松帆銅鐸…淡路島の謎2 ルーツを探るー中国(殷→呉・越)➡朝鮮半島(南部)➡日本(松帆・出雲)
松帆銅鐸を見せて頂いた瞬間に
『松帆の銅鐸のこの色は【殷】時代の青銅器!』
と頭が反応した。
この閃(ひらめ)きは事実だった!
今回はこれを追ってみるとチャンと間違いなかったことが分かったのです。
以下順を追ってこの流れを説明します。
日本列島に渡来した『倭人』とは、『倭族』のうち、
★稲作を伴って日本列島に渡来した(弥生人)
の事をこう呼びます。これは中国の古典によっても明らかです(「倭族と古代日本」諏訪春雄著 雄山閣)。これは、揚子江に沿って東方に向かった人達でした。
揚子江下流に達した倭族の中でさらに山東半島に向けて北上した人達もいますが、漢族は彼らを『東夷』と呼びましたが、その『東夷』から『殷』が建国されるなど倭族の国がありました。
この『倭族』の国々は周や斉にしばしば討たれ、南部は『呉』の領土になりました。
実は、日本列島への稲作の伝来は近年の研究で縄文時代晩期後半とされていますが、この頃は、春秋時代紀元前472年に呉が南の越によって滅亡した時です。この時に、呉の遺民が海路で北上して難を逃れたと思われます。
しかし大陸から直接日本列島に渡来したのではなく朝鮮半島を経由したもと考えられます。これが、朝鮮半島南部の倭族でした。
このあたりは、「三国志」魏志倭人伝と「後漢書」東夷伝から明らかです。詳細は記述の参考文献にあります。
北部九州に渡来した倭族は縄文土器から文様を付けた土器をつくりました。
以上の流れを要約すると、
①倭族から殷が建国され、
②後に呉となるが、
➂呉の遺民(君主や王朝が滅びたのちも生き残って、遺風を伝えている
民)が
④朝鮮半島に渡り、
⑤日本列島にやって来た。
ここで皆さん、『呉』と言う国が実は日本人には馴染みの深い国であるのをご存知でしょうか?
そう、『呉服』とか『呉市』(広島県)などのようによく知られたところに登場します。
さらに、
殷➡呉➡(朝鮮半島南部)➡日本列島
の流れです。
すでに『淡路島の謎1』で述べた
1.『殷の青銅』
2.朝鮮半島産の鉛の使用
との因果関係が明らかになりました。
殷の時代の青銅でも見られる成分(錫10%以上)と松帆銅鐸や出雲荒神谷銅鐸とも一致します。
結論として、
松帆銅鐸・出雲荒神谷銅鐸と殷の青銅器技術の継承
が明らかになりました。
では、呉地域にこのような銅鐸文化はあったのでしょうか?
下の写真を見て下さい。これは中国江蘇省無錫市にある春秋戦国時代(紀元前770-同221年)の地方国家、越の貴族墓から出土したものです。
では、越とは、どのような地域であったのかを示しています。まさに越は呉と隣接した地域です。
よく知られた『呉越同舟』と言う言葉もあります(「仲の悪い者どうしが同じ場所に居ること。また,行動をともにすること)。
推測するに、この
★呉や越には、このような日本の銅鐸に近いものがあった
以上から、
殷の青銅技術の流れを持つ呉の遺民が国の滅亡と共に朝鮮半島を経由し
て日本に渡来した
と見れば松帆銅鐸や出雲荒神谷銅鐸の謎が一気に解けます。
ちなみに春秋戦国時代には洗練された楽器として
上の写真のように作られ、下の写真のように結構松帆銅鐸に似たものがあったことが分かっています。
これらの楽器は、下の写真のように吊るされて種々の大きさの『銅鐸(に似た)』が演奏に用いられたようです。
春秋時代(B.C.770~B.C.403)になると礼楽制度は衰退し、多くの諸侯国では「新楽」という新しい音楽が人気を集めるようになりました。これは真情を吐き出す情熱的な音楽で、これまでの正統な雅楽とは全く異なっていたと言います。そこで用いられたのが多彩な楽器ですが、そのうち、管弦楽器に当たるのが上の写真です。
一番下に見えるのが日本の銅鐸と酷似していませんか。
そうなると、最後に残るクエスチョンがあります。
★朝鮮半島には(松帆と)同類の銅鐸が見つかるか?
という疑問ですが、近日中に本件についても説明掲載予定です。
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