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邪馬台国と卑弥呼…魏志倭人伝は実に正確だった  9.なぜ弥生人は高台に逃げた?『高地性集落』の謎を解く!

 【高地性集落】とは
弥生時代中・後期に築かれた平地と数十メートル以上の標高差があり、平野や海など周囲を眺望できる山頂や丘陵の尾根上などに形成された集落。
 実は、なぜ高地に造ったかなど『高地性集落』についてはよく分かっていないのが実情である。
 弥生時代は歴史的に見ても日本古代史における大いなる変化の時代でもあった。『邪馬台国』が描いた西日本の姿は、3世紀の中頃。
 日本列島には、縄文時代から稲作を行う『倭人』と呼ばれる人々が中国から温暖で多雨な南日本に渡来して各地に集落を形成していた。
 明確な時代区分を示すのは困難なようであるが、2世紀中頃までは平和に暮らしていたようである。
 しかし世界では1世紀の後半からヨーロッパや中東・西アジアから民族が大移動を始めた。主に、ローマ帝国の迫害やユダヤ教とキリスト教などの宗教的背景が要因であるが、西はローマ帝国であり、当然のことながら東へ、東へと向かうことになった。
 当時すでに海路でも移動し、陸路と合わせて民族移動が加速して行った。
記録に残るところでも西暦166年には、ローマ人が海路中国に到達していた。
 ローマ帝国は、(現在の)イスラエル地区やバビロニア・パルティア王朝への侵出など拡張していた。
 この民族移動には、中央アジアの陸路ステップルート(草原の道)も経由して文化の移動も伴った。
 2世紀には『倭国の大乱』と呼ぶ、戦闘が多くあり、遺跡にもそれらの痕跡が残っており、大量の『石鏃』などが作られた。下の写真は額に殺傷痕のある頭骨である。

弥生時代の殺傷痕のある頭骨


 この頃の日本には何が起きていたのか?
 すでに別稿「大和・石上神宮…なぜ【イソノカミ】なのか?《日本書紀》から読み解く!」で述べたように、
 ★西暦200年頃には、『石上神宮』は海の岸にあった
のである。その当時の海岸線を地図上で表すと、下図のようであった。奈良地方は東西の山地に挟まれて湖のような状況であった。

西暦200年頃の海岸線

そして石上神宮近辺は下図赤印の場所である。

A 石上神宮の位置(赤■)

 実は、上の図で示した海岸線は、現在の海面に比して90mほど上昇した海面である。
 90mと現在聞くと異常な海面位置では無いかと、訝る方も多いと思う。
 しかしこの事実を裏付ける事実が存在するのである。
 それは弥生時代に登場した『高地性集落』である。このネーミングはいささか誤解を生みそうであるが、
 ★現在の海面に比して【高地】である
ということである。
 比較するのに格好の【高地性集落】の例がある。その前に『高地性集落分布』を主に西日本を中心として表したのが下図である。大阪湾に着目すると
上の A 石上神宮の位置を示した図と比較すると、海岸線と下図の高地性集落分布と対応していることが分かる。

2世紀 高地性集落分布図

では、具体的な場所として現在の大阪府高槻市に弥生時代後期初頭の遺跡・古曽部・芝谷遺跡がある。標高80-100mに位置し、東西600m、南北500mにわたって広がっている。
 この事実は、簡単に言えば、
 ★『高地性集落』とは言え、元々は海岸線近くに集落を形成
していたという事である。
 下図は、大阪湾付近を拡大し、高槻市を90m高い海面地図にて表したものである。

海面90m上昇時の高槻市

まさに海岸線近くに古曽部・芝谷遺跡があったことが確認された。
 結論を纏めると、
(1)西暦200年頃、現在に比べて90m近く海面が上昇していた
(2)同じ頃の『高地性集落』は、(低地)海岸線近辺に形成した
   (あくまで現代の感覚で【高地】にしか過ぎない)
(3)海面上昇の要因は地殻変動・気候変動など考えられるが、現時点で明
   確ではない
という事になる。
 しかし本稿で述べたことは、【現在の常識】に縛られては歴史上に発生していた史実を理解することは出来ないという教訓である。
 次稿でさらに『邪馬台国』の頃について述べるが、佐賀県の吉野ケ里遺跡では、実は海岸線近くであったことが発掘などで実証されている。そして現在より海面が5mほど高かったことも報告されている。
 弥生人とは言え、当然海からの収穫が貴重な栄養源(動物性)であったであろう(『貝塚』などはこの例である)。


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