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音楽はガラスブロックの森を突き破って――マチュウ・コプランによる展覧会「エキシビジョン・カッティングス」レビュー 中島水緒

銀座の一等地にあるガラスブロックのビル。正装の女性スタッフに案内されて小さなエレベーターに乗り込む。アートギャラリーのある最上階へと直行する。そこでもまた洗練された接客のスタッフに出迎えられ、展示のリーフレットを受け取る。簡単な説明を受ける。ガラスブロックの壁面から自然光が射し込む室内は、広々として明るい。

と、ここまでは、銀座メゾンエルメス フォーラムで作品を鑑賞する際、幾度となく体験してきたいつもの流れだ。いつもと決定的に違うのは、いまがパンデミックによる緊急事態宣言下であること、そして、展示室の中央におよそ「作品」らしからぬアクリルケースの植物プランターが設置されていることである。プランターの周りには枝や幹の形状を活かした木製のベンチが据えられており、鑑賞者はそこに腰掛けてくつろぐことができる。さらに、このオーガニックなしつらえにはいささか不似合いなスピーカーが、ベンチを取り囲むようにして複数台並んでいる。スピーカーから流れるのは、音程の変化なく持続音のみが延々と繰り返される前衛的なドローン・ミュージックである。植物、木製ベンチ、そして聞く人によってはただのノイズとしか感じられないであろう実験音楽。どこまでが作品でどこまでが作品でないのか、何が誰による作品なのか、そもそも人為の生み出す些細な境界を判別することがこの空間においてほんとうに適切なのか。見当もつかない。ひとつだけ確かなのは、ハイブランドのファッションビルが併設するラグジュアリーなアートスペースに、何とも奇抜な取り合わせのインスタレーションが出現したということだ。それも、アートからアートならざるものへと滲出するように。


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(fig.2)《育まれる展覧会》展示風景
Photo credit: ©Nacása & Partners Inc. / Courtesy of Fondation d'entreprise Hermès


展示の指揮を執ったのはロンドンを拠点に活躍するキュレーターのマチュウ・コプラン(1977年生まれ)。コプランはこれまで、ギャラリー空間をからっぽにする試みを行った歴代の展覧会を紹介する「Voids. A Retrospective(空虚。回顧展)」(ポンピドゥー・センター、 2009 年)、「閉鎖された展覧会」の歴史を振り返る「A Retrospective of Closed Exhibitions (閉鎖された展覧会の回顧展)」(Fri Artクンストハレ・フリブール、2016年)など、制度としての展覧会や美術館に批判的検証を加える企画展を手掛けてきた。

本展タイトル「エキシビジョン・カッティングス」の「カッティング(Cutting)」には2つの意味がある。ひとつは植物(有機体)が人工的に生命を育むメタファーとしての「挿し木・接ぎ木」。もうひとつは新聞や映画における「切り抜き・編集」。このタイトルを踏まえるならば、ギャラリーに突如としてあらわれた植物プランターもまた、展覧会という制度的・人工的な場に「接ぎ木」されたひとつのコンテクストと見做せるだろう。プランターに植えられている植物は、愛媛の福岡正信自然農園から輸送された甘夏の木である。1913年生まれの福岡正信は、「不耕起、無肥料、無除草」による自然農法を唱え、著作を通じて「無」の境地を探求した農哲学者だ(註 1)。こうした思想的背景をもつ甘夏の木が地方から都市へと輸送され、金流激しい商業空間の頂きに据えられたことは、批評的な意義を持つ。しかもこの有機的なコンテクスト=甘夏の木は、会期中、光と水と実験音楽のノイズを受け、キュレーターの思惑や鑑賞者の期待とはまったく無関係に、「作品」とは異なる仕方で生長するのだ。


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(fig.3)《育まれる展覧会》甘夏の苗の接ぎ木部分
Photo credit: ©Nacása & Partners Inc. / Courtesy of Fondation d'entreprise Hermès


展示は2つのパートで構成される。先述した植物×ミニマル・ミュージックのインスタレーション、そして奥の一室で上映される映像作品《The Anti-Museum: An Anti-Documentary》である。映像作品はコプランが過去に手掛けた企画展をベースとするもので、過去のアーティストたちによる「閉鎖された展覧会」や「反美術館」の試みを、資料映像などのリミックスによって再提示するという内容だ。展示室内を白一色に塗って「空虚」の状態をつくり出したイヴ・クライン(1958年)、「大パノラマ展」初日に内科画廊の扉を閉鎖して鑑賞者の訪問を拒絶したハイレッド・センター(1964年)、「皆が芸術家になれば芸術は消滅する」と説いたオノ・ヨーコ(1964年)、近年ではギャラリー入口を金属板で閉鎖したサンティアゴ・シエラ(2002年)――。そのほか、ダニエル・ビュレンやマウリツィオ・カテランの名も登場する。コプランが一堂に集めた「反展覧会、反芸術、反美術館、反文化」の事例はかなりの数にのぼるが、テンポよく切り替わる映像とテロップ、そしてヘンリー・ロリンズの軽快なナレーションと刺激的な音楽が相俟って、約 30分の上映時間はまったく中だるみを感じさせない。つまり、カッティング(編集)の妙が冴え渡っているということだ(本作がドキュメンタリー映像の手法を踏襲しつつも要所要所でその慣習を破壊する「アンチ・ドキュメンタリー」であることを想起しておこう)。
必然の流れとして、この映像作品が「文化施設の閉鎖」を余儀なくされたパンデミック下で上映される意味合いも考えなければならない。映像作品の導入でも、映画館やコンサート会場、美術館などが閉鎖され、芸術体験が根本的に打撃を受けている現況に警鐘が鳴らされる。

もちろん、パンデミックのような外因による文化施設の「閉鎖」と、アーティストがみずからの意志で行うコンセプチュアルなレベルでの「閉鎖」とでは、まったく背景が異なる。安易に混同はできないが、ひとまずここは、2つの異なる「閉鎖」が挑戦的な「接ぎ木」によってズレをはらみつつ接続されていることを確認しておきたい。1960年代に花開いた反芸術、古くはデュシャンにまで遡るような制度転覆的な身振りを再起動させることがもはや不可能だとしても、反(anti-)の精神を骨抜きにされて商業主義へと絡め取られた現代アート、そしてパンデミックで行き詰まりを迎えた文化芸術を賦活させるには、少々強引なカッティングが求められるということだ。


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(fig.4)《アンチ・ミュージアム:アンチ・ドキュメンタリー》展示風景 | 2021 | 2K ヴィデオ| 30’ 48”
(ジャック・ヴィルグレによるタイポグラフィー)
Photo credit: ©Nacása & Partners Inc. / Courtesy of Fondation d'entreprise Hermès 


「閉鎖された展覧会」の歴史がハイレッド・センターの「大パノラマ展」で始まるのは、日本を意識した文脈という理由だけに限らないだろう。というのは、「大パノラマ展」が開催された1960年代初頭とは、「無」や「ゼロ」といった概念を掲げる美術潮流がインターナショナルな現象として台頭した時代だったからだ。より正確には、「無」を標榜する美術潮流は1950年代の末頃から前衛的な運動を開始していた。たとえば、ドイツ・デュッセルドルフで誕生したグループ・ゼロは旧来の美術の価値観を白紙に戻すことを理念に掲げ、フランスのヌーヴォー・レアリスム、オランダのヌル(オランダ語で「ゼロ」を意味する)、イタリアのアジムートといった同時代の美術運動と連携した。また、コプランの映像作品では言及されていないが、1960年にはイタリアのパドヴァで前衛美術の集団グルッポ N が「Nessuno è invitato a intervenire(誰も中に入ることができない)」と題された小さな展覧会で、何も展示されていないアトリエの扉を封鎖するささやかな試みを行っていた(註 2)。ひとつひとつの運動は局所的に発生したものだが、この時代には確かに同時代の美術に対する問題意識のシンクロナイゼーションがあった。こうした前哨を経て、1960年代に数々の前衛芸術運動が実りを結んだのはあらためて指摘するまでもない。いわば、1950年代末から1960年代初頭にかけてヨーロッパの美術界を分布的に覆った「無」の観念が、その後の肥沃な前衛芸術運動の土壌を準備したのである。

コプランの映像作品が「大パノラマ展」をはじめとして1960年代以降の文脈を重点的に紹介しているのは、おそらく素朴な60年代リヴァイヴァルなどではないだろう。文化が危機的状況に追いやられた現況において、「無や空虚のあとに生まれる肥沃な土壌」に賭けてみること――そのための環境づくりこそが本展の骨子だ。ここにきて、一見すると乖離した印象をもたらす2つの展示パート(植物インスタレーションとアンチ・ドキュメンタリーの映像作品)が架橋される。ハイブランドのファッションビルの最上階に接ぎ木されたのは、甘夏の木に象徴されるような、「人工的」に準備された「無」なのだ。そしてここから、多様なルーツをもつ表現(現代美術、実験音楽、什器 etc.)が異種混淆する、来るべきアートの生態系が育っていく。
ギャラリー壁面に印字されたクレジットタイトルや映像作品のエンドロールを見てもわかることだが、2つのパートには多くの制作者が参加している。しかも、彼・彼女らのバックボーンはじつに多様だ。植物インスタレーションの音楽はドローン・ミュージックの第一人者であるフィル・ニブロックや、東京芸術大学声楽科出身のメンバーで構成される日本のヴォーカル・グループ Vox humana(ヴォクスマーナ)が手掛けているし、木製ベンチなどのしつらえは、音楽制作・パフォーマンスなどの分野で活動する西原尚らによるものだ。他方、映像作品《The Anti-Museum: An Anti-Documentary》では、パンクバンドのヴォーカリスト・作家・司会業といった多彩な顔をもつヘンリー・ロリンズがナレーションを務め、ドイツの伝説的なエクスペリメンタル・ノイズ・ミュージックバンド、アインシュテュルツェンデ・ノイバウテンの F・M・ アインハイトが音楽で参加している。さらにヌーヴォー・レアリスムの作家として知られるジャック・ヴィルグレが作中で使われるタイポグラフィをデザインするという豪華布陣だ。メンツを見てもわかるように、この展覧会はコプランひとりの名に統べられるものではない。国籍、年齢、出自、そして有名無名の区別もなく、それぞれの生息域を超えて混じり合う新しい生態系をここに見ることができるだろう(註 3)。

インスタレーションのセッティングに関して言えば、甘夏の木を植えたプランターが高めの位置に設置されていたのが印象的だった。身長150cm台の私の場合、背伸びして仰ぎ見てもプランターの内部はよく見えなかった。むしろ、甘夏の木よりもアクリルケース越しに見える土中の様子がまず目に飛び込んでくるのだ。「カッティング」によって露呈した断面からは予想外に色々なものが見えてくる。会場を訪れたのは会期後半の7月だったが、土を割り複雑に伸びていく植物の根は視覚的にも面白く、本展の参加者たちのルーツ(roots)の複雑さを象徴しているように思えた。


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(fig.5)《育まれる展覧会》展示風景より、甘夏の苗を植えたプランター。日が経つにつれて植物は葉を生い茂らせ、土中に根を張っていった。
Photo credit: ©Nacása & Partners Inc. / Courtesy of Fondation d'entreprise Hermès


他方、何かが生まれるには破壊もまた必須であることを本展は示している。たとえば、ペンチや釘や梯子といった工具的モチーフをあしらってアルファベットをアグレッシブに奇形化したジャック・ヴィルグレのタイポグラフィは、創造と破壊をめぐる接ぎ木的意志の表徴と見ることもできるのではないか(註 4)。《The Anti-Museum: An Anti-Documentary》では「反著述(アンチ・ライティング)」の先鞭者としてマラルメが参照されるが、いまや私たちはマラルメの『骰子一擲』の時代から遠く離れてヴィルグレによる装飾的タイポグラフィにまで辿り着くこととなった。ここでは言語もまた「無」へと還されるべき破壊の対象なのだ。この文脈を踏まえれば、真っ黒い画面に英字のテロップが打ち出されては消えていく映像後半のくだりが本展の破壊のアティテュードをもっともよく示していたように思える。
なにしろそこでは、英字のテロップが音声記号に部分的に誤変換され、フォントの一部が欠け、transparent(透明)の語があらわれると同時に文字通り消えていく、という一連の流れが、ヘンリー・ロリンズのナレーション(音声)と同期/非同期することで意味内容を切り刻みながらポリリズミックに展開されていくのだから(註 5)。
起点に戻ろう。映像の冒頭で掲げられるのは次のような「マニフェスト」である。

反美術館(アンチミュージアム)が展示するのは、政治的、かつ芸術的な問いかけによるラディカルな対決であり、美術館自体が自らの破壊の媒体となるような実験的な行為である。」(太字ママ)(註 6)

対して、映像の最後に流れるエンディングミュージックではmanifesto(マニフェスト)、no meaning(無意味)、deconstruction(脱構築)という単語が刺激的なノイズ・ミュージックに乗ってリバーブする。「反美術館」「反展覧会」を掲げるコプランの映像作品はまごうことなき「マニフェスト」であるが、そのマニフェストはかつての前衛美術家たちのそれのように主義・信条を「我々」という主語によって強力に束ねる種類のものではなく、掲げた矢先にすぐさま no meaning(無意味)、deconstruction(脱構築)へと翻るような内破の力に満ちたものだ。言語はみずからを破壊する。吐き出されたと同時に崩落へと向かう言語が映像のテンポを成し、ドキュメンタリーをアンチ・ドキュメンタリーの域に高めるのだ。繰り返しになるが、コプランがコンセプトとして扱うのは「閉鎖された展覧会の歴史」である。そのコンセプトは現実とも同期して、4月23日にオープンを迎えた本展は東京都の緊急事態宣言発令によって臨時休館を余儀なくされた。休館中もミニマル・ミュージックはループで流れ続け、甘夏の木には水と光と重低音とが与えられていたという。たとえ閉鎖された空間であっても、野放図に繁茂し育っていく植物は、「マニフェスト」などには縛り切れない解放の力を象徴するものとなるだろう。そして、ガラスブロックの建物を「閉鎖」に対する(反する)「開放」の空間と見るならば、メゾンエルメスほど今回の展覧会におあつらえ向きの舞台はほかにないのではないか。

甘夏の木は育つ。その生長に少しでも長く付き添えと言わんばかりに展覧会の会期も延長した。ガラスブロック越しに自然光が降り注ぐ。音楽はノイズを軋ませ、ガラスブロックの森を突き破り、緊急事態宣言下の東京へと滲出していく。


(註 1)コプランは福岡正信による絶滅危惧種や気候変動に抗した取り組みに影響を受け、福岡の著作『自然農法 わら一本の革命』(春秋社、2004年)に基づいた「四季の食物マンダラ図」スケッチも描いている。
(註 2)グルッポ N の「誰も中に入ることができない」については以下の拙文を参照。「プログラム・アートの前夜に――グルッポ N の2つの「展覧会」」 http://nakajimamio.sakura.ne.jp/text_note_8.html
(註 3)本展は当初の予定を変更して7月31日まで会期が延長されたが、展覧会最終日に再訪したところ、次回展覧会のジュリオ・ル・パルク展の準備としてガラスブロックの一部が虹色に塗り替えられていた。2つの展覧会の「接ぎ木」が期せずして起こった興味深い出来事である。
(註 4)ジャック・ヴィルグレは1926年生まれのフランスの美術家。街中に貼られたポスターを剥がす「デコラージュ」のいち早い実践者として知られる。デコラージュの実践が持ちえた対社会的な意義については以下を参照。「作品を公共空間の中に設置し、消費文化の言説装置のうちに位置づけたいという同じ欲望は、デコラージュのアーティストたちによるコラージュの変容にも明瞭にあらわれている。〔……〕略奪行為を通して、アーティストたちはポスターを公共の壁から剥がしたが、それは偶然にかたちづくられた言語や文字=図形の布置を収集するためだけでなく、広告の製品プロパガンダが公共空間を独占していることに対して、匿名の協働者たちが抵抗するという文化破壊行為(ヴィルグレはこれを〈匿名の引剥ぎ〉と名付けた)を恒久的なものにするためでもあった。」(ハル・フォスター、ロザリンド・E・クラウス、イヴ-アラン・ボワ、べンジャミン・H・D・ブークロー、デイヴィッド・ジョーズリット著『ART SINCE 1900 図鑑 1900 年以後の芸術』、東京書籍、2019年、505頁)
(註 5)なお、《The Anti-Museum: An Anti-Documentary》のナレーションとテロップは本展リーフレット――最初にエルメスのスタッフに手渡される冊子――に全文掲載されている。ただし、本展の肝はナレーション(音声)とテロップ(表記)のそれぞれの系を同時かつ別々に走らせていくカッティングの妙にあるのであって、(当然のことながら)スクリプトを読むだけでは映像の醍醐味は汲み尽くせない。
(註 6)《The Anti-Museum: An Anti-Documentary》スクリプトより。


(fig.1)《育まれる展覧会》展示風景 | 2021 | フィル・ニブロックによる6つの楽曲、福岡正信自然農園の土・甘夏の苗、木
の台座、スピーカー、木のプランター、アクリルケース、水、太陽光
Photo credit: ©Nacása & Partners Inc. / Courtesy of Fondation d'entreprise Hermès


中島水緒
1979年東京都生まれ。美術批評。展覧会レビューや書評などを執筆。主なテキストに、「鏡の国のモランディ──1950年代以降の作品を「反転」の操作から読む」(『引込線 2017』、引込線実行委員会、2017)、「前衛・政治・身体──未来派とイタリア・ファシズムのスポーツ戦略」(『政治の展覧会:世界大戦と前衛芸術』、EOS ART BOOKS、2020)など。
WEB:http://nakajimamio.sakura.ne.jp


マチュウ・コプランによる展覧会「エキシビジョン・カッティングス」銀座メゾンエルメス フォーラム 8 階
2021 年 4 月 23 日~7 月 31 日
(臨時休館:4 月 25 日~5 月 15 日、5 月 23 日~6 月 1 日、7 月 19 日) https://www.hermes.com/jp/ja/story/maison-ginza/forum/210423/


レビューとレポート第29号(2021年10月)