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体の揺れ、 ひもで作る 人に配る

こんにちは、このnoteを村上万葉さんと共同でやっている福田由美エリカです。

この三週間ほど、万葉ちゃんと散歩している足元の動画を送っている。二月ごろ、バーガーキングで作品のことを話し合っている時にとりあえず何かやってみようということではじまった。

毎日散歩をして、歩いている足元を10秒~20秒ほど撮影して送る。

今日は動画を撮ってないなと思うと外に出かける。ついでにごみ捨てや買い物などの用事をまとめて済ます。外出の用事があるということで一日の活動に変化が出る。天気にも影響を受け、一番には、一応近所への散歩は自粛の範囲には含まれていないが、日々のコロナウィルスによる自粛令の状態によって外出することが左右された。

散歩の動画を送り始めたとき、外にたくさん子供がいるなあという印象だった。ちょうど休校要請が出始めたぐらいで、公園や近所の商業施設に平日にはあまり見ない子供たちの姿があって逆に街に活気が出た感じだった。

それからだんだんと店舗の営業自粛の影響も受け、街の人は減っていった。あと風がすごく強い日や寒い日とかも人はいなかった。

はじめる前に、ちょうど私と万葉ちゃんの二人の家の近くに川があることが分かったので、川の周りを歩くということをざっくりと決めて、散歩をしていた。それでも毎回同じ道を歩くのは大変だったので川を歩くことを含めてふらふら歩きまわる感じだった。行き先なく歩くとどこに向かうか決めるのが難しくて、あのお店がちょうど開店するからこっちに行こう、みたいな理由で方向を決めていた。何も基準もなく物事を決めることはできないのだなと思った。

散歩を今の時期にやることにも色々意味が発生する、という話を動画を送って何日か経ってまよちゃんと話した。政府から家にいなさい、なんて一生にそんなに言われることないだろうし、様々な行動をこれは大丈夫か、今日は出れるかと考える作業は意識の中にあった。

この活動を普段の作品と見比べて思うことは、作品は無意識に完成しようとに近づける一手みたいなものを顧みることを意識していた。制作の中における選択を考えるとそれぞれの無意識の選択に疑問がわいてくる。なぜこの行為をするかと問い続けることが増えてくる。だから作品はどんどん砕けた、形の弱いものになるのだけれど。今回の散歩は、自分の普段の作品とは異なる手順をたどっていると思う。この散歩はなるべく目的や意味をもたないように取り組んでいたが、おのずと状況や必要性から意味が出てしまった。作品制作は自分の選択がどういう意味をもつかを精査しながら表現をする。しかし両方とも意味が後にきたり、目的を前提に行動を起こしたり、それらから離れようとしたりする試みであることは変わりない。でも歩いてみたことでそれが明快になった。

私はこの動画をおくる時が一番人間の関わりみたいなものを感じていた。相手側の動画を送るタイミングとか、撮られた時間帯などが動画から見えるときコミュニケーションに近い感覚があった。

このやりとりを作品という風にとらえることはできると思う。でも今回はこれを自らで作品という位置づけにしたくない。作品と言い切ることは定義することに近いのかなと思っているけれど、そこを柱にして構造の説明がなされたり、人工的になっていく気がした。だからこの行為が分類分けされるときは後々に分類されてほしい。作品と評価されるにしろ、記録になるにしろそれは行為をやった人以外の判断に任せたい。

これが散歩という取り組みをして、私が考えたことだ。また何かあったらnoteに書いていきたい。



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