「今ここ」もいいけど「今ない」もメンタルによい
何年かまえに、35億。と締めるおもしろカッコいいネタが流行っていたけれど、ワハハと言いながらも漏れなくその頃の私もどこかひねくれていた。
35億もいるんだから気にしなくていいわってのは爽快だけど、でもよく考えたら自分の身はひとつだし時間も1日24時間なのも変わらない。
飛行機を駆使して192カ国に出会いに行くのは現実的でないし、仕事だってあるし自由に使えるお金も時間も限られているなかで心身ともに気力も揃ってるのなんて数年だけだし、残りの一生で出会えるのって頑張っても数百人なのでは??
ええい、そんなことわかっとらい!
そういうめんどくさい理屈をふっとばしての35億。なのよ。
かっこいいんだよあれは。
かっこいい女性の上から目線っていいよね、好き好き。
ところで、私は婚活をしたことがないし、出会い系のマッチングアプリにも触ったことがない。
たぶん、いや絶対、プライドが高いからだ。
なんだか許せないのだ。
あ、アプリ使ってる人がダメとか言ってるのでは決してなく、
あくまでも私が、という話。
私から見た私には、普通に生活してて偶然出会うのが当然であってほしくて、用意された手段を敢えて使うスタイルをとられてはなんだか認められないのだ。
とは言え、ネットがこれほど急速に発展した時代なんだから、アプリを使って出会うことは道を歩いていてたまたま出会うのともはや同じようなものなんだろう。
リアルだろうとネットだろうと同じく到底網羅できないほど膨大な数の人で溢れ返っていて、その中から偶然出会ったり偶然出会わなかったりする。
それ用に準備されたツールを避けて通ろうとするのは、私が古い人間だからか、高飛車だからかどっちなのか。
Twitterで婚活女性の葛藤や苦悩みたいなのをいくつも見かけたことがある。
結婚願望も出産願望もない私には、好きな人はいないのに結婚したいって一体なにごと?なんて思いながら眺めていた。
でもそれ以上に強く思ったのは、出会える・出会えた人たちのことよりも、一生出会うことのなさそうな人たちのこと考えてた方が精神衛生に良さそう、ということ。
(以下、婚活のコツとかでは全くありません、特に役に立ちません。)
私は昔から変にポジティブなので、例えクラスで一番可愛い女子にはなれなくったって、みんな私のこと近くでよく見たことがないからだと思っていたし、
1年間ずっと誰にも告られなくたって、隣の隣くらいのクラスにはきっと私もことを可愛いと思ってる人が何人かいるんだ、とか思っていた。
今思えばなんて可愛くないやつだ。
大人になっても、今は彼氏がいなくても昔は素敵な人がいたし、これから先、未だ見ぬもっと素敵な人に出会えるに決まってると思っていた。
過去の記憶に浸ったり、希望的観測でワクワクを先取りできちゃうおめでたい呑気なやつだ。
「今、ここ」を大事にするマインドフルネスが流行っている。
「今ここにあるもの」に目を向けるていねいな生き方、にも似たものが含まれているかもしれない。
あれこれあちこちとせわしない現代人、まだ起こってもいないことに不安を感じやすい気質、まさに自分にはぴったりなので気持ちもメンタルも安定させてくれるありがたい概念だ。
でも、「いまここ」はジーッと凝視しすぎても、また状況によっては弊害もある気がするので都合よく考えてみる。
今じゃないもの、
ここにないもの、
自分が手にしていないもの、
そういう頭の中だけにあるふわっとしたものだって時には頼もしい味方にになってくれるんじゃないか?
例えば、自分のことをいいね!と思ってくれた人が目の前にひとりしかいなかったとする。
ひとりしかいないんじゃなくて、ひとりいるってことは潜在的に10人とか100人いるんじゃないか??!
例えば、noteの投稿にひとつしかスキがつかなくったって、ひとりにしか良いと思ってもらえない記事、なわけがない。
たったいま家を出てご近所1軒1軒に記事を見せに行くと、いいねって言ってくれる人が何人かいるかもしれない、いや、いるに決まってる。
ゴキブリは1匹いたら100匹いるなんて言うけれど、あれと同じだ。
なんなら1匹も姿を見なくたって100匹いるかもしれないのだ。
タイミング的にご近所の人をGと言ってるみたいになってしまった、
全くそんな意図はございません。
この表現の仕方もなぁと言うことで、とにかく数がやばいみたいなイメージで生き物で例えてみたい。
もふもふしててかわいいのがいい。猫?うさぎ?
数頭がなんか足りない、でも哺乳類がいいよな。
そうだな、ヌー。
サバンナみたいなとこで大移動してるヌー。
もっと他にもいるんだろうけどなぜか、ヌー。
いやなんかもっとこう、可愛いイメージのやつはないだろうか。
集団で生活してるかを置いといて産む数が多いものはやはりどうしても虫になってしまう、ということで魚類に辿り着いた。
タツノオトシゴ。
なんか縁起が良さそうだし、いっぱいいる想像をしてみてもなんかちっちゃくて可愛いかなぁなんて。
そう言えば今年は辰年。
毎年盛り上がるわりには2月頃には忘れられる干支。
なんでもいいけど、1匹いれば100匹理論でいけば、潜在的に私を高評価してくれる未だ見ぬ個体がここではないどこかにはたくさんいる。
そうだ、世界中を見渡せば70億もいるじゃないか。
結局振り出しに戻ってしまった、なんてこった。
たしかに現実で一生のうち私を知ってくれる人は70億にもならない。
でも「可能性」とか「潜在的」となると途端にそれも間違いではなくなる。
だから、目の前のものだけに囚われて自分の価値を定めるべきじゃない。
出会いという意味では、婚活だけじゃなくたって就活でも作品でも同じだ。
私たちは広い海に浮かぶタツノオトシゴのようにぷかぷかとたゆたい、出会っては別れ、すれ違ったり、ぶつかったり、遠のいたり、近づいたり。
そこに秩序はない。
プランクトンなんてもっと顕著だ。
大きさこそ違っても人間同士の「ぶつかり度」だって同じようなもの。
水流に意図的には流せないし、そこに放り投げられた私たちの動きには法則もない、予測もできない。
今ここにある、の概念で今手にしてるものや自分自身のことを大事にすることが確かにできる。
それでも、困った時やあれれと思ったときはいつも未だ見ぬ、これからも見ぬであろう何かが私の精神衛生が保ってくれている。
誰だか知らないけど、その節はみんなありがとう、そしてこれからもきっとよろしく。
今あるものに感謝する慎ましさと、ないものにまで目を向ける図太さの両方を都合よく持ち合わせていたい。
なんて考えるくらいに私は、自分が守られていないと気が済まないタイプだ。
たしかにパーティやらアプリを駆使することで出会える母数を増やすことができるし、良縁にも恵まれる確率が増える。
でも、それはおのずと「私にいいね!をくれない人」にまで出会う確率だって増やしてしまうことにもなり得る。
そんな可能性は私の人生から排除せよ!と脳内で自己防衛システムの警報が鳴動し無意識にそれを嫌うようになっていたのかもしれない。
きっと私が婚活やらアプリと無縁でいたいのは、時代遅れでも高飛車でもひねくれでもなく、ただただ自分を守りたいだけのビビりがゆえだろう。
数年ぶりにぽたぽた焼きをぼりぼりしながらこの記事を書いていたら、
おばあちゃんの知恵袋がタイムリーすぎてびっくりでした。(画像)
40億。はなんとなくリズムがイマイチだから35億。って今思えば語呂良かったんだなぁ。
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