見出し画像

日本古代史…珍説・奇説 【傑作選】       6.中国大返しは、海路楽勝の旅…あり得ない陸路強行軍

 『中国大返し』とは、戦国時代末期の天正10年6月(1582年6月~7月)、備中高松城の戦いにあった秀吉が主君信長の本能寺の変での自害を知った後、速やかに毛利氏との講和を取りまとめ、主君の仇明智光秀を討つため、中国路を京に向けて全軍を取って返した約10日間にわたる軍団大移動のことを言う。備中高松から京・山崎まで約230kmを踏破した、日本戦史上上屈指の大強行軍として知られている。
 この『中国大返し』について歴史研究家や学者の間では以下のように扱われています。その頃は、折からの梅雨の頃でした。
 行軍は、秀吉を先頭に2万以上の軍勢が、一部は後方の毛利軍を牽制しながらなされた。街道で道幅の狭い箇所では2間(約3.6メートル)に満たないところもあり、兵は延々と縦列になって進まざるをえないことも多かったと考えられる。これは非常に危険な行軍となったことから、秀吉自身と物資を輸送するため、危険と混乱を回避するために海路を利用したのではないかという憶測も生まれた。いずれにしても、悪天候の中1日で70キロメートルの距離を走破したこととなり、これは当時にあって驚異的な速度といってよい。
 疑問は当然起きてきます。
 このような昼夜を問わない強行軍の後で、戦いなど可能だったのでしょうか。 
 古代は、旅や移動するには、
 『海は道なり、道は海なり』
と言われました。
 実は、古代の神に、『道祖神』というのがあります。この『道祖』は、【ふなど】と読みました。古代の道は海で船で行ったからです。
 陸路など整備はされていませんでしたし、川には橋もありません。
徳川時代には、多摩川に橋は造られていませんでした。敵が進軍するのに有利になるからでした。
 雨が降れば道はぬかるみ、山・谷・樹木・雑草など進むのに障害物も多かった訳です。
 夜は真っ暗ですから大勢が進むには危険すぎます。野獣もいますし、地面の状態も見てもよく分かりません。
 食事はどうしたのでしょう?歩きながら、走りながら食べたのでしょうか?
 寝るのはどうしたのでしょうか?天候や地面の状況、暗闇で寝るのはやはり恐怖でしょう。
 一方、船はどうでしょうか?
 水夫(かこ)がいれば、乗った兵達は船倉で休息をとることも出来ますし、雨や夜露も凌ぐことが出来ます。食事も容易に取ることが出来ます。
 重量物(鉄砲、甲冑、車など)船に積載すれば人手は不要です。
このように、陸路を強行軍で1日70kmを走破するなんて馬鹿げたことを智将・羽柴秀吉がやるはずなどあり得ません。
 だとすれば、後は羽柴秀吉が船や水夫などを手配・入手できたか、否か、に関わる疑問だけです。
 実は、これは容易に得ることが出来ました。古代や中世では、船の旅は、陸の旅に比べて約三分の一の時間しか必要としませんでした。じつは、この事実は、『魏志倭人伝』の【水行十日陸行一月】にも書かれている通りなのです。
 瀬戸内海の海路を利用すれば姫路までの距離であれば何の問題も無く、兵達も休息をとりながら進軍出来ました。
 次稿では、どうのように秀吉が船や水夫など手配・入手できたのかに迫ります。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?