慣れる流れる常識になる。

〜みたにノ戯言P.3〜

 《慣れ》それは安心と適合の始まりであり、効率化や習得の鍵でもある。慣れる事は、平和を現実に感じられる瞬間かも知れない。

 
 
 僕は俳優になるために演劇学校に通っている身だ。学校なんて聞くと、”夢と希望の詰まった青春“の様に見えるかもしれないが、その影に“自分自身と向き合う”という残酷な現実もある。それはまた別の機会で文字に置く。

 俳優にとって何が大切になって来るかは、それぞれの成長度合いなどにもよるだろうし、売り方とも関係して来るだろうが、学生のそれはセリフを覚える事と、言っても過言では無いだろう。セリフを覚えるとは、簡単な事ではなく、

俳優のそれは『どの様な状態、環境、相手でもセリフを一言一句間違えずに出て来る事』であり、

それに感情や相手役との関係性が入ってくる。これを全てこなす為には、やはりセリフを完璧と言えるまで、頭に叩き込む作業が必要になって来る。

そう、僕が最近感じた《慣れ》である。

僕はこれを慣れのプラスの側面だと思っている。これは技術の習得であり、やろうと思っても、簡単にできてしまう事はなく、なかなかの苦労と努力が最低限いる。
 
 しかし、《慣れ》にプラスの側面があると言うことは、その逆も然り。

 

それは『気がついたら出来る様になってしまった慣れ』だ


と、僕は思う。
と言うより、そう考えるようになった。
 要するに、歯磨きや箸の持ち方、日本生まれ日本育ちの日本人なら、当然出来る日本語。身近なところで行けば、
遅刻は厳禁、学校内や社内のルール、コロナの予防方法...
ありとあらゆるルール。日常と区別の付かない常識。

 それはいつしか普通、通常となり、出来ていない人は、教養が無い、非常識と言われ、偏見の目で見られる。それは虐めのキッカケになるかもしれない。

疑問を持って考えられなくなった《慣れ》は、
人の理解を阻み、思考を失った脳は只々それが常識であるが故にそれを信じる。自身の常識という舞台で、踊り続ける傀儡に成り果てる。


 まあ、少々誇張して表現してしまったが、要するに
《慣れ》を信じすぎるあまり、他のものを理解出来なくなる現象があるのでは?ということだ。

例えば、日本で日本人として育ってきた、頗る健康的な人が居たとする。けれども、その人は日本語が話せないし読み書きもできない。我々はこの様な人に会ったとき、一瞬思考が停止して、疑問符が積み上がり、理解が及ばないだろう。多分、居るかも知れないという想像すら難しいのでは無いだろうか。

ある人は嘲笑し、また別の人は同情するだろう。無視を心掛ける人もいれば、怒声を突き立てる人も居ると思う。


常識やその前身の《慣れ》。その果ては、他者理解を想像を思考を消し去っていく事では無いのだろうか?

人々の《慣れ》が常識を生み、統一された集合は、別の集合と出会った時、異文化交流や戦争が湧き上がる。


 大事なのは、日常的な行動も理解を通して思考し、選択出来るかという事だと思う。

日常や常識とは常に疑問であるべき事柄だ。


           

                   みたにノ日常

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