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無償の愛とやらと、見切りをつけること

生きることは難しい。

大人になった今でも人間関係には度々悩まされるけれど、離婚したり挫折したり同性を好きになったり、様々な経験をするなかで知ったこともたくさんある。
そんな、生きていく上でわたしを救ってくれた知恵や考え方が誰かの助けになればいいと思い、わたしはnoteをはじめたのだ。

今回は、見切りをつけられない人達に向けて書きたいと思う。


離婚して分かったことのひとつに「無償の愛はない」ということがある。
愛は消費され、補填されなければいつか枯れてしまうものだ。

わたしは離婚した夫のことを心の底から愛していたし、ずっとずっと愛情を注ぎ続けてきた。
何度も裏切られながら、それでも一心に愛し続けてきたのだ。
これが無償の愛だと思っていた。
しかしそんなものはなかった。少なくともわたしにとっては。
そして他の多くの人にとっても、愛は無償なんかではないとわたしは考える。

愛がお金だと思ってほしい。
愛情を与えるには身銭を切らなければいけない。
お金を貯めるには誰かからの愛を受け取らなければいけない。
言葉や、笑顔、やさしさ、思いやり。
そういったものを受け取って貯蓄したものを、また誰かに捧げていくのだ。
与えるばかりでは当然資金は底をついてしまう。
それでもどうしても誰かに愛をあげたくなったとき、わたし達は自分の心を換金するしかなくなってしまう。

そして心がすり減ってすり減って、最後のひとかけらになってしまったとき、「その最後のひとかけらさえも差し出して自滅するのか」「心が持たないと判断して離れるのか」の、そのどちらか一方を選ぶほかなくなってしまうのだ。
そこで自滅を選ぶことがもしかしたら真の愛なのかもしれない。わたしには出来なかった。
どちらにせよ、愛は無償なんかではない。
与えるばかりではどうしようもなくなってしまうときがくる。
やさしくしたくたってできなくなるときが、
愛したくたって愛せなくなるときがくる。
だって、かわいい子供におかしをあげたくったって、一文無しじゃなにも買ってあげられないのだから。


見切りをつけられない人をたくさん見てきたし、わたしもかつてはそのうちのひとりだった。
夫は、自分を支え形作る愛のかけらの、そのひとつひとつを、それぞれ誰から受け取ったものかなんて気にも留めない。
もらえるものはもらっておく。ただそれだけなのだ。
彼に背を向けて去っていたおんなのこたちをわたしは何人も知っている。
彼女たちは与えて、与えて、与えすぎて、もう何もあげられるものがなくなってしまったから、彼の前から姿を消してしまったのだ。
去っていく彼女たちを見て「なんて愛の浅い人達なんだろう。わたしとは本気度が違うのだわ」と、わたしは正直、得意げな気持ちでいた。
しかし残念ながらそうではない。
正妻のわたしは彼女達より、与えられるものがほんのすこしだけ多かった。ただそれだけだったのだ。


これは恋愛以外の対人関係にも言えることで、結局、ギブ・アンド・テイクのできない対等じゃない関係というのは、心をあっという間に貧しくしてしまう。
そうなると身銭が切れなくなってしまい、身近な人への些細な気配りさえ出来なくなっていく。
自分だけが耐えればいいと思っていても、最終的には関係のない人たちを巻き込み、迷惑をかけることになってしまうのだ。

まだ頑張れる。頑張れば報われるかもしれない。自分さえ耐えればよい。
そんな風に考えて見切りをつけられない人がいるならば、愛をお金だと仮定して、その"収入”で長い人生をしあわせに生き抜けるかどうか、考えてみてほしい。

今はまだ貯金を崩して生活ができている。しかし、収入のないまま暮らしていけばどうなるか。
家族が増えたらどうなるか。
どうにか捻出してお小遣いをあげたって、相手はなんにも思っちゃいない。
それがご両親からもらった大事なお金であったって、財布の中の最後の1円であったってどうでもよくて、もらえるものはもらっておくだけ。
そこには感謝もへったくれもあったもんじゃない。


自分のために。
そう考えるのが難しければ、周りにいる大切な人達のために。
親孝行のために。一緒に生きている・またはいつか迎えるかもしれない、こどもやペットのために。
一度立ち止まってみてほしい。

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