本のように、絵のように――奥誠之『ドゥーリアの舟』書評 中島水緒
ある日、緊張を強いられる用事をひとつ済ませて夜遅く帰宅すると、ネットで注文した一冊の本が届いていた。絵描きの奥誠之による初のエッセイ集『ドゥーリアの舟』。2022年に立ち上げられたオルタナティブの出版レーベルoar pressの3作目となる刊行物である。
B5変形の小ぶりなサイズで手に取ると予想以上に軽く、ソフトカバーの装幀がとても柔らかい。それでいて、ページをめくると紙の肌理がしっかりと指先に伝わる。マティエールを大事にする奥の絵画作品と同様、本全体が五感を呼び覚ますような仕上がりなのだ。文字は真っ黒ではなくほんのり赤みが差す小豆色で印刷されており、余白を広めにとった紙面レイアウトが目に心地よく、疲労した身体と頭にもすんなりと馴染む。厚手のボール紙が栞代わりに挟んであり、柔らかいページと触覚的なコントラストを生み出しているのも洒落た演出である。
デザインを手掛けたのは加納大輔。奥の活動をかねてから知るアーティストの大久保ありと建築家の西川日満里がエッセイを寄稿している。強力な布陣に支えられた『ドゥーリアの舟』が良質なアートブックであることは間違いないが、本書のメインは何よりもまず奥が書き下ろした17篇のエッセイだ。個人的に意外に思ったのは、奥が今回の本を日頃から描きためている絵画作品の作品集ではなく、「言葉」を主体とするエッセイ集として世に送り出したことだ。しかし、読み進めていくうちにその理由が腑に落ちる気がした。奥は絵画をこよなく愛する生粋の絵描きであると同時に、他人と関わり、コミュニケーションを取ることを厭わない「行動の人」でもある。社会や政治の問題につねに関心を持ち、プラカードを背負ってデモに参加したり、読書会を開催したりといった対外的な活動を以前から行ってきた人物なのだ。そんな奥にとって、「言葉」は人と人、作品と作品を媒介する主要ツールのはずである。絵描きであり、アクティビストであり、生活人でもあるということ。この絵描きの多面的な表情を伝えるためにも、エッセイ集はうってつけの形態だったと言えるのではないか。
『ドゥーリアの舟』は、大海に漕ぎ出た一艘の舟のごとき奥のあゆみを幼少期から記録する。兄妹揃って幼稚園の先生が開いているお絵描き教室に通い、高校時には立川美術予備校で学び(その当時、公園で拾った分厚い焼き板を木製パレットとして現在も愛用しているエピソードが印象的だ)、武蔵野美術大学在籍中は「現代アート」の流行りの動向に違和感をおぼえながら模索を続け、東京藝術大学の院に進学したのちはパラオに滞在して植民地下にあった同国の歴史に触れる。このように恣意的に経歴をピックアップすると、奥がいかにも順風満帆に「美術家としての王道コース」を歩んできたエリート・アーティストであるように思われるかもしれない。誤解を受けぬように急いで付け加えておくと、彼の活動の面白さは、与えられたレッテルや制度に疑問をおぼえ、みずから海路を切り拓いていく伏流的な道筋にある。そこでは社会と個人の領域が明確に分かたれずに混じり合う。たとえばそのひとつが、駅前などで行われるマルシェへの参加だ。路上で行き交う人々に照れながらでも声をかけ、自分の絵を展示販売するという特異な経験は、世の中の大半の人は美術になど興味がなく、生活のための品々を買うのに精いっぱいという現実を駆け出しの絵描きに突き付けたにちがいない。しかし、現代美術の商業ルートに乗らない形式で、それも公共空間に飛び出て絵を売るという実地経験は、生活と制作、美術と経済をめぐる奥の思考に有機的なふくらみを与えたはずである。
ちなみに、奥はかねてから「絵を売ること」「生活空間に絵があるということ」を現実的なレベルで考え、個人でイニシアチブを取ることが可能な範囲で実践してきた。自分の絵を売るだけでなく、友人・知人の絵も積極的に買い、骨董市で名もなき画家の油絵を掘り出したりもする。『ドゥーリアの舟』にも、自宅に飾られた友人たちの作品をひとつひとつ挙げながらその魅力を生き生きと描写するエピソードがある。絵を買うことが単なるお金と作品の交換でないこと、かたちなき価値の遣り取りであることが、こうしたエピソードからも伝わってくるのだ。
正直に言えば私は、奥が自身で設定する自作の値段を「ちょっと高めだな」と感じ、購入に踏み出せなかったことがある。奥の描く絵は小さいものが多い。片手でも持てるくらいのキャンバス。スケッチブックにさっと描かれたスケッチ。カセットテープのケースにおさめられたドローイング。家具の隙間にちょっとだけ空いた壁、本棚やラックの上など、生活空間でかろうじて確保されるスペースにも無理なくおさまってくれそうな小品が揃っているのだが、どうしても「サイズに比べてこの値段は高い」と感じてしまったのだ。そのような判断に至ったのは、美術業界でまかり通っている通念と相場――大作は値段が張り、小品は比較的リーズナブルに購入できる――に自分が染まってしまっているからだろうか。奥の絵の値段の「高さ」には、美術作品の流通をめぐる切実な思いと絵描きとしての矜持を感じる。奥が設定する絵の値段に私はいまでも完全に首肯するわけではないが、ともあれ、奥が参加する展覧会を訪れて自筆で書かれた値段表を見るたびに、美術作品の売買についてあらためて再考するきっかけを与えられたのは確かである。
本書にはエッセイだけでなく、奥の絵画作品の図版も手貼りの小さなシートで約20点ほど掲載されている。シートのサイズこそ小さいが、それは生活空間において奥の作品が占めるスペースの慎ましさ、ささやかさの表現でもあるだろう。
内面世界に深く潜るかのごとき幻想的なイメージ。音楽的なリズムで散らされた抽象的な滲み。みずみずしいブルーやお日様を連想させるオレンジだけでなく、塗り重ねられた暗色や濁り色にもポエジーが宿っている。そのリリシズムはたとえば、バルテュスが少年時代に描いていた、稚拙だが描くよろこびにあふれた一連のエスキースを彷彿とさせるタイプのものだ。あるいは、絵本作家の片山健あたりにも近い感性を見てとることができるだろうか(実際、奥には片山に限らず敬愛する絵本作家が多くいるようである)。むろん、『ドゥーリアの舟』を読んだあとは奥をただナイーブなだけの絵描きとして見ることはできないのだが(ゆえに、そのポエジーばかりを称賛するような物言いは控えたほうがいいのだが)、ファインアートだけでなく絵本や小説から受けた影響を純度高く結晶化させた作品の数々は、やはり見る人を童心に帰らせる作用がある。
本書を読んでいて、奥がこれまでに参加したいくつかの展覧会を思い出した。たとえば、谷中の古民家で自作と自身のコレクションを展示した個展「ドゥーワップに悲しみをみる」(2020)、阿佐ヶ谷にある建築家の私邸で行われた「小さな部屋に絵具を渡す」(2021)。どちらも生活空間と絵が地続きにあることを示す展覧会であり、単なる展示というよりは、ある空間に絵を飾る際のヒントが詰まった提案型のプロジェクトであったように思える。そこでは絵を飾るための什器製作にもこだわりの姿勢が見られた。今回は本というメディアでの表現となったが、今後はどのような場で、どのような設えのもとで作品を見せていくのか、いち鑑賞者としても楽しみである。
最後に、出版元のoar pressについて触れておきたい。冒頭で少し紹介したように、oar pressは今年立ち上がったばかりの出版レーベルで、都内のギャラリーに勤務する見目はる香が個人で運営を行っている。これまでに、若林菜穂、水上愛美の作品集を刊行してきた。ウェブサイトでは木下理子、大石一貴、日原聖子といった作家が文章を寄稿しており、出版を軸とした多面的な活動が期待される。
個人がネットで手軽に文章や作品を発信できる時代にあっても、同人誌やZINEの文化が廃れないところを見ると、決して少なくない人々が紙媒体への期待を依然として寄せているのかもしれない。まさしく「紙の本」の価値をこのたび提示したoar pressにも、アートブックならではの可能性を是非とも引き続き探究してほしいところである。
中島水緒
1979年東京都生まれ。美術批評。展覧会レビューや書評などを執筆。主なテキストに、「鏡の国のモランディ──1950年代以降の作品を「反転」の操作から読む」(『引込線 2017』、引込線実行委員会、2017)、「前衛・政治・身体──未来派とイタリア・ファシズムのスポーツ戦略」(『政治の展覧会:世界大戦と前衛芸術』、EOS ART BOOKS、2020)など。
WEB:http://nakajimamio.sakura.ne.jp
レビューとレポート第41号