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少年よ、大志なんて抱かなくていいから普通に食って寝て笑え。と思う

甥っ子への誕生日プレゼントがゲーム機になる方向に話が進んでいた。

父は勉強が大事だと思っているので反対っぽく、

母はよくわからないけどまぁいいんじゃないと、

姉(=甥の母親)は、好きなことをさせてあげたいという感じ。

うーん、小学生の男の子だしゲームが楽しすぎるのは分かるけど、とりあえず今持ってるものに留めておいて、勉強や習い事に充てる時間や集中力はキープした方がいいんじゃないかなぁ、ゲームばっかりの子ども時代を過ごすとゲームくらいしか趣味がない大人になってしまうんじゃないかなぁ。

家にこもってゲームばっかりしてる人よりも、外に出て友達もたくさんいて運動もできてみたいな人の方が人生コケづらいんじゃないかみたいなさ、人生の先輩としては見ててどこか心配になっちゃうんだよなぁ、いや別にゲーム好きでも人生謳歌してる人もたくさんいるけど、それはラッキーなパターンなんじゃないかなぁ、

なんて経年劣化した大人が持つバイアスかな。

どちらかと言うと私も反対、かと言って他に思いつかないし、
ふーんいいんじゃない。とだけ適当に返した。



そういう私は同じくらいの歳の頃、習い事に勤しんでてわりと充実していた。

とりあえずの友達ならまぁそこそこいた気がするし、ゲームがそんなにハマらなかったのもあってどちらかと言うと外に出て身体を動かしている方が好きだった。

よくいるそんな明るい小学生は十数年後、大人のクセに家にこもって泣いていた、いや干からびていた。

資格講座代で底をつきそうな貯金、
諦めてしまった海外でのキャリア、
畑違いの全然向かない仕事、
好きだけれど距離の掴めない彼、
よく分からないノリの彼のお友達らとの付き合い、
自分よりも彼を優先するみっともない自分、

たぶん周りから見ればトントン拍子の普通に幸せそうな人だった、反面、仕事を休んで家でひとりツイッターで民度の低い情報を延々と脳に注ぎ込む日々だった。

とりあえずニコニコして過ごしていれば勝手に時間が過ぎていって、自然と適応できると言い聞かせること数ヶ月、全く自分に着いてきてくれない自分がいた。

夜寝たくても眠れない、朝起きたくても起きられない。
ご飯を目の前にしてもなんだか受け付けない。
運動をするにも文字通り腰が重い。

いつものように特に目的もなく起きてみて、机の前に座って窓の外を見る。
ちょっと前まできれいだったのが今日はなんにもない、無。

おかしいなと思い、YouTubeを漁ってみても特に目を引くものはなく、くだらないものばかり転がっている。

何かおもしろいことないかな、とインスタを開いてみるもスクロールを空振りし続ける。

少し焦って他のアプリを次々に巡回してみるけど、なんにもない、ない、気づけば2周目、3周目。

好きな曲を夢中で何度も繰り返し聴いたり、
いろんなエッセイを読み漁ってときめいたり、
メモしておいたカフェを巡ったり、

していた自分だったのに、

古き良きダンスを観てワクワクしたり、
来年行く海外旅行の妄想をしたり、
実家に行く予定を立てたり、

するのが楽しかったのに、

誕生日の友達に宛てた手紙を書いたり、
憧れの子のコスメをあれこれ真似してみたり、
英会話をしてる自分を好きになったり、

していた自分が今は遥か遠く、手の届かないまるで赤の他人だ。
自分の実態がなくて体重がないみたい。

すぐ隣の窓を見れば、澄み切った雲ひとつない青空。

机の前に座って止まっていることしかできなくて、次に何の動作をすればいいかわからない。

涙すら出てこないやと気づいたとき私はただの抜け殻で生きてても死んでても同じだと初めて思った。

今までだって、もうむりつらいきついしんどいしぬって思ったことは何度かある。

とにかく学校が嫌いだった子どもの頃。

何年も付き合っていた彼とお別れしなければならなくなったあの時。

大学院でいろんなことがうまくいかず精神科にも通った日々。

もちろん各々の私は絶対的にしんどかったけれど、激しい感情とかじゃなくて、虚無に包まれ生きている心地がしない感覚は初めてだった。

よく見たことがあるような魂が抜ける描写さながら、自分の生気がするするとどこかへ行って消えてしまった。

これが鬱のよくある症状:今まで好きだったことが楽しめなくなる、なのか。

楽しいもの、好きなものがそうでなくなった世界は何にもない、生きている意味が見つからない。だからと言ってわざわざしぬ理由もない。

家族、友達、仕事、恋人、住む場所、私はどれも手にしている。

私が家だとしたら、立派な壁が築かれていたから見栄えだけは良いけれど、自分自身という地盤がスカスカのグラグラだ。

私が車なら、欲求がガソリンとなって初めて動くのだ。

私が植物として生まれたら、楽しい、おもしろい、やりたい、は酸素や水のように必要不可欠な要素になるだろう。

かわいい!の気持ちは人に血を巡らせる。

すごい!と思ったなら自分に対してもそう言おう。

かっこいい!おもしろい!やりたい!は目に見えない宝だ。

私は時間がかかってもいいから息を吹き返したかった。

日の光を浴びたり、雑音を遮断したりしたり、自分の声を文字に起こしたりすること数週間、ふとフォルダを見ると保存していたお気に入りのあれこれに少しずつ心が見向きしてくれるようになった。

普通に食べる、普通に寝る、普通に外に出かける、それは人生を生きる人として何よりも大きな成果につながる仕事なのだと思った。

その普通ができないと自分の欲求を感知できなくなる。

普通に食べて寝て動くが難なくできている状態では、その価値に気づくことはできない、お金が発生し得ないほどの計測不能なものすごい価値に。

どんなに高価なものや誰かに羨ましがられるものを持っていたって、自分の底から湧き上がる欲求を思い出せなくなると、人はよく知っているはずの手足の動かし方も息の仕方も忘れてしまう。



甥っ子は相変わらず友達が少ないし学校もそんなに好きじゃないらしい。

勉強して良い会社に入って結婚して安定した暮らししなさいって、きっとたくさんの大人のひとには言われる。

勉強とか運動とか人付き合いとか、もちろん大事だけれど、それがダメになってしまったとしても、自分が好きなものだけは握りしめて離さないでいてほしい。

ないと生きていけないものは実は既に自分の中にあったりする。

あのアニメがおもしろいとかこの曲が素晴らしいとかあのお店が素敵とか、なんでもいいからその気持ちだけは誰が何と言おうと誇りに思っていてほしい、大袈裟でもなんでもない。

まだ小さい甥っ子には何と説明したらいいかわからないけれど、
少なくとも今は、少なくとも私は、隣でいっしょにゲームしようと思う。

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