自由であることの不自由さ

自由であることは、無限にある選択肢の中から一つを選べと言っているようなもの。それでは無限に考えてしまい、動けず、不自由になる。

もし、いきなり絵を描くことになり、「さあ、自由に描いてください」と言われたら、

お題をくれーーーーー!!!!!

と思ってしまいます。

何でもそうです、と、拡大解釈の暴論にするつもりはないのですが、自由って、自由過ぎると思うんです。なんか、力こそパワーみたいな文章になっちゃってますけども。

うまく言えないので、もっと例を出しますね。

例えば、いきなり「自由に踊ってください」とか「自由に歌ってください」とかも、プロじゃない限り相当難しいと思うんです。

体が固まって、1ミリも動かせなくなる。頭も回らなくなる。

つまり、この状態を言葉に表すと「無限にある選択肢の中から何を選べばいいかわからない」という状態だと思います。これが「自由であることの不自由さ」です。

先ほど、「プロじゃない限り」と書きましたが、おそらくプロの方は自分の型をいくつか持ってるので、そこから選ぶことができます。

しかし、型を持たないがゆえに一番何の影響もなく自由に選択できるはずの素人は、逆に何も選べず動けない不自由な状態になっているというわけです。

人工知能における問題の一つに「フレーム問題」というのがあるのですが、これに似ています。

何か目的を達成する際に、「起こりうる全ての出来事」の中から「目的に関係する出来事」だけを計算しようとすると、まず「起こりうる全ての出来事」と「目的に関係する出来事」を分けなければならず、ここに無限の計算時間がかかってしまうという問題です。

自由という無限の選択肢を前にして、意味のある選択に絞り切れず、無限に可能性を考えてしまい、一歩も動けず、不自由になる。

自由の範囲を決める

ではどうすればいいかというと、既に答えは書いちゃってます。

お題を決める、自分の型を決める、フレームを決める

つまり、自由の範囲を決めるということです。

この範囲の中であれば、何をしてもいい。この条件を与えられて、初めて人間はアイデアが出てくると思うんです。

仕事でも、完っっっ全に自由で、何をしてもいいと言われたら、逆に何をしていいかわからず、脳がバグり、いきなり全裸になってしまうかもしれません。

でも、「これをこの条件でやって欲しい。方法は問わない。」と言われたら、このルールの中でどうやってすんげぇ結果出してやろうかっていろいろ考え始めます。

ゲームの世界でも、本当に何でもできる何でもアリなゲームより、制約があってその中でやりくりする方が面白いはずです。(何でもアリなのも面白そうですが、ここで言っているのはマジなやつです。引くレベルのやつ。)

何でもできるは何もできないと同じ意味とはよく言ったものです。可能性として出来たとしても、誰からも選ばれないのですから。そして、自分でも選べない。何をすればいいのかを。

あと、何食べたい?に対して何でもいいと言うのも、何も選べないのと同じですね。

というわけで

自由を求めたって自由ではないんです。というか、本当は、元から自由なんです。何をしたっていい。でもそれでは何をすればいいかわからなくなるから、自ら自由の範囲を決めてるんです。

それにしても、真逆のことを一つの文章に含めるとすぐ格言っぽくなりますね。格言っぽさってなんなんでしょう。

一見矛盾しているように見えて、どちらとも言えるような、ある意味占いのテクニック的な、誰にでも当てはまる的なアレでしょうか。

ああ、宇宙って広いな~。宇宙から見たら、地球上の人間の自由なんて、不自由にもほどがあるんだろうな。

ここまで読んで頂きありがとうございます。

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