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軽く、明るく、瑞々しく、音が流れ、軌跡に生まれる——梅津庸一「ポリネーター」の意味空間 勝俣涼

音を運ぶ開口部

 三層のフロアには、どこか覚束ないピアノのフレーズが、そのリズムを時々崩しながら流れ続けている。この練習曲のメロディが展覧会の全体に膜を張るように、絵画、ドローイング、映像、陶にわたる、そして初期から近作までの幅広い作品群が、相互的な参照関係へと導かれる。植物の個体から個体へと花粉を運び、受粉させる、ミツバチのような動物の働きが比喩的な効果をもたらすのは、この作品同士を相関的に読ませる作用においてであるように感じられた。つまりピアノの聴覚的なパターンが、本展においてまさしく「ポリネーター」(送粉者)として振る舞っている。演奏者の指の運びが構成する和音的なスケールと同調するように、空間を全体的に活用し展示された作品群が、鑑賞経験を通じて比較される。
 本展を語る上で、この空間的な展開がまず着目されて良いだろう。メインフロアである二階から四階にかけて耳に入ってくるピアノのメロディは、三階に展示されている映像作品《春に向けてのエクササイズ》(2014)から流れている。通常、音声を伴う作品にはヘッドホンが備えられるか、他の作品に干渉しない程度に音量が調整される。本作は、大きなスクリーンに投影される映画的なタイプの作品でもない(タブレット型の小さなモニタに出力される)が、にもかかわらず、その音がおそらくは意図的に、上下階でも聴取されるまで増幅されている。

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《春に向けてのエクササイズ》(2014)
Photo by Fuyumi Murata

 加えて、この音の浸透が可能になっているのは、本展の空間自体、すなわちワタリウム美術館の建築的な造りによってでもある。三フロア間は「穴」によって連続し、音の通り道を形成しているのだ。スラブのない梁の間が吹き抜けとなって二階と四階を貫き、そしてこの垂直軸と平行するエレベーターシャフトに沿って、二階と三階に面するスリット状の開口部がある。これらの開口部を通じて、三階から流出した音は二階へ、さらには吹き抜けを通じて上昇し、四階の展示室まで流れ込むと同時に、吹き抜け上部に設けられた大きな窓によって屋外へも分岐することが示唆される。吹き抜け部分の壁面は黄一色に塗られることで連続性を強調し、作品が縦横に展開している。そしてその四階部分では、壁に刻まれた「光に降る花粉」の文字、外光を導き入れる窓、闇に浮かぶ灯火が印象的な絵画《霊魂》(2010)のそれぞれが、意味的に媒介される。

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2階のエレベーターシャフト(中央円筒)と吹き抜け部分
Photo by Fuyumi Murata

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画面左《霊魂》(2010)、画面右は2階の吹き抜けへつながるスリット
Photo by Fuyumi Murata


 つまり本展は、展示空間の構造を明らかに踏まえたインスタレーションと見なすことができる(註1)。そしてもう一つ、これに関連して確認しておきたいのは、「物語」的な構成である。つまり、個々の作品やセクションはバラバラに独立したものではなく、ある一貫性(筋)によって結びつけられているように見える。館のオーナー自身、「メリハリが付いたワタリウム美術館のスペースではストーリー性のある展示を行うことが可能となる」と述べているが、マリオ・ボッタの設計による同館のユニークな建築の特性が生かされているとも言えるだろう(註2)。では具体的に、この一貫性を支えるファクターは何か。第一に、既述した音の聴覚的な浸透によるものである。第二に、その音源を含むセクションが「第17話、血液、太陽いっぱい」と題され、展示を物語のように結節していること。そして第三に、複数の作品を貫く形象——たとえば「穴」にまつわる比喩形象が随所に配されている点が挙げられる。


穴と粒

 この「穴」については、まずすでに述べたように、美術館の建築自体が特徴的な開口部を備えている。音をまとった空気を行き渡らせる、あの機能的な部分のほか、建物の外観に目を向ければ、外階段のスリットや、屋上の円筒形の構造物に列をなすドット、そしてファサードに設けられた大窓がある。それらに呼応するように、梅津の作品群にも「穴」そして、あとで詳述するように、その読み替えとも理解できる大小の円や粒子、突起状の集合体に至るまで、この比喩形象が際立っている。ポリネーターが媒介する「花粉」=生殖細胞の粒子が、空間に遍在する。花粉は遠く離れた場所まで運ばれるだろうが、この移動のイメージは、メインフロアに対して飛び地のように設えられた地下一階の一角(ここにも展示がある)によって担われている。

ワタリウム外観02_2

ワタリウム美術館正面
画像提供:ワタリウム美術館


 なによりも本展の第一セクションは「多孔質の夢」と名付けられている。このフロアを構成するのは、油彩画、メタルポイントによる作品、ドローイング、近年の陶作品まで、メディアはさまざまだ。これらがおしなべて「孔(=穴)」の系列に連ねられるには、ある「読み」の回路を通らなくてはならない。このセクションにおいて文字通り、即物的に穴が穿たれているのは「花粉漉し器」のシリーズに限られている。一つないし二つの、複数の穴を穿たれた円盤が、棒状の部分と組み合わされて直立する「花粉漉し器」は、本展の随所に挿入されている。まるでその「穴」が、《フロレアル》(2004-2007)をはじめとする油彩画の点描や、ドローイングに集積する円形や塵状の泡沫、陶によるヤシに体現された集合的な突起と対応するかのように。この照応すなわち、「穴」(欠如)と「粒」(充実)を一致させる修辞的な操作を介して、連想的な「多孔質」の空間が展開されているのだ。


解放的な過剰さ

 簡潔に言うなら、ここには穴=粒の「過剰さ」がある。だがこの過剰さは、たとえば草間彌生のソフト・スカルプチュアがもたらすような強迫とは結びつかない。それに類似したモノクロームのテクスチュアをもつ、《フロレアル-汚い光に混じった大きな花粉-》(2012-2014)を構成するスタンドの突起さえ、ヤシと形態上のアナロジーを結ぶことでそのおぞましさは抑制される。
 突起状のものはまた、ドローイングに多用される形象でもある。たとえば《LIQUID NIGHT》(2005)。樹状突起のような先端をシンメトリカルに分岐させる有機的なフォルムの下に、二人の女性が向かい合うように立つ。その輪郭に沿って、薄い膜を張るように途切れ途切れの点線が引かれ、二人を接触の手前にとどめる。周囲には、星のような放射体、そして液状の雫。この雫は人物の衣類の端、頭上に成長する分枝からも連続するように零れ落ち、夜露の光る画面全体を溶け出すガラスのようにする。緊張を感じさせないインクの実線と点線は、繊細で軽やかだ。おおよそ対称的な構図や額縁のような縁取りの効果もあり、装飾性が高まる。さらに、タイトルを構成する二語を漢字に置き換えた「液」と「夜」の文字が左右に配されており、梅津がこの二文字の視覚的な類似に反応していることがわかる。つまり、文字の筆記もまた、ドローイングの要素に連なっているのだ。こうした文字の挿入は、多くのドローイングに見られる。
 本作において突起物が象徴するような、増殖性のフォルムの存在にもかかわらず、トータルの画面には、先述した描写の数々がもたらす瑞々しさや透明感、また上部を中心として余白が周到に配されていることもあり、反復強迫的な緊張はない。むしろここには、浮遊する軽さ、そして官能があるだろう。複数の人物が(ここでは「液」と「夜」の擬人化であるように)導入されることで、どこか寓話的なテイストも備わっている。

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《LIQUID NIGHT》(2005) 編集部撮影

制度批評

 この一例から、さまざまな結び目を見出すことができる。だがその意義をより明快なものとするために、やや迂回して、梅津の批評的な態度に目配りしておこう。梅津は《フロレアル》や《フロレアル-汚い光に混じった大きな花粉-》において、ラファエル・コランの《花月(フロレアル)》(1886)を、また(本展には出品されていないが)《智・感・情・A》(2012-2014)においては黒田清輝の《智・感・情》(1899)を引用し、裸婦を自らの裸体に置き換えて描いている。多くの論者によって解説されるように、そしてまた梅津自身の制度批評的なスタンスが示すように、これらは日本の美術における「近代化のログ」を、そしてこの国で受験教育を通過し絵を描く自らの来歴を刻印する作業だった。フランス本国では大家と見なされているとは言い難い、アカデミズムと印象派を折衷したコランのスタイルは、彼に学んだ黒田清輝らによって日本に移植されることとなった(註3)。

 梅津によればこの、アカデミズムにもモダニズムにも純化されないキメラ的な歪さが、以降の日本における美術、さらには現在の美術予備校における教育にも流れ込んでいる。そして歪んだルーツをもつ受験教育というこの「ログ」を「恥部」として忘却を促す、美大における指導傾向が存在するという。それに対して、こうしたログを否認するのではなく、隠さないこと(註4)。梅津の批評基準はここに立脚するものであり、近年ではたとえば、自身が監修した『美術手帖』2020年12月号(特集:絵画の見かた)に掲載されたテキストにおいて、「フラジャイル・モダン」と彼が呼ぶ一群の絵画、すなわち「モダニズムのかけら」を表現上の手札として活用する一方で、「近代の美術史からの連続性を意図的に切断している」作品を批判する理路にも反映している(註5)。
 こうした歪な近代化にフォーカスし、日本の美術史を差別化するパラダイムは、美術批評家の椹木野衣が示す歴史観、というよりも西欧が経験したような大文字の「歴史」の「欠落」によって規定される「日本・現代・美術」の非-歴史観に連なるものだ。椹木によれば、日本の近代を徴づける西欧化と、その悪循環としての第二次大戦後における占領が、この国における生、ひいては美術なるものの条件を構成している。そしてこの「悪い場所」と彼が呼称する外圧的な性格を忘却するときに、「モダニズムの大衆化と、捏造された偽の世界同時性」を支えとして、西欧と同等の「日本現代美術」なる同一性が偽装される(註6)。
 椹木によれば、避けがたい「悪い場所」の徴によって「日本」を規定することは、けっして「「日本」の絶対化ではない」のであり、この条件を忘却し「黙認」するのではなく「認識」することで、むしろそうした絶対化を免れるのだという(註7)。しかしこの「認識」の徹底は、仮にその「スキゾフレニック」な非-歴史観を受け入れるとしても、「悪い場所」とは「別の」あり方へ向けてフィードバックする反省ではなく、内省的な確認のナイーブな自己肯定へと横滑りし、「黙認」と表裏一体の固定化=絶対化へと逢着する危うさも孕んでいるだろう。とりわけ、グローバルな規模であらゆるトピックに対峙せざるをえない現在、「世界同時性」をいかなる形であれ語ることがタブー視されるなら、それはたとえ望まずとも、狭隘な同調圧力に接近しかねない。


結び目を発見する

 梅津が「悪い場所」論の孕む宿命主義的な力学と危うい関係にあることは、新藤淳によって指摘されていた。だが新藤はそのあとで、その閉止性が打開される展望を、梅津が主宰するプロジェクト「パープルーム」の実践に見出している——「受粉」という言葉によって指し示される、予測不能かつ思いがけない「交わり」に注目することで(註8)。話を戻すなら、本展に際立つのもこのような「思いがけない交わり」であるように思えるのだ。ただし、言うまでもなく本展は梅津の「個展」であり、そうした「交わり」は梅津自身の作品間において結ばれている。
 既述の通り、本展は音や物語性によってある一貫性を備えている。だがこの一貫性は予定調和的なものというより、その脈絡はまさしく「思いがけない」接ぎ木によって成り立っている。第二セクションを包括する「第17話、血液、太陽いっぱい」は、文脈的には唐突な印象を与えるが(突然挿入される「第17話」)、実は第一セクションを構成するドローイングのうちの一点のタイトルでもあり、なぜそれが選ばれたのか、決定的な根拠は定まらぬままにフロア間を架橋する役割を果たしている。穴=粒のアナロジーについてもすでに触れたが、ここでさらに踏み込むなら、こうした「交わり」の発見の過程で、「近代化のログ」の指標としてのコランや黒田に言及していた作品群が、別の文脈へと書き換えられているのだ。《フロレアル》の点描は多孔質のイメージと交わる。そして梅津が《智・感・情》の裸婦の一人を類推させるポーズで左右に反復運動を繰り返す《メトロノーム》(2014)は、音の通り道(吹き抜けの高い位置)に設置されることで、練習曲のメロディと交わる。


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画面左下 《フロレアル-汚い光に混じった大きな花粉-》(2012-2014)
画面上 《メトロノーム》(2014)と4階へつながるスリット
Photo by Fuyumi Murata

 《LIQUID NIGHT》の「液」と「夜」が接合される瞬間のように、「ポリネーター」の空間では、作品から作品へと、新たな結び目が生成される。星野太は「ごく恣意的に見いだされた二者、三者のあいだに連想を加え、それらの結びつきをあたかも必然的なものであるかのごとく「説明」」する方法を、梅津が「歴史」を扱う身振りに見出している(註9)。本展ではその手法が、自作のキュラトリアルな再構成へ適用されたと理解できるだろう。

軽く、明るく、瑞々しく

 ではこうした「交わり」の操作は、何に向かって方向づけられているのだろうか。あるいは、そのアナロジカルな連想の運動を駆動させる意味的なコアは何か。それは第一に、重力——それは強い磁場をもつ「場所」が強いるものでもあったのだが——から逃れるような軽さであり、第二に、明るさを含んだ瑞々しい質ではないだろうか。
 第一の点に関して、本稿では《LIQUID NIGHT》を一例に、強迫性とは異質な浮遊感を看取したが、上空から地上を俯瞰したような構図のドローイング群は、より直接的にこうした反重力性を示している。それらの中には、等高線のようなものや文字が書き込まれ、地図を思わせるものもある。真珠湾攻撃で戦死した大叔父にまつわる、戦闘機の描かれたドローイングもいくつか並ぶ。《Pearl Harbor attack!!》(2006)のような作品には、飛翔する飛行機とともに生殖細胞が遊泳し、「Fly to the sky」「トラトラトラ 恋はいつも」といったポピュラーソングの歌詞のような一節が軽快に記されている。宙と海を圧縮するレトリックでもあり、どこかリリカルでロマン的な要素も感じるが、本展の構成においては梅津の個人史や「日本」のログを「認識」するための指標というよりも、「花粉」というライトモチーフのアクセントとなるだろう。

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第2セクション(3階)「第17話、血液、太陽いっぱい」 ドローイング群 
Photo by Fuyumi Murata

 第二の点については、まず印象派の絵画について一般に指摘されるように、梅津の点描技法もまた、画面を精彩で明るいものにしている。あるいはすでに述べたように、吹き抜けを活用した外光の強調や、光に照り返る雫のイメージがある。液状のモチーフは《LIQUID NIGHT》以外の作品にも好んで描かれるが、そもそも着彩されたドローイングの多くは薄く溶かれた絵具によって、透明で文字通り「リキッド」な質を備えている。
 そしてこれに連なるのが、陶による作品群だろう。眠るように横たわっていたり、フェンスにもたれたり、寄り添っていたりするヤシの造形には豊かなバリエーションがあり、絵画やドローイングにも通じる寓意的な関心が示されている。そして圧巻なのは、およそ140点にもなる陶作品が構成するインスタレーション《黄昏の街》(2019-2021)だ。穴=粒の「過剰さ」に劣らず、植物のようなものや動物のようなもの、巣のようなもの、遊び場のようなもの、碑のようなもの、道具のようなもの、そのいずれでもあるような形態のさまざまがひしめいている。潤沢にかけられた釉薬がマーブル状の肌理をつくり、混ざり合い、あるいは重なって、色を斑にする。溶いた絵具のように「リキッド」なそれは、滴り落ちて窪みや基礎部分に溜まり、ガラス質の層となって時にひび割れる。この透明感と光沢は、《LIQUID NIGHT》の官能性にも通じるだろう。

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《黄昏の街》(2019-2021)
Photo by Fuyumi Murata


具体的な空間

 本稿では梅津の作品群を、「軽さ」「明るさ」「瑞々しさ」といった感性論的なニュアンスにフォーカスして読解してきた。しかしだからといって、梅津が美術をめぐる歴史的・制度的な諸問題や批評を手放したのだと言いたいわけではない。だが少なくとも本展に限って言えば、空間と(必ずしも言語的でない)修辞が駆使されることで作品から作品へと意味が連鎖し、記述的=説明的な言葉によることなく思いがけない筋が編み出されて、視覚的ないし物質的な過剰さが意味づけがたい深淵へと転じないように押しとどめられていた。身も蓋もない言い方をすれば、キュレーションが奏功しているということでもある。では軽快で眩く、瑞々しい質が空間を満たすことで、何が意図され、主張されているのかと問われるなら、答えに窮するというのが筆者の正直なところだと言うほかない。答えがあるのかも不確かである。確かに感じられるのはただ、姿の見えない運び手の軌跡にイメージが次々と触発され、意味的に支えあう、具体的な空間だ。



(註1)中島水緒は、梅津がキュレーションした展覧会「フル・フロンタル 裸のサーキュレイター」(2020)を評したテキストの中で、同展の会場構成が空間的な循環構造への意識を示すものであった点を指摘している。また、百貨店併設のギャラリーで行われた同展の循環構造が、消費を促す百貨店の同様に循環=回遊的な空間設計に対して、生産的な「解釈」を促すものであると分析している。この観点からいえば、今回の「ポリネーター」展は、こうした空間的な構成への関心をさらに展開させたものと見なせるだろう。(次を参照。中島水緒「小さな独立国家に風は吹くか——梅津庸一キュレーション展「フル・フロンタル 裸のサーキュレイター」レポート」みそにこみおでん編『レビューとレポート』、https://note.com/misonikomi_oden/n/n31fff4fbfe95、2021年10月20日閲覧。)
(註2)和多利志津子・和多利恵津子・和多利浩一『夢みる美術館計画 ワタリウム美術館の仕事術』日東書院、2012年、28頁。
(註3)現在ポーラ美術館では、コランの《眠り》(1892)と黒田の《野辺》(1907)を並列展示する企画展「ラファエル・コランと黒田清輝—120年目の邂逅」が開催されている。(https://www.polamuseum.or.jp/exhibition/20210417c02/
(註4)次の各論を参照。荒木慎也「美術予備校とヴィジュアル系」梅津庸一編著『ラムからマトン』、アートダイバー、2015年。梅津庸一「優等生の蒙古斑」、同前。新藤淳「鏡とアザと花粉と——梅津庸一と美術史の亡霊たち」、同前。筒井宏樹「梅津庸一論——アップデートする「美術」=フェティシズムの空間」、同前。星野太「無数の筆触が「私」を構成する——梅津庸一の作品(2005-2015)」、同前。
(註5)梅津庸一「台頭する日本画の正統とフラジャイル・モダン第二世代——京都絵画シーンをめぐって」『美術手帖』2020年12月号、美術出版社、2020年、103頁。
(註6)椹木野衣『日本・現代・美術』新潮社、1998年、53頁。
(註7)同上、52頁。
(註8)新藤淳「鏡とアザと花粉と——梅津庸一と美術史の亡霊たち」、上掲。
(註9)星野太「無数の筆触が「私」を構成する——梅津庸一の作品(2005-2015)」、上掲、64頁。


勝俣涼
1990年生まれ。美術批評、表象文化論。主なテキストに、「ジョン・バルデッサリの修辞学」(『引込線2015』、引込線実行委員会、2015)「近さと遠さの文法――利部志穂「サンライズサーファー」展」(『美術手帖』2016年3月号、美術出版社、2016)、「運動-刷新の芸術実践──エル・リシツキーとスターリニズム」(『政治の展覧会:世界大戦と前衛芸術』、EOS ART BOOKS、2020)など。
https://note.com/ryo_katsumata/

レビューとレポート第30号(2021年11月)