4-7. 人間界の環世界で生きることは、変容を受け入れるということ 【ユクスキュル / 大槻香奈考】
ここまでは人間をひと括りにまとめて論を進めてきましたが、人間同士の中でも環世界の違いは存在すると言っても過言ではないと思います。
例えば電車が好きな子どもには車両の細部までがはっきりとわかりますし、移動手段の一つとしか捉えていない人にとっては車両の数やドアの位置を認識する程度になるでしょう。単純な興味の違いによっても、認識の感度は大きく変わります。
当然ながら、身体的特徴によっても環世界は大きく変わります。それは先天的でも後天的でも同じことです。例として加齢に伴う眼疾患を挙げてみましょう。
白内障の場合、水晶体が白濁するため霧がかって見えたり(霧視)、ものが二重に見えたりします(未熟白内障)。未熟白内障の場合、水晶体の混濁により眼内で光が散乱するため、明所ではまぶしさを感じ、加えて表示が読みにくくなったり色の識別も困難になります。
緑内障は視野異常を起こすため、視野欠損や視野狭窄、霧視、視力低下などが発生します。視野欠損が生じると実践と点線の区別がつきにくくなります。
加齢性黄斑変性は加齢によって網膜の中心にある黄斑に障害が生じ、視野の中心が見えにくくなる病気です。中心暗所(視野の中心部が見えにくくなる)や変視症(ものが曲がったり歪んだりして見える)という症状が現れます。
眼疾患だけでもこれだけの症状があるわけですが、加齢はその他の身体機能も低下させるため、これまで認識していた環世界がガラリと変容するのは当然のことでしょう。健常者であっても、誰もが環世界の変遷と共に歳を重ねることになるわけです。すなわち、在るのは「障害」ではなく「環世界」の違いであるとも言えるでしょう。
ひとりひとりの在り方を、環世界の違いによって捉えてみると、もう少し他人に寛容になれるのではないかと希望を持ちたくなってきます。
ユクスキュルの言うように「すべてを包括する世界空間」などというものはフィクションにすぎません。しかし、それぞれの環世界をつなぐ互換機のようなものは存在するのかもしれないという期待を持って、この章を締めくくらせて頂きます。
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