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時を文字として重ねるという話。

私は手帳をつけるのが好きだ。学校で手帳が配られた中学一年生の時から毎年続けている。
先生はスケジュール管理を習慣づけるために生徒たちに配っていたようなので、まんまとその魂胆にハマったと言える。
毎年度の切り替わりになると、手帳コーナーで浮き足立ちながら今年はどんなものにしようと考えるのだ。

手帳をつけるというのは記録であり、情報の管理であり、記憶の蓄積だ。
予定や課題を忘れないために書き込み、また思い出や思考の流れをそこに連ねる。
何冊にもなったそれは私が過ごしてきた時の積み重ねなのかもしれない。

そもそも手帳に限らず文章を綴るのも、手で文字を書くのも、何かを集めたりまとめるのも好きだ。予定が目に見えて埋まっていくことが心地いい。性に合っていたのだろう。
過去の手帳を読み返せば、その時何があったか、どんな気持ちだったか、何をしていたか、それらがありありと立ち上がってくる。私にとっての手帳とはそういうものだ。

2020年の初め、やっぱり私は好きな手帳を探して文房具屋を見ていた。書きやすさ、デザイン、メモスペースの多さ、エトセトラ。学校に合わせて4月始まりのもの。長く続けているとこだわりがたくさんある。日によっては数時間、数十分単位のスケジュールがあるから1日ごとのページがあると良いなとか、他の小物を挟める部分が入っていると良いとか、巻末の情報ページとか。
(余談だが私は電車が好きなので、路線図が載っている手帳じゃないと絶対に買いたくない。見づらいのも嫌だ。)

そして無事にお気に入りの手帳を見つけ、一年間それを使うことを思ってワクワクしていた。
だけど2020年の手帳は、ほとんど真っ白なままだ。

たくさんあったはずの予定に二重線を引き、引き続け、出歩くことも減って手帳を持ち歩くこともなく、スマホのカレンダーにだけメモをした。毎年だったら考えられないくらい真っ白なページが広がっている。

それは時間の空白みたいだ。2020年は、なんだか何をしたかもよく分からないまま、気付いたら終わってしまった。時間が止まってしまったか、それとも一足飛びにタイムスリップしてしまったか、確かにあったはずの時間なのに虚しく白いページ。
私の時を積み重ねてきてくれた手帳は、やはりその時の様子をありありと映し出している。2013年からずーっと毎年重ねてきた手帳に、中身のない空白が挟まれた。

時とはどこまでも続いていく。どこからかずっと続いてきて、この後も。
まだ僅かしかその流れの中には無い私の時は、この先にも長く長く伸びている。それは20年目にして唐突に白くぽっかりと穴を開けた。とてつもなく大きな白、何も無かったように思えるが、長く長く伸びる中に見たらほんの小さな穴なのかもしれない。時の流れの中には、そんな小さなほつれや余白が生まれるものなのかもしれない。

そして白く空虚な時のように思えても、そこには二重線で消した予定や、それでも重ねた何かのように痕跡がきちんと残っている。小さな跡でも、少なくても残っているし、まだまだ時は続いていく。私は確かにこの1年を生きて、記憶も記録も重ねたはずだ。

真っ白だった2020年が終わり、年が明けた。
今年はもう少し、手帳のページを埋められるだろうか。

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