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さまようプライベート・アイ――不在証明(アリバイ)としての展覧会 「ライアン・ガンダーが選ぶ収蔵品展」レポート 中島水緒

 4月19日、初台にある東京オペラシティ アートギャラリーで、イギリス人アーティストのライアン・ガンダーによるキュレーション展「ライアン・ガンダーが選ぶ収蔵品展」が開幕した。当初、同館ではガンダーの個展を開催する予定だったが、コロナ禍で来日が不可能となったため、もともと個展と一緒に企画されていたキュレーション展を全館で行うことになったのだ。
 コロナ禍でロックダウン中のイギリスでは、作品の輸送はもちろん、スタジオに自由に出向いて制作することもままならない状況が続いている。イギリスから遠く離れた日本での個展を中止・延期にするのはやむを得ない判断だろう。だが、「それでもショーはやりたい」というガンダーの前向きな提案により、アートギャラリー所蔵の寺田コレクションを活用した本展が全面的に展開される運びとなった。それが、「色を想像する」「ストーリーはいつも不完全……」と名付けられた二つの展覧会だ(fig.1)。


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(fig.1)「ストーリーはいつも不完全……」展示風景1


 イギリスを代表するコンセプチュアル・アーティストのガンダーと、難波田龍起らの作品を軸に形成された寺田コレクション。もともとこの組み合わせ自体に必然性があったわけではない。コレクションの創設者・寺田小太郎(1927-2018)の存在と、彼が長年かけて収集した日本人作家の美術作品のほとんどを、ガンダーはこれまで知らなかったはずだ。しかし、東京オペラシティアートギャラリー シニア・キュレーターで本展キュレーターの野村しのぶによれば、両者には共通点も見受けられるという。たとえば、日常の見逃しがちな物事を拾い上げる眼差し。見出したものをユーモアを交えて鑑賞者に提示する手つき。加えて、寺田が美術史上の評価に惑わされず、自分が好きと思えるコレクションにこだわりつづけたコレクターであったことも忘れてはならない。アウトプットの方法は異なれど、自分の評価軸を信じて物事を突き詰める姿勢において、ガンダーと寺田で似ているのではないかと野村は指摘する。

 展覧会は4Fと3Fの二つのフロアで異なるコンセプトをもつ。3Fの「ストーリーはいつも不完全……」では、展示室内の照明は薄暗く保たれており、鑑賞者は懐中電灯をもって作品を鑑賞する。相笠昌義、奥山民枝、野又穫、二川幸夫によるお馴染みの寺田コレクションの作品が、照明を抑制したひそやかな環境下でいつもと異なる相貌を見せている。一風変わっているのは、床面に「THE SEARCH 探索」「THE GAZE 注視」などの単語がプリントされており、展示室ごとに「見る」という行為の複数のアプローチが示唆されていることだ(fig.2)(fig.3)。


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(fig.2)「ストーリーはいつも不完全……」展示風景2

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(fig.3)「ストーリーはいつも不完全……」床面


 4Fの「色を想像する」。このフロアでは、寺田小太郎が収集の核にしていた「ブラック&ホワイト」というコンセプトに呼応して、モノクロームの作品だけが集められた。たとえば李禹煥、白髪一雄、村上友晴、蓜島伸彦、時松はるな、ホアン・ミロなど。作品同士を密集させる数段掛けの展示はサロン空間をイメージしてつくられた。作品が展示されているのは片側の壁面のみだが、反対側の壁を見ると呼応する作品と同じ寸法の黒枠があり、その枠の片隅に作品情報(タイトル、サイズ、制作年など)が記されている(fig.4)(fig.5)(fig.6)。


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(fig.4)「色を想像する」展示風景1


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(fig.5)「色を想像する」展示風景2


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(fig.6)「色を想像する」展示風景3


 それぞれ趣向を凝らした二つのフロアだが、どちらの展示も、美術館で普段当たり前に行われている「見る」という行為に再考を促すものだ。

 もっとも「ストーリーはいつも不完全……」において、展示環境を暗くするという決断はすぐには下せなかったようだ。ガンダーと野村はこの件に関して慎重に話し合いを重ねたという。鑑賞者の安全面を配慮できているのか、このような環境下で作品が見られることを出品作家は望んでいないのではないか、作家へのリスペクトを欠いた展示環境になってしまうのではないか。また、2017年にはギャラリー内を真っ暗にした「ブラックボックス」展で鑑賞者の女性が痴漢被害に遭うという事件が起きてしまった経緯もある。展示室を暗くする試みを選ぶなら、安全面のみならず倫理的な問題にも向き合うべき、というのが美術館からのサジェスチョンだった。
 そこで、展示室は最低限の照度をキープした薄闇に調節されることになった。また、展示の導入部にあたる出入口については少しだけ照明を明るめにし、鑑賞者の目が慣れるよう照度に段階をもうけた。実際、展示室内は不安感を引き起こすほどの暗さはなく、懐中電灯で照らさずとも、周囲の様子が判別できるくらいには照度が保たれていた。闇のもつ暗示力やコンセプトの徹底度は減じたかもしれないが、結果として、闇のなかの鑑賞体験をアトラクションやエンタメに極化してしまう危険性を回避できたのではないか。

 ところで美術館とは、作品を展覧する活動を通じて鑑賞者を啓蒙する制度的空間である。啓蒙(enlightenment)という言葉が「光で照らされる」という原義をもつように、美術館における活動は何よりもまず「光」を必要とする。端的にその役割を担うのは照明である。美術館には、適切な照明のもとで作品を観賞できる環境を設計する責務があるのだ。
 こうした美術館の基本理念を別の角度から問い直すように、「ストーリーはいつも不完全……」の展示があえて薄闇の鑑賞環境に挑んだことは興味深い。薄闇のなかで、不完全な視覚像でしかあらわれない美術作品を見ることは、制度が押し付ける「啓蒙」から逸脱する体験に思えるからだ。絵画や彫刻作品を懐中電灯のスポットで照らし見る行為は、はたして「鑑賞」の条件を十全に満たすのか。作品の全体を捉え、隅々まで観察し、そこで表現されていることをあますことなく汲み上げることが「理想的で生産的な鑑賞」なのだとしたら、鑑賞者が気ままに見たい箇所だけに光を当てて作品を見ることは、「気散じ的で消費的な鑑賞」に相当するのだろうか。いや、もしかしたら「消費的な鑑賞」にすら満たないものなのではないか? 展示室を巡りながら数々の問いが浮かぶ。
 美術館は「見ること」を啓蒙する場だが、丁寧な解説をつけたりギャラリートークなどの教育活動を積極的に行ったりしたところで、作品をまともに見ようとしない人間は一定数存在する。「見えないこと」とセットの「見ること」を提供するほうが、よほど「見ること」に対するリフレクティブな効果が期待できるかもしれない。ある意味で本展は、「気散じ的」で「消費的」な鑑賞のその先を内省させるポテンシャルを持っていたわけだが、その深度に届くか否かは鑑賞者次第であり、ハードルの高い設定だったとも言えるだろう。

 懐中電灯による鑑賞は予想していたほど劇的な効果を生み出すわけではなく、室内はむしろ控え目なトーンに浸されていたが、普段と異なる面妖な表情をのぞかせた作品や、変わらぬクオリティを見せつけた作品を再発見できたのは思わぬ収穫だった。
 赤塚祐二《Canary 89405》(1994)や小林俊介《01-05(間_揺らぎ)》(2001)のような大画面のモノクローム抽象絵画はスポットで全体を照らしきれないぶん、絵画性がいつもより希薄に感じられ、むしろ鑑賞者の前に立ちはだかる塗り壁のような重厚感を増している。オールオーバーネスを奪われた抽象絵画ははたして「絵」なのだろうか。部分を注視するといよいよ何を見ているのかわからなくなる(fig.7)(fig.8)。


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(fig.7)赤塚祐二《Canary 89405》(1994)(右)、小林俊介《01-05(間_揺らぎ)》(2001)(左)


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(fig.8)小林俊介《01-05(間_揺らぎ)》部分



 榎倉康二《干渉(STORY-No.45)》(1992)。お馴染みの「しみ」が懐中電灯のスポット効果と相乗していつもより明るく見える。色味の見え方の変化ゆえか、数十年前の古さを払拭した別作品のようだ。重鎮作家の「威光」が一時的に剥奪された画面はまるでヌードのように無防備である(fig.9)。


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(fig.9)榎倉康二《干渉(STORY-No.45)》(1992)


懐中電灯で見ると色層の重なりの粗さが気になってしまう作品も散見されたが、そのなかでも伊庭靖子の《無題》(2004)は、マティエールの隙のないつくりこみを感じさせるものだった。圧倒的な技量だ(fig.10)。

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(fig.10)伊庭靖子《無題》(2004)


 薄闇のなかで懐中電灯を手に展示室をうろついていると、夜間の美術館を見巡る警備員にでもなったかのような気分になってくる。お好みならば、作品を盗みに忍び込んだ怪盗X、もしくはガンダーに挑戦状を叩きつけられて謎解きに挑む探偵の目になって、作品をなめまわすように見ていくのも一興だろう。
 ここで、展覧会概要に登場する「プライベート・アイ・コレクション」という言葉に注目したい。多くの人にとって「プライベート・コレクション」ならぬ「プライベート・アイ・コレクション」という言葉は聞き慣れない用語だろう。試しにネットで検索しても、「私立探偵」を意味する「プライベート・アイ」という言葉くらいしかヒットしない。ちなみになぜ私立探偵のことを「プライベート・アイ」と呼ぶのかというと、19世紀のアメリカで活躍した私立探偵にしてスパイのアラン・ピンカートンという人物が事務所のレターヘッドに大きな目(eye)の意匠を用いたことに由来するようだ。どんな犯罪者も「すべてをお見通し」である敏腕探偵ピンカートンの目からは逃れられないというわけだ(註1)。
 もちろん、「プライベート・アイ・コレクション」という言葉自体は私立探偵とは何の関係もない。用語の意味については野村が興味深い解説をしてくれた。個人コレクターのコレクションが公立の機関に寄贈されることではじめて「プライベート・コレクション」が「プライベート・アイ・コレクション」になる。つまり、個人の目で作品が選ばれたことを強調するために「アイ(eye)」が挿入されるというのだ。
 いささか言葉遊び的な連想になるが、ここではあえて、寺田の「プライベート・アイ(個人コレクターの目)」に「プライベート・アイ(私立探偵の目)」を重ね読みしてみたい。というのも、闇のなかで作品をみる体験は「探索的」であり、同時に「推奨される正規の鑑賞態度からズレた独自路線」を追求するという意味で、組織に属さない“私立”探偵の目を想像させるところがあるからだ。やはりここには「啓蒙」の大義とは異なる私秘的な欲望の力学が働いているのである。
 その意味では、いっそのこと、本展はいっさい撮影禁止にし、「インスタ映え」に回収できない鑑賞体験をとことん追求してもよかったのではないか。展覧会に寄せたテキストのなかでガンダーは次のように書く。
「時間をかけて、あなた自身の探検家になれ。ゆっくり行け。」(註2)


 今回のキュレーション展は急遽企画されたものであったため、準備期間はわずか3か月ほどしかなかった。そうした制約のなか、ガンダーは寺田コレクションから出品作品を選び、野村とZoomによる打ち合わせを日々重ねながら、設営の進捗状況の報告とヴィジョンの共有を何度もフィードバックして展覧会をつくりあげてきた。多くの苦労が想像されるが、第三者の目から見たときに、このような「リモート」による展覧会づくりにまったく疑問を感じないわけではない。まず、ガンダーが実見していない作品や会場を使用することの危うさ。リモートの打ち合わせを中心に企画を運ぶことへの懸念。また、アーティストがキュレーターとしてひとつの展覧会を組み立てることは、展覧会が「コレクション展」よりもむしろアーティストの「作品」に近づくという搾取的・収奪的な意味合いも少なからず帯びる。
 実際、「色を想像する」も「ストーリーはいつも不完全……」も、ガンダーのコンセプチュアルなアイデアが前面に出た展示となっていた。「色を想像する」に到っては、個々の作品がコンセプトを構成するためのピースと化していたふしさえ見受けられる。「誰がこの作品をつくった」という作家性はさして問題ではなく、むしろ作品というピースが無名性のなかに埋没して全体のモノクロの抑揚をつくることが大事なのだというふうに。「色を想像する」の展示はサロンを意識したというが、さまざまなモノクロの階調で埋め尽くされた壁面は、何かしらの規則に基づいてガンダーがしるした記譜(スコア)にさえ見える。
 では、本展はライアン・ガンダーが遠く離れた場所から「操作的」につくりあげた、疑似的な「ライアン・ガンダー個展」とみなしたほうが適切なのだろうか?
 答えはYESとNOの中間だろう。ここでポイントとなるのは、リモートという制約によって、アーティストが「強い主体」として覆いかぶさるタイプの展覧会とは一線を画したものになったことだ。ほどよく調整された薄闇の展示室などを見ても、ガンダーのコンセプトは本人が望むほどには徹底できなかったと推測できる。展覧会としては「不完全」、だからこそ、二つのコレクション展はガンダーの「不在」を逆説的に証明する展覧会となったのではないか。真っ暗闇ならぬ薄闇の展示室には、ライアン・ガンダーの薄く引き伸ばされた「弱い主体」、遠く離れたイギリスにいるガンダーの目が、「不在」の気配とともに浮遊していたのではないか……。そんな奇妙な想像を逞しくせずにはいられない。
 「不在」と言えば、4Fの「色を想像する」の片側の壁面に記された黒枠は、絵画の実体に対する「抜け殻」のようだ。こうした仕掛けもまた、「不在」を証明する道具立てのひとつなのかもしれない。また、何も展示されていないコリドールが白い壁を空虚に浮き立たせていたのも印象的だった(fig.11)。ただし、黒枠の抜け殻感と違って、この空虚さは操作的につくられる類のものではない。コリドールの白壁にはさすがのガンダーの目も届かなかったのではないか。


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(fig.11)コリドールの白壁


 本稿では「ライアン・ガンダーが選ぶ収蔵品展」の二つのキュレーション展のうち「ストーリーはいつも不完全……」のほうに重点を置いて報告(レポート)してきた。「現場からは以上です」ということで、このあたりで筆をおきたい。


 最後にまとめを。「ストーリーはいつも不完全……」と「色を想像する」は対の関係性にあり、どちらも「欠落」から「見る力」を駆動させる共通の狙いがあるのだろうが、二つの展覧会がどうしても分離した見え方になってしまうのがやや残念な点である。展覧会の可否は、①現地に来られない代わりにキュレーション展を、というエクスキューズつきの「不在証明(アリバイ)」が(思惑通りにいかなかった部分も含めて)どこまで成功しているか、②「見る」ことを再考させるはずのコンセプトが焦点をぼやけさせてはいないか(結局作品を見せたいのか、コンセプトを優先したいのか)、③本展における「何に注意を向けるか」という問題提起がSNS的な価値尺度への挑戦足りえているか(じつはSNS的な文化との「共犯」なのか?)――といった点にかかってくるだろう。
 ともあれ、多くの制約を抱えながら単なるコレクション展ではない企画展を短期間で組織したことには大きな意義がある。4月25日から三度目の緊急事態宣言が発令され、この文章を書いている5月上旬現在、多くの文化施設が休館・休業を強いられている。東京オペラシティ アートギャラリーも例外ではない。いまや都心の夜は「20時以降のネオンを消灯せよ」という政府の要請によって経済活動を規制され、「灯火管制」と非難を受けるような中途半端な暗さに覆われてしまった。これは、「ストーリーはいつも不完全……」が折衝の末につくりだした薄闇とはまったく質の違うものだ。
 美術は光の側にあると盲目的に信じてはならない。同時に、現実の闇に安易に同調し、そのうつし絵となることに甘んじてもならない。肝要なのは、誰もが誰にも明け渡さないプライベートなアイを持ち、啓蒙を押し付けてくる光と自己の輪郭を侵食してくる闇の質の双方を見極めることである。美術がつくりだす闇はそのための目を養う機会となるはずだ。少しでも現況がよくなることを信じ、ふたたび美術館が再開する日を待ちたい。


(註1)「プライベート・アイ」の用語については以下を参照。
https://eow.alc.co.jp/search?q=private%20eye
アラン・ピンカートンについてはWikipediaに解説がある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%94%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%B3


(註2)展覧会のハンドアウトより。今回の展覧会のためにガンダーは長文のテキストを寄せている。あらゆる写真がSNS映えする広告画像と化してしまう今日的な状況への批判的姿勢は、ガンダーの以下の一文にもあらわれているだろう。「私たち一人ひとりが、何に注意を向けるかという自由を握っていることについて考えると、かつてアメリカの作家で研究者のジェームズ・ウィリアムズに尋ねられた質問を思い出す。「もし、あと5日しか生きられないとしたら、ソーシャル・メディアにその5日を費やすか?」注目を集めるために争う世界では、私たちが光を当てるものこそ最大のアセット(資産)かもしれない。」

トップ画像:小山穂太郎《Cavern》

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「ストーリーはいつも不完全……」「色を想像する」 ライアン・ガンダーが選ぶ収蔵品展
東京オペラシティ アートギャラリー
2021年4月17日~6月20日
https://www.operacity.jp/ag/exh239/

新型コロナウイルス感染症の感染予防・拡散防止にかかる東京都からの要請により5月~現在休館中。開館については公式WEBサイト・SNSでの告知を確認してください。
https://www.operacity.jp/topics/detail.php?id=693

[追記 2021年5月31日]
6月1日より再開、6月24日まで会期を延長します。予約制ではありません。詳細はWEBをご覧ください。
https://www.operacity.jp/topics/detail.php?id=698

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中島水緒
1979年東京都生まれ。美術批評。展覧会レビューや書評などを執筆。主なテキストに、「鏡の国のモランディ──1950年代以降の作品を「反転」の操作から読む」(『引込線 2017』、引込線実行委員会、2017)、「前衛・政治・身体──未来派とイタリア・ファシズムのスポーツ戦略」(『政治の展覧会:世界大戦と前衛芸術』、EOS ART BOOKS、2020)など。
WEB:http://nakajimamio.sakura.ne.jp

撮影:平間貴大

レビューとレポート第24号(2021年5月)