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日本に大洪水の痕跡…国宝・金印「漢委奴国王」と松帆銅鐸はなぜ砂から見つかった?

 弥生時代は、中国大陸から渡って来た稲作技術を持ってやってきた『倭人』たち。彼らは、俗に言う『渡来人』でありました。
 紀元前・後の頃の日本列島は、気候が
  ★西日本は、温暖で多雨
  ★東日本は、温暖
というものでした。
 弥生人達(倭人)が中国大陸から到来する前には、日本列島には小さな縄文人達の集まりが各地に点在していました。そこに紀元前数世紀前頃にやってきた倭人たちは広い耕作地を獲得するようになると、主に西日本では弥生人達が優勢になって行きました。縄文人達は、東・北日本では温暖でもあり狩猟や採取で生活していました。これらの縄文遺跡が三内丸山遺跡(青森県)が有名ですが、世界的にも「北海道・北東北の縄文遺跡群」の世界遺産一覧表への記載が決まりました。下の地図にはこれらの遺跡群が示されています(【公式】世界遺産 北海道・北東北の縄文遺跡群 (jomon-japan.jp)より)。

北海道、北東北縄文遺跡群地図

 ですから、見方によっては、弥生人と縄文人が棲み分けていたようにも見えます。もちろん、西・南日本にも縄文人達の足跡は残されていますが、気候や地理的なものから、かつては共存する社会が存在したのでしょう。
 日本列島は、かつて日本海も陸地であって北方からもホモサピエンスが渡って来たのでしょうが、温暖な気候によって自然の恵みを採取して小規模な集団が移動しつつも互いに争うことなく共存した社会が長く続き、独特の文化を生み出していたのでしょう。外的な敵意や刺激が少なければ、格段に社会自体を変える必要も無く、平和に社会が維持され続けたと言えます。
 しかし、渡来の稲作文化で人口も増え社会自体にも広がりが出来てくると、競争社会になったり、収穫を増やすためのテリトリ拡大の要求も生じます。生産性が上がれば人口も増え、人口が増えると自然と「領土拡大」の方向になって行きます。
 これが、西暦1世紀頃に突然の『大洪水』(ツダの洪水)が起きました。これは、3000年を周期とする巨大惑星の飛来によって接近時に惑星から注ぎ込まれる莫大な量の水・氷・砂によって地球規模で洪水が発生しました。
 これについては、すでに別稿で述べた通り、アトランティス、ノア、ツダという3000年毎の大水害が起きました。
 この洪水は、1世紀から4世紀に亘って、海面上昇を伴い、4世紀後半からは現在の海面にほぼ収まりました。注がれた莫大な量の水(現在の日本海の海水量の30倍ほどと計算できます)で世界中は水浸しになりました。
 紀元200年頃には、『日本書紀』に書かれているように、新羅から凱旋した神功皇后が奈良県天理の『石上神宮』で捕虜を処刑したことが分かります。この記事の中で、『石上神宮が海辺にあった』と書かれていますから、当時の海面は現在より100m近くも上昇していた訳です。
 有名な、国宝金印『漢委奴国王』も西暦57年に下賜されていました。淡路島の松帆銅鐸も弥生時代に製作されていましたが、上に述べた1世紀から4世紀にかけて生じた『ツダの洪水』により、水没して砂に埋もれて後の世で見つかったという訳です。これによって、無事に保存された訳で良かったかもしれません。以下は、南あわじ市教育委員会のHPからです。

松帆銅鐸と舌(音を鳴らす)

 そうなんです、砂に埋もれたのは『大洪水』があったためです。人類に歴史は実は、『水との戦い』でもありましたが、水没することによって後の世に、貴重な文化財として、忽然と時を越えて、我々の眼前に現れる。

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