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2018年 地理

 先ずは長崎県全体のことから話さねばならない。九州北西の端にある細長い海岸の入り組んだ県だということぐらいは御存知だろう。日本一属する島の多い県だ。日本海の入り口、朝鮮半島との間には対馬と壱岐がある。まあ壱岐の方は長崎県ではあるが位置的には佐賀県沖にある。陸側の概ね北半分は佐賀県北部と併せて「松浦」と呼ばれる地域だ。佐賀県側の唐津や伊万里、武雄などと繋がる地域であり長崎県には玄界灘に向いた松浦市がある。さらに西は東シナ海に面する平戸市があり九州北西端のところから平戸島、五島列島と連なる。海岸沿いに南へ下ると佐々町、それに佐世保市となりこの辺りまでが松浦エリアである。概ね歴史的に松浦氏の支配が及んできた一帯である。
 佐世保湾を挟んでこれより南側の地域が有馬家が治めた島原半島、それに西郷氏が領としていた諫早市域を除けば私の調査対象の旧大村領なのだ。中央には大村湾がありその西側に西彼杵(にしそのぎ)半島が南から北へと張り出している。東岸は早岐(はいき)、南風崎、川棚を経て東彼杵町から大村市と繋がりさらに南隣には有明海と大村湾に跨る形で諫早市がある。西彼杵半島はいくつかの町村に分かれていたが大合併でその北半分が西海市となっている。鍋島領だったり天領だった長崎に近い一部の町村が合併しなかったことを見ると江戸期以降も大村領として影響の及んだ地域が現在の西海市域と言っても良い。西彼杵半島のさらに西側海上には大島、崎戸島、松島がある。これらは比較的大きな島々だが松浦から南部の長崎方面に至るまでこの県には無数の島々が存在する。いずれも隠れキリシタンの里となったり明治以降は炭鉱の拠点となった島も多く有名なのは長崎沖合ではあるが世界遺産にもなった軍艦島(端島)が挙げられる。
 大村湾の入り口となる佐世保湾との境界には針尾島という大きい島がその口を塞ぐ形で存在し水の出入りはいずれも幅が狭く潮の流れも速い東側の早岐瀬戸と西側の針尾瀬戸しかない。このことが永い間西彼杵半島を「陸の孤島」としてきた要因なのだが高度成長期に針尾瀬戸に西海橋を渡し長崎と佐世保間の半島経由の幹線道を造った。確かにトラックやバスなど自動車での移動を考えれば大村を経由するよりははるかに近道にはなる。ただこの島自体がさらに逆V字型で大村湾側に深い入り江がもう一つあること、それに前の戦争で「トラトラトラ」を発信した電波塔などの軍事機密故に歴史的には半島との陸路での往来は随分困難を極めた筈である。ハウステンボスを契機に二本目の西海橋や有料道路も出来て交通アクセスは少しは良くなったようだが私の体験した限りでは早岐市内やそこへ入る橋のところで渋滞に巻き込まれたことが幾度かある。
 諫早より南の地域は東西二つに分かれ南東側の有明海には雲仙のある島原半島、南西側には長崎市のある長崎半島が片や丸く、片や角のように伸びている。ざっと地図を見た範囲だが県全体の地理的なおおまかな知識は今のところこの程度だ。
 さて大村市だが旧市街地は大きく言うと市域の南部、諫早市に近いエリアに偏っている。町の中心となるべき大村駅もICや空港から見れば随分南寄りだ。私の知識からすれば駅は明治以降の後付けなので大村市域としてはほぼその南端に位置する玖島城(大村城)を中心に町が発達したものと思われる。イオンや市役所、医療センターなど商業や生活に関する施設もこの地域に集中している。この先海岸線に沿って少し東に折れ岩松町辺りを経て諫早市に入る。
 北は東彼杵町と接する松原町から諫早市と接する丘陵地帯までが現在の大村市域なのだがその北側半分は合併以前の戦前あたりまでは東彼杵郡に属していた。現東彼杵町、川棚町も東彼杵郡であり大村市となった地域も含めて古くから大村湾東岸では「そのぎ」と呼ばれていた地域だ。東彼杵町も「東」は付いているが駅名も「そのぎ」で中心街の町名やバスターミナルも「彼杵本町」だったりする。長崎では「そのぎ」言えば東彼杵のことなのだ。それだけ「西」彼杵は歴史に隠れてきた土地なのかも知れない。
 市域には佐賀県と接する多良岳山体からの火成岩の峰々がほぼ放射状に大村湾に向かって伸びていてその谷間の川による扇状地が平野部を形成している。この川の中でひと際大きいのが多良岳上流部から流れる郡川(こおりがわ)、別名萱瀬川(かやぜがわ)でありこの郡川扇状地が現大村市街地の大部分を成している。大村湾に向かって見事に扇型に張り出しているのが地図でも見て取れる。
 また平野部や扇状地による丘陵部分以外ではこの郡川の流域である萱瀬谷が古くから町として発達してきた印象を持つ。大村市の形を見ても大村湾沿いに南北に長い部分とは別にちょうど現在の高速道路や鉄道の大村線、まもなく通る新幹線のルートを境として東西方向のこの萱瀬地区が佐賀県境まで広く突き出る格好になっている。上流部は本流の黒木渓谷と支流の南河内方面に分かれる。いずれも盆地状の形態を成し水量も多い。黒木には昭和中盤に萱瀬ダムも造られている。中流部の少し開けたあたりでは小さな河岸段丘も見られ水田地帯ともなっている。
 ただこの郡川は平野部に来た途端その扇状地の一番北の「ヘリ」を沿うように迂回して流れている。江戸期の大村の鳥瞰図でも同様だった。気になってそのことも調べてはいたがそれはそれでまた別の話に発展するので後のことに。
 市街地の中でも少し外れて大村駅から北寄りの部分、大村市域の地図ではど真ん中にあたる地域だが、もともとは「郷」と呼ばれる古い集落や農地が点在していたものと思われ現在でも諏訪、池田、竹松など大村線沿いの辺りにはそれが残っている。三城館跡や乾馬場など玖島に城下が移る以前の大村の中心地もこのエリアにある。地形的には郡川扇状地の中でも海岸沿いからは離れた水はけの良い場所を概ね南北の街道とともに残ってきたと推察されるが一方で大村駅辺りから北西方向、すなわち萱瀬方面へ向けての旧道も存在しこちらとの行き来の痕跡もある。バス路線も現在は大村ICを経由したりするものの萱瀬方面行きはこの旧道を通っている。
 このエリアの鉄道より西側、扇状地が湾に向かって大きく張り出した部分についてだがその先端の海上には長崎空港がある。手前の陸地部分は大きくは軍用地が主だったと思われ旧軍時代の情報は調べきれていないが現在の陸自の大村部隊、竹松部隊、さらには沿岸の海自航空部隊など広く軍事施設が展開している。軍の敷地とは別に桜馬場などの集落もあったようだが現在は長崎空港開港に伴う都市計画などで道路も整備されこのエリアでは全くと言って良い程古い町並みの痕跡は見られない。ファミレスなどの外食系店舗、コンビニ、健康ランドなどが立ち並ぶ比較的新しい町なのだ。南の市街地中心部とは別に軍の城下町から空港城下町として変貌を遂げようとしている町なのかも知れない。それも佐賀県鹿島と繋がる国道44号線を黒木から萱瀬を通ってまっすぐ下ってきた場所に位置している。大村市域全体を左に傾けたT字型とすればこのエリアはその要なのだ。船の碇の形に例えるなら重りと柄の付け根の部分である。交通の面で考えれば空港だけではない。高速ICも新幹線の新駅もこの新市街地と萱瀬との境目に位置している。まだまだ現状では整備不十分のような気もするが今後の大村の発展には重要なエッジの役目を果たす。そんな予感のするエリアでもある。

<序章> 1587年 純忠没年 ◁ ▷ 2018年 石炭と石灰岩

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