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トイカメラな日々

先日、トイカメラを買った。

二眼レフ型とあるが、正確には二眼レフ風である(そのことは商品ページにもちゃんと説明がある)。正面の「ON/OFF」という小さなボタンを押して、レトロな粗目の画質の写真が撮れるというもの(動画や音声録音もできる)。ちなみに撮ったその場では確認できず、スマホやPCと接続することで出来上がりを確認。この手間が楽しい。


観葉植物の「ポストエンジョイ」
踏切
逆光、昼
電柱、夕方


もちろん、無加工。いやぁ、エモいなぁ(自画自賛)。

以前、「カメラとキャメラ」という記事を書いたことがあるが、僕は元来、人物を撮ることが苦手である。究極の人間嫌い(一人一人の友人や家族はとても大切に思っている)という根暗な性格ゆえのことだと思う。あと恥じらいもあるのかもしれない。世の中には人間たち以外にもいろんな生き物や風景で溢れているのに、なぜ我々は我々だけを撮ってキャーキャー楽しむのだろう。それではまるで世界から孤立しているようだ。人間はそもそもが孤独な、世界と乖離した存在なのかもしれない。
 というのは脱線であるが、このピエニフレックスのトイカメラを持ってお出かけするのが最近のマイブーム。といってもまだ3,4日だけれど。ひたすら周囲の風景や空、あるいは室内を撮っている(ニンゲンも撮っている)。

芸術寄りの写真、といえば、たとえば川島小鳥さんの『未来ちゃん』という小さな(横に細長い)写真集を福岡の図書館で見て以来、あれが写真に関する興味をうっすら持つようになったきっかけかなぁと思う。

昭和末期から平成初期の、「写ルンです」で撮ったようなレトロな味わいが、"未来ちゃん"を鮮やかに写す。対象となる人物に対し、現実と同じかそれ以上に生命力を吹き込むのが写真という芸術なのかもしれないと思った。それ以降、街々で図書館に寄って、大型の写真集などもたまに捲っていたこともあった。

大学入学と共にデジカメも買って、旅行の際にはよく撮っていたけど、あれは思い出作りの、旅行の際の一行為として、という性格が強かった。もちろんデジカメは写真を撮る楽しさを教えてはくれたが、やはり友人や先輩を撮るためのものであって、『未来ちゃん』の作者・川島小鳥さんのように、何かを映すことでそれを"写真の哲学"、原点にまで立ち返らせてくれるような思考の契機にはまったくなりえなかったのが事実だ。そういえば当時流行っていたmixiで写真共有機能があったのでもっぱらそれを活用していたなぁ。

しかし、やはりなんといってもスマホであろう。僕は携帯を契約していらいauユーザーなのだが、永らくGalaxyシリーズを使っている。ギャラクシーは元々高画質・高品質なカメラ機能をウリにしていた。やはりその安心感は今でも大きい。スマホで瞬時に世界の風景を撮れるようになった……カメラと写真はもはや趣味やマニアのカテゴリではなく、誰にとっても普遍的な存在、日常と一続き、そんな時代になったのだ。
素晴らしい時代だと思う。写真の時代というものはかつてあったはずだが、現代のスマホの登場によってまたひとつの大きな転回点を迎えているのだろう。逆に言うと、誰でも素晴らしい"と承認されるような"写真が撮れる時代。だからこそ、写真の哲学、「写真って、こういうのだよなぁ」と原点・原理を思わず考えてしまうような、そんな奇跡の一枚を、目撃したいし、撮ってみたい。写真とは何なのか。何が撮れ、何が撮れないのか。写真を撮ることの意義。写真にできて、映画や文学にはできないこと。

写真に常に興味があるわけではない。自分で書いたように、スマホですぐ撮れるものとして、日常の生活の中にその機能は埋没されてしまっている。あえてレトロな、手間のかかるトイカメラを買ったのはとても良いことだった。トイカメラを持ち歩いて、いろんな風景を撮りながら、写真とは何なのかについてたらたらと思いをめぐらせてみたい。

セリーヌ、カフカ、アルトー、大家健三郎、そしてカフカとブランショのように。