんまに僕の意図がね。「あ、気づいたんや、こんなことしてる場合じゃないって」って(笑)。
1 お笑いの道へ
”僕のやる気が相方を追い抜いた”
──ではまず芸人を始めたきっかけからお聞きしたいんですが、養成所には行かれていないんでしょうか?
養成所は行ってなくて、大阪で大学1年の時に、高校の同級生から誘われたんです。相方は小学校の時から芸人をやりたかったらしいんですけど、各々違う大学に行った時に誘われて。だから最初は付き合う程度というか。面白そうやし、暇やし、みたいなノリで始めたんですけど、当時は特に目指すものもなかったので、「おもしれー」って思ったんですよね。刺激的やったというか。で、2か月ぐらいで「俺もちょっと本気でやりたい」みたいなことを言って、正式にコンビを組んで。吉本のオーディションが初舞台でした。
──吉本を受けていたんですか。
プレステージっていう大阪の吉本に入るためのオーディションがあったんです。でもそのうちだんだん相方のやる気がなくなってきてしまって。コンビって立場性というか、どっちかが引っ張っていくとかあるじゃないですか。それ僕が下やったんですよ。でも僕のほうがこういう笑いをやりたいっていうのがあったし、僕のほうがネタ書いてた。けど決めるのは相方やって。そこのフラストレーションで僕のやる気が相方を追い抜いたというか。「俺ひとりでこいつのフィルター通さずにやってみたい」と思ったんです。だからもうはっきり言ったんですよ。ざっくり「解散したい」じゃなくて、「ピンでやりたい」って。
──誘われて興味本位でネタを書いていくうちに、やりたい笑いが相方にわかってもらえないフラストレーションを感じるまでになったと。
僕が書いてきても、「いや、これ伝わりにくいからやめよう」って。だから自分ひとりでバーッとやったら、伝わったんすよね。やっぱり間違ってないやんと思って。で、ピンになって最初1年はフリップやってたんですよ。芸歴でいうとコンビで3年間やったので、4年目ですかね。インディーズライブに出て。
──その時はもう大学出てますか?
大学はもう出てますね。
──じゃあ就職はしなかったということですか?
しなかったですね。親にお笑いを本気でやるっていうのを、コンビ組んで2年目ぐらいの時に言いましたね。
──誘われて始めたお笑いが、本気で将来を決めるものになった。
そうですね。お笑いといえば高校2、3年ぐらいの時に、休み時間に理科の先生になりきって架空の授業みたいなのをやったりはしてたんですけど。男子校で。
──その時から嘘というか架空のことは言っていたんですね。
そうなんですよね。相方に「これ伝わらんから」って言われてたのも全部、今やってる嘘のニュアンスなんですよね。それの荒い版というか。
──解散して、また別のコンビを組もうという選択肢はなかったんでしょうか?
なかったですねえ。
──それはなぜですか?
ややこしいと思いました。もしまたこうなったらと。気遣っちゃうんですよね。だからあんまり言えないんですよね。
──人と一緒にやるのが、もう。
そう。舞台でかけてみないと俺も「これ絶対いけるから」なんて言われへんし。自分のやりたいネタがあるけど、自分のネタでこいつの人生を引きずっちゃうのも嫌やし。もうひとりでって決めました。そこからラクやったっすね~。
──不安はまったくなかったですか? いろんな舞台のシチュエーションがあると思いますけど、ピンでやれるかな、みたいな。
あんまり深く考えてなかったですねえ。もうとにかく誰にも邪魔されずにやりたい、っていう感じでした。それでやってみたら、コンビで3年ダラダラやってた時よりええがな!ってなって(笑)。
──すごい。
そのコンビは最初、相方がボケで、僕がツッコミだったんですよ。僕が考えたボケを相方が言う、で僕がツッコむでしょ。だから僕がボケて僕がツッコみたいんですよ。ほんまにあれですね、不適合者やと思います(笑)。
──全部自分でやりたいんですね(笑)。
誰も寄せ付けたくないみたいな。だから結局、ピンが性に合ってるのかな。
──自分の中に完成されたお笑いがあるんですね。
やりたいっていう笑いは。これが面白いっていうのはありますね。
2 大阪ピン時代
”井の中の蛙というか、それ以下”
──ピンになってからのフリップネタはどのようなものだったんですか?
「キタイ花ん」っていうライブの作家の村瀬さんっていう人に、見た目怖いからあえて怖いこと言えって言われたんですよ。キャラを立たすために。変に可愛げに寄せるんじゃなくて。その当時、今より20kgぐらい痩せてたんですよ。細くてこの顔なんで、マジで怖いと(笑)。それでキレながらフリップをブワーってやって、蹴飛ばすみたいな感じでやってましたね。
──なかなかイカついですね(笑)。
その時に松竹のマネージャーが見て声かけてくれて松竹に入ったんですけど、それは1年で辞めて。ネットにある情報を刷ってフリップにしてツッコむのはちょっと限界があるなあと。それでピンになって半年ぐらい経った時に漫談をやってみたら楽しかったんですよね。事実に対して「こんなしょうもないおっさんがおってね」みたいにぼやく、品のない感じの。
──怒るスタイルはそのままに、フリップから漫談へと路線変更という感じですか。
そうですね、漫談も怒りのまま。いつからか2割ぐらい、ほんまにやりたい嘘もやってたんですけど、それはあんまりウケがよくなくて。
──松竹を辞めてから事務所のほうは?
大阪でずっと生きていく気やったんで、吉本新喜劇の座員になろうと。
──新喜劇ですか!
もちろんずっと先は漫談をひとりでやりたかったんですけど、大阪で新喜劇の座員ってめっちゃ顔知れるんで、そこは変に戦略的になって。結局、最終選考まで行けたんですけど落ちて。
──金の卵オーディションですか?
そうです、そうです。年1回のやつ。一週間前ぐらいに台本が自宅に送られてくるんですよ。それを覚えて本番で初対面の人とやるんですけど、演技も何もやってないから、もう緊張して覚えた台本どころやなかったですね(笑)。でも諦めきれず、でも次のオーディションは1年後やから、島木譲二師匠の弟子入りの申し出を一週間以上、路上で立ってやってましたね。師匠がよく来てるという喫茶店で月見峠っていう同期がバイトしてたんですけど、そことNGKの間で待って、2回コンタクトとって。
──どうなったんですか?
あかん言われましたね。「身の回りのことも全部やらせてもらいます」ってアピールしたんですけど。「はよ辞めてお母ちゃんラクさしたり」とか、「そんな身の回りのことやってもらうほど落ちぶれてないから」みたいな感じで。でもその5分後ぐらいに師匠が水飲んだんですけど、3割ぐらい口からこぼれてたんですよ(笑)。その手伝いをやる言うてんねん俺はっていう(笑)。で、新喜劇も諦めて、そこから独演会をやり始めました。
──新喜劇を諦めて、フリーで独演会を?
2010年2月、2010年9月、2011年6月の3回やりました。ピンになって4、5年目ぐらいの時ですね。ZAZA HOUSEを埋められるぐらいにはなって、ちょっと自信つけれて。
──フリーで、なおかつピンで、ZAZA HOUSEを満席にするのはすごいですよね。
いやいや。でもそれでフリーでもいけるんやと東京に出て来て、もうほんまにズタボロになりましたね。
──大阪でやっていくつもりだった新喜劇時代からどういう変化があったんでしょうか。
ずっとフリーで活動する中で、吉本にもやっぱ今さらっていう思いもあって行きたくなかったんで、味園ビルのライブハウスとかに細々と出てたんですよ。
──白鯨とか紅鶴とか。
そうですね。めちゃくちゃいい劇場やし、あったかいんですけど、ただ毎回お客さんが一緒で。10人とか、ひどい時は3人とか。あったかいからウケるんですよ、少々荒くても。出るライブもそんなにない、出たらお客さん少なくてあったかい……ああ、あかんぞこれ、井の中の蛙というかもうそれ以下やぞ、って感じになってきて。だから初見の人に見てもらわなあかんと。
──それで東京へ拠点を。一大決心ですね。
そうですね……でもね、そんなに迷いはなかったですよ。もう行く!って感じでした。吉本入らんし、それしかなかったですね。まだ東京っていう選択肢が余ってるから行く、っていうだけでした。
──この時何歳ですかね。
19歳から8年目やから……27歳ですね。
──東京に行ってからのビジョンはある程度固まっていたんですか?
いや、漠然としてましたよ。でもネタを、漫談を、っていう思いはあって。漫談っていう希少価値というか、やってる人が少ないっていうのも、漠然といける、おもろかったら絶対いけるはずやっていうのはありました。だから東京に、どないやねんと思って来ましたね。今も一緒の思いですけど。
3 東京の事務所さがし
”東京に来てから、ぼやきがウケない”
東京に行く時、入りたい事務所だけはタイタンって決めてて。
──タイタン志望だったんですか。
そうなんです。光代さんの、取ったやつは全員売らすっていうその情熱とか、事務所ライブですら弁当出して仕事としてやらせてるっていうところとかがやっぱり。
──かっこいいですよね。
でも、2か月に1回のオーディションを1年受けに行ってたんですけどダメで。2分でぼやき漫談をやってたんですけど、2分をあんまりやり慣れてないっていうこともあって、ライブにすら1回も出れなかったですね。
──そんなにですか。
最後のネタ見せで、ずっと反応なかった作家3人とマネージャーにウケたんですよ。やっと6回目にしてライブ出れるか?と思ったら出られへんかったんで、「あ、もういらんのかなあ」と思って諦めましたね。でもそのタイタンのライブについ3か月前、ゲストとして出させてもらったんですけどね。
──落ち続けたライブにその後ゲストとして呼ばれるなんて、感無量ですね。
7年かかりましたけどね。ありがたいことに。
──タイタンを諦めてからは別の事務所を?
オフィス北野を受けに行きました。これも4、5回受けたんですけど、同じ感じで。その時もね、ぼやきネタでしたよ。だから東京に来てから、ぼやきがほんまにウケない。
──大阪ではウケてたものが。
そうなんですよ。けっこう反応あったやつとかも。ほんまに井の中の蛙やったんかなと思いましたね。関西弁でキレ散らすみたいなのが受け入れられなくて。で、浅草のリトルシアターっていうところで、週5くらいで呼び込みしながら、1日に多い時は5~6回舞台を踏んで修業しはじめたんですよね。
──浅草の寄席は場数が踏めますもんね。
はい、だからやりたいこと全部封印して。嘘も、ぼやきも、あんまり出さないようにして、「漫談」っていうキーワードで、あとは何も決めずに全部寄せたんですよ。話芸を鍛えるために。そこでだんだん掴んでいった感じかなと思います。東京で漫談をやっていくにはどんな感じがええんやろっていうのを。上京してから2、3年は浅草に出てましたね。その時期がなかったら今はないです。
──浅草で育まれた、”東京でウケる”漫談。
そうです。今はありがたいことに「喋りうまい」とか「リアル」とか言ってもらえるんですけど、それを築き上げたのは全部浅草の舞台。1回やりたいこと全部捨てて、どういうシステムで行ったら観光客笑うねんと。それが絶対生きてると思います。変な説得力みたいな。
──最終的にトゥインクル・コーポレーションに所属が決まったのはどのような経緯だったんですか?
これは単純に声かけてもらったんですよ。やっぱり”ラーメンズ”っていう、舞台で食べていってる人らがおるっていうところでずっと気になる存在だったので、自分の中では第三希望に入れて受けに行ってたんですけど。普通は上のライブに残留して3ヶ月残らなあかんみたいな所属の条件があるんですけど、その前に摘んでもらった感じです。事務所的に喋りが欲しいっていうのと、あと僕の見た目をすごい気に入ってもらって。「トゥインクル・コーポレーションって……」って思いましたけどね、名前(笑)。胡散臭い宝石会社みたいな(笑)。
4 「バスク」で一転
”Aマッソ来たやん……”
それから上京して3年目ぐらいになった時に、ショート漫談×月20本みたいなのを始めたんです。R-1を目指して。
──月20本はストイックすぎます!(笑)
罰ゲームも設けて。1年間そんだけやってR-1一回戦で落ちたら芸人辞める、二回戦で落ちたら、今まで応援してくれたお客さん全員無料で船上パーティーご招待ってやったんですけど、結局二回戦で落ちてそれになったんですよ(笑)。
──大変(笑)。
それで10万ぐらい使いました(笑)。まあそれぐらいせんと罰ゲームじゃないやろと。主催者もいて、木幡さんっていうんですけど、一番初めにライブ主催者で自分をおもろいって言ってくれた方で。今も二人で動画やってるぐらい仲が良いです。まあでも2、3か月目からパンクして、やりたいこと入れんとネタ20本成立できへんようになってきて、それまで基本的にぼやきをやってたんですけど、そこからはもう、とんでもない数の嘘が(笑)。
──本来の姿になっていったんですね(笑)。
もう嘘を喋らんともたへんってなってきて。まだウケへんかったりはするんですけど、そこでできたのが『ホイップクリーム』やったんです。で、それをAマッソが見に来てて。会ったことないのに。
──すごいタイミングですね。
なんでやねん!と思って。めっちゃ怖かったんですよ。尖ってておもろい女芸人みたいなイメージだけはあって(笑)。「Aマッソ来たやん……」みたいな。ほんで「バスク」に誘われたんです。
──そこで「バスク」につながるんですか!
『ホイップクリーム』とかはほんまに自分がやりたいことやなっていうのがあったんで、それを「バスク」にぶつけてみたら、ハネたんですよ。そこから一転したんですよね、芸風が。”10割”嘘になりました。いけるやん、と。
──ようやく今の形に。
浅草で力溜めて、やっとぼやきがウケるようになってきたぞっていう頃やったけど、でもそもそも嘘のほうがやりたいっていう元の気持ちを思い出して。
──じゃあ本当に「バスク」から変わっていった。
「バスク」ですね。完全に今の芸風になっていったのは。そこからですね。
5 ネタとの付き合い方
”みんなと同じような気がして怖いから”
──トータルで芸歴何年になりますか?
今15年です。
──もう今や”漫談”といえば街裏ぴんくさんというふうになってると思いますが。
もっとそうなってくれればね……。生き方みたいなものを戦略的に考えるのは苦手なので、内容の部分だけはちゃんとこだわってやって。とにかくやり続けて。いろんな人に見つかるように、がむしゃらにやるだけですね。
──ずっと自主ライブを精力的に行ってらっしゃいますよね。
そうですね、今も気狂ったみたいにやってるので。
──すごくストイックだなと。
今年はちょっともう、世に出るという意味で勝負の年というか。長く舞台をやっていきたいという気持ちはあるんですけど、バッと出なあかんというのは今年やなと思って。もうR-1しかないなと。
──今年こそはとみんなの期待も年々高まっていますしね。その覚悟のきっかけというか、転換点のようなものはありましたか? それとも、もともとストイックな性格ですか?
あー……でもこのペースっていうのはわりとずっとやってるんですよね。ちょっと病的かもしれない。止まれない病気みたいな(笑)。
──自分に厳しいんですかね。
休日は寝ますけどね。でも止まれないですね。怖いです。普通にみんなが出てるようなライブに出てるだけやと、みんなと同じような気がして怖いから。どこかちょっと異常に頑張らなあかんところは……あと腹立つっていうのもありますしね。なかなかネタが伝わらんかったりすると。いっぱい作りゃ何か見つかるんちゃうかっていう感じでやってますけど。
──その新しく作り出す量が並よりも多いと思うんですが、1本を練る時間とどのようにバランスを取っていますか?
今は月1で10本やってるんですけど(新作漫談会「七三ファットマン」)、10本のうち1、2本を日々のほかのライブで練っていく感じですかね。で、また新しいのを作ってっていう。全部を大事に育てていくのは難しいですねえ。
──ほかの9本分の労力を惜しまないで、いい1本を出すために作り続ける。できることはやると。
そうせんとメディアも何もないし。これでもかっていうほどないんですよ。だからもう自分でやらんと。自分の首絞めてますけどね。(クオリティを担保するために)5本ぐらいのほうがいいのか……でもやらんとなあ、みたいなね。冬にR-1があるので、もう10本で行こうと決めてやってますけど。難しいですよね。
今は自分ひとりのものばっかりやってるんですよ。トークライブとかでも、人を呼んで、人と喋ることを鍛えようかなって思うんですけど、でもまず自分が確立せんと招き入れられへんしなっていう。そこらへんを俺は安易に人とできないっていうのがあるんで。だんだん(周囲と)はぐれていってるような気がして、ちょっと不安なんですけど。でもそういう時期はいると思ってます。今年はずっとひとりでやってるというか。
──ちょっと尖ってる感じというか。
うん、尖ってる感じが出ちゃうんですけど。でもそこは冷静に、尖ってる感じが出てるやろうけど、ほんまに必要なことやしなっていう。
──そこまで追い込んでやるのは、バスクのあたりから自分の形は見えてはきたけど、それをもっと精度の高いものにしたいということですか?
そうですね。でもね、腹立つのが、「精度の高い物を出してきたけどな」って思うから。でもそれを持続せなあきませんね。やっぱね、「あのパターンや」ってなってくるんですよ。そことの戦いですね、今。
──お客さんの反応がですか?
そうですね。お客さんは今まで通りおもろいものを求めてたりするんですけど、もう嫌なんですよね。今『ホイップクリーム』とか『抱きチラシ』とか、(自分的に)あんまおもんないんですよ。たぶん頭の中は成長してるんですよ。でもそれを進化した状態で出せる技術がまだついてない。頭では行ってるんですよ先、あれよりおもろい脳になってんすよ。でもなんか出せないですね。(『ホイップクリーム』とかに)飽きてるだけなのか……飽きてるだけかもしれないですね。飽きて捨てていくけど、新たなものをまだ見出せてないって感じなんかな。
──お客さんはこれまでのパターンのネタを楽しんでくれているけど、自分自身が飽きている?
またこのパターンや、みたいな。漫談と嘘って固定してると、あとはどういう嘘をつくかっていう嘘のつき方なんですけど、言うたら10本下ろしてるから毎月10パターンの嘘を考えなあかん、でもそれはだましだましになってきてる部分もあるかな。あ、ごめんなさい。こういうこと言ったらよくないかもしれないですね。お客さんがお金払って来てくれてるから。でも全力で生み出してるんで。
──自分が納得できてないっていうことですよね。観に来てくれるお客さんに対しては誠意を持って全力で出してるけど、自分自身に対してもっともっとできるぞっていう。
そうですね、もっともっとできるって、終わるたびに思いますね。おもろいですけどね。10本全部おもろいと思ってますけど。なんかもうちょっと行きたいなっていうね。0→1で地から作ったファンタジーよりも(新ネタのほうが)おもろなってるはずなんですよ。でもなんか。あの一点ものではないというか。他にも似たような感じのはあるっちゃあるというところに……高望みしすぎなのかもしれないですけどね。そこが理想ですね。
──自分のネタ作りに対する期待とか理想との戦いですね。
あとは初見の人にかけてどれだけ伝わるのかなっていう感じですかね。『ホイップクリーム』とか『抱きチラシ』とか、元から嘘つくっていうのはなかなか伝わりづらいので。
──個人的に”マミューン”のネタなんかも大好きですが、あのネタはどうですか?
マミューンなあ……あれとかもやらなあかんって思います。全体的にネタが柔らかくなっていってますよ。伝わりやすいところを重視してしまって。
──マミューン伝わりにくいですかね?
明確にどこで笑ったらええかわからんとは思うんすよね。でもそういうわかる人だけがわかってくれるようなものも、これなかなか難しいですけどね、どっちも作り続けるべきなんですけどね。どっちかって言ったらわかりやすい寄りになってしまってるような気がして。
6 憧れ
”選ばれし人間や”
──ところで、街裏さんがお笑いをやる上で影響を受けた人はいますか?
一番最初はやっぱり、ダウンタウンさんですねえ。中2ぐらいの時に「ごっつええ感じ」をビデオで見返して。そこから中3で「ビジュアルバム」行って。ごっつ好きの地元のツレと一緒に借りて見て、うわあと思ったっすねえ。ほんまに電撃が走るような。で、もう「お笑いや!」みたいになって。俺はめっちゃ面白かったですけど、地元のツレは笑ってなかったっすね。それでなんか、「俺、これわかる、嬉しい」っていう。選ばれし人間やっていうのは思いましたね。で、高校行って、わりとお笑いが好きなメンツも多くて、「ビジュアルバム」のニュアンスのお笑いを真似したりしてたところが根源ですかね。元々小4の時にお笑い担当になったきっかけは藤井隆さんのモノマネやったんですけど。”ホットホット”の。
──”ホットホット”やってたんですか!
でも本格的にお笑いっていう部分ではダウンタウンさんですね。
──ダウンタウンさんに憧れて芸人になった方って大勢いると思うんですが、街裏さんの場合はピンということもあって一見かけ離れた芸風にも見えるんですけど、ご自身では影響を受けていると感じますか?
でも「ガキ使」のフリートークもそうじゃないですか、ハガキもらって苦し紛れに嘘を答えていくっていう松本さんのあれは、けっこうルーツですけどね。
──確かに、言われてみればそうですね。
でもあれと被ったらあかんっていう意識では最初やってましたね。もうたぶん被らないと思うんですけどね。
──ちなみに「ガキ使」の山-1グランプリに出演されましたが、その時のダウンタウンさんの印象はどうでしたか?
意外と優しいというか、若手にも挨拶とかしてくれんねんなっていう印象でした。でも山-1出たのが2018年の1月なんですけど、もう雲の上の存在になりすぎてというか。ちゃんとお笑いの場で会えない間が続くと、遠くなってくるんですよ。続けてると近くなってきてもいいもんなんですけど、遠くなってくるんで。
──現実が見える分むしろ遠くなって、そこからなかなか、いっこうに近づいていかないですよね。
ただでも僕が朝丘雪路さんの単独ライブっていう漫談をやった後に、「松本さんどうですか?」っていうのはしびれましたね。で、「そっか、絶賛ではないか」っていうところに落ち着いて。だからちょっとした転機でしたけどね。そこまでは、やっぱりどこか「松本人志に(ネタを)見せる時が来るのだろうか」っていうのを分岐点にやってるとこはあったので。ある種、荷が下りた感じがしましたね。松本さんに絶賛されなあかん、それが目標や、ぐらいの信者やったんで。ちょっとショックでしたけど、逆に楽になったかもしれないですね。
──公式プロフィールに載っている中田ダイマル・ラケット師匠からはどういった影響を受けましたか?
漫才をやってた時に、書き起したりしてた人ですね。ダウンタウンさんって書く人が多すぎるから、ダイマル・ラケット師匠って書いたほうがちょっと違うと思われるし(笑)。でも実際に尊敬してますね。昭和のあの時代にっていう。体に電気走ったっていう思いはありますね。「君どこ行ってたんや、ここ一週間見なんだけど」「アフリカ」「じゃあ言うといてくれ」って言ってそのまま話進めるのはすごいなって思いましたね。そこで経験した漂流記みたいなのを、明らかな嘘の話を語っていくんですけど、それはルーツですね。
──嘘のルーツはしっかりとあったんですね。
そうですね。あと漫才やってて、ずっと刺激になってたのは笑い飯さんですね。「ダウンタウンと笑い飯しか認めへん!」って言って(お笑いを)始めてるというか。やっぱりM-1に出てきた時のドキドキ感とか、あの感じを今も表したいですね。ザコシさんがR-1出た時に、あの笑い飯さんを見た時の感覚を思い出したんですよね。ザコシさんが古畑をやってて、すんごい顔になってるのをアップで抜かれた時に、「いやいや誰を抜いてんねん!」って(笑)。「誰を映してんねんこのゴールデンタイムに」って思ったんすよ(笑)。でもそれに近かったなというか、M-1で最初に出てきた時の笑い飯さんとかは。やっぱりこれよなっていうか。芸人が出てきて震える瞬間っていうのは。
7 漫談で、売れる。
”漫才よりも広い世界”
──ここまでお話を伺っていて、ものづくりの中でひとり問答しながら作品と向き合い続ける職人みたいだなと思いました。
すいません、キュウのインタビューみたいなゆるふわ感出てないですけど(笑)。
──いやいや(笑)。街裏さんはご自身の思考を言語化されるのがすごくうまいと思います。
でも自然な本能の部分が、芸歴重ねてくると、ね。10年目ぐらいまではもっとほんわりやってましたよ。たぶん焦ってるから。今もたぶん焦ってるんですよね、これ喋りながら。だから出てくるんでしょうね、勝手に。もう切羽詰まってますよっていう。だから考えんとしゃーないようになってきてるっていう。
──具体的にその焦りの中身ってなんなんでしょうか。
焦りの中身……なかなか今以上に広がっていかないっていうことですね。
──お客さんとか見てくれる人がですか?
見てくれる人がですね。で、テレビとかそんな見ないですけど、見てても、「ああ、ほんまや、ないわ」って思いますし。俺がやれるとこ。
──今のテレビの中に。
「うわー、コイツおもろいな」ってなってくれるようなところがないわと思いますね。
──それは漫談で?
はい、ネタ番組ありますけど、すごいライトっすね。だからR-1とかそんな意識してなかったっすけど、でもここ3年ぐらいは。あれは価値があるかなあと。やっぱり予選とかピリピリしますね。厳かな中ぶっ壊すみたいな。とにかく舞台から波紋を広げれれば。なんじゃこいつって。
──漫談を舞台から広げたい。
画を浮かばせられたら、漫才とかよりも広い世界があると思ってて。自信持ってるんですけどね。無理なわけがないっていう。
──その話の世界の中に入っていけますもんね。映画を見ているかのような。
ひとり喋りやからこそですね。訂正を入れないからこそ。「漫才はひとり常識人が混ざることによってそこで止められてまうけど、漫談はどこまでも行ける」っていうのを、(Aマッソの)加納が「冗談手帖」で僕の漫談を見て言うてくれはって。まさにその通りやなというか。それが良さというか。どこまでも言い放つっていう。えらいもんで、画が浮かべへんやつはウケないですね。どんだけわかりやすくしても。『犬ヨドバシカメラ』っていうネタがあるんですけど、店員が全員犬のヨドバシカメラのネタで(笑)。入りはわかりやすいじゃないですか。でもウケないんですよね。画が思い浮かびづらいんで。
──なるほど。じゃあ今自分の中ではR-1が一番大きいですか?
事実目指してるのはね。今年こそはって思ってますけど。あんま言いたないですね……。所詮3分で。興味は出てきましたけどね。うーん……でもそうですね、じゃあどうすんねんってなったら、漠然と舞台での噂を広めていきたいっていうことでしかやってないから……。
──実際問題R-1は賞レースとして目指しているけども、R-1や今のテレビの規定枠に収まらない自分の漫談を世間に見てほしいみたいな。
うん……結局今やってる漫談以外で出ちゃうのが嫌なんですよね。
──漫談で、どうにか。
いけると思ってんすけどねえ。いけると思ってこのままの感じでやり続けることが戦略というか。もうそんなね、ここまでやってるんで。当てはめるところがないだけやとも思ってますし。そういう演芸をやりたいって言いだす人が出てきてくれれば自分も出れるって思ってるし。そこは身を任せないと、ある程度しゃあないというか。そこまでにどんだけ「こんな奴おる」っていう波紋を広げられるか。だからある種、光が見えてない状態で地中掘ってる感じなんで、不安ですけど。信じるしかないっすねえ。……ハハハ、暗くなっちゃいましたけど(笑)。いけると思ってるから全然明るいですけど、元々暗いんで暗い感じで言っちゃうんですけど。暗いと思われたいっていう(笑)。
──暗いと思われたいですか(笑)。
やっぱ”明るいの寒い”精神みたいなのが、しょうもないと分かりながらも残ってるんで、自我として(笑)。マジの話したら暗くなるやつって思われたい、みたいな(笑)。
──あはは。でもちょっと話は違いますが、街裏さんはお客さんへの対応なども含めてすごくサービス精神があるというか、人間味があるなと思うんですよ。売れるためにというよりは、元の人間性が。だから小さい頃からそうなのかなと。
えー、そうですか? でも答えになるかわからないですけど、小4ぐらいまではいじめられてて。いじめられてたというか、虚弱体質みたいな……(笑)。
──虚弱体質……?(笑)
ほんまに今とは……(笑)。今とは全く違う感じでガリガリでしたね。
──本当ですか。
幼稚園の時ね、友達ひとりもおらんのにね、彼女いたんです。彼女というかその、好きだよねって言い合う女の子。今思ったら気持ち悪いですけど(笑)。なんか変に寂しくてね、幼稚園終わるのがね。それで小学校行ってひとりになって。だから社交性はまあないですね。
──ないですか?
ないからじゃないですか? 社交性ないように思われなくしようという人間味なんじゃないですか? それで小4ぐらいからお笑い担当みたいになって。そこからはもう気狂うくらいボケてたんで。
──クラスの人気者みたいな。
そうですね。だから中間がないですね。普通にしゃべれるやつみたいな感じがない。人とも話が続かないです。
──印象と全然違う……。
息がもたないです。会話のラリーの息が(笑)。すぐ終わっちゃう。「なるほどね~」って。そういう意味で人間味ないかなと思ったんですけどね。
──コミュニケーション能力高くて、人付き合いがうまいように見えます。
それは意外ですね。見抜かれてると思ってました。意外と誤魔化せてるんかな。苦手ですよ、人と喋るの。わりとスイッチ入れますよ。でもまあもちろんお客さんに対しての感謝はありますけどね。人と比べて舞台で生きていくかもしれへんっていうのもありますし。芸風的に。その覚悟は。一生相手にしていくお客さんっていう覚悟はありますね。ずっと来て欲しいって思いますからね。寂しいですから。だからコミュニケーション能力あるんですよっていう感じに見せたいっていうのもあるかもしれないです。だから直に言うようにしてます。トークライブとかでも、あんまりうわべにせんと。思ったことを言うようにしてます。
──トークライブは嘘じゃない普通の話もするんですか?
普通の話もするんですよ。でも普通の話がこれまた課題で、嘘ばっかりうまくて。それってやばいじゃないですか(笑)。普通の話の時にね、何がおもろいかあんまわからんくて(笑)。だからあかんあかんってやり始めたところがあります。
《直筆アンケート》
(2019年10月12日)
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