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奈良町見知ル1 土塀

平城京は土塀に囲まれ、京内外の邸宅も土塀に囲まれていました。
これは高い土塀で外敵から平城京内や住人を守るためにも重要でした。
弥生時代には、環濠集落を造り、濠を掘って矢来で

矢来で囲まれた(想像図)

周囲を囲んで守っていました。下の写真は発掘された環濠の跡です。最初は低地に造っていましたが、後に高地性環濠集落が造られました。どうやら倭国大乱のせいでは?という推測もあるようです。

弥生時代の環濠集落


一番上の絵に描写されているように、高く、幅の厚い土塀で労役の人達によって『版築』と呼ぶ工事法で硬い土塀を造っていました。高さも5メートル程度と言いますから平城京(南北4.8km、東西4.3km)の用地を囲むわけですから大変な工事だったでしょう。工事に携わる人たちの租税は50%免除だったようですが、呼ばれると労役になりますので、税と労役が重く、逃げ出したり、僧になろうとする者も多くいたようです。
 この塀の文化はどうやら、
ローマ帝国→新羅→日本 へと伝わって来たようです。そう言えばローマはまさに城のような街でした。
特に天平時代には、長屋王の変、橘奈良麻呂の乱などクーデター紛いの事件も多くあり、地位の高い貴族は屋敷に傭兵を雇っていたとも言われます。
下の想像図は、長屋王の邸宅です(現在の奈良市ミナーラ付近)。

こんなに広かった『長屋王邸宅』(想像図)

この邸宅を守る事は容易ではありませんでしたから厩もあり逃げ出すための馬の準備もありましたが、あまりに衛兵や馬の匹数も多くなり朝廷から制限が発布されました。
さて土塀の造り方としてご紹介した『版築工法』が用いられましたがこれは規模の大きい土塀でした。一般の屋敷・邸宅にはもっと簡便に瓦を使った工法が多く用いられていました。下の写真は東大寺勧学院の土塀です。

勧学院瓦土塀

門両側に見える土塀には規則的に瓦が規則的に配列されています。大写しすると下のような写真のようです。

瓦が規則的に配列された土塀

この瓦は土塀の外部を雨水が流れて土塀内部に浸み込まないように工夫されたものです。

長い間持たせるために工夫されたもので上下10㎝~20㎝の間隔で瓦が入っています。

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