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得体の知れない、無名の三人の歴史を振り返る――『天地耕作(あまつちこうさく)初源への道行き』展示レポート


「私は浜松の駅前で生まれ育ちましたが、天地耕作のことを何一つ知りませんでした。本当に私のアンテナに引っ掛からなかった。どうしてなんだろう?とここ暫く考えてまいりました」


展覧会のオープニング・セレモニーで、静岡県立美術館館長でもある近代美術史研究者、木下直之は、上記のような、些か異例と感じさせるスピーチで『天地耕作』を紹介した。

『天地耕作』のメンバーである村上誠は、それを受けて、以下のように代表挨拶の冒頭で述べた。


「皆様、まずもって、この得体の知れない無名の三人のグループに興味を持って頂いたことに感謝します」


村上は柔和な笑顔と、腰が低いと言っても良い控えめな態度を崩さず挨拶を続けたが、『天地耕作』の作品群と記録写真は、そんな彼の雰囲気からは想像し難い、きわめて厳かな緊張感を醸していた。

取材に入ったプレスとして同じ場に居合わせた筆者には、それら対照的な要素の集まった状態そのものが、『天地耕作』というプロジェクトと、プロジェクトの歴史を包括的に振り返る展覧会『天地耕作 初源への道行き』全体の不思議な魅力につながっているように思えた。




 2月10日から3月27日まで静岡県静岡市の静岡県立美術館で開催されている『天地耕作 初源への道行き』は、旧引佐群(現浜松市)出身のアーティスト、村上誠、渡の兄弟と山本裕司の三人によって1988年から2003年まで継続した、特異な個性を持った野外アートの協働制作プロジェクト『天地耕作』の全体像をはじめて包括的に振り返り、さらに未完となっていた野外作品のプランも初めて展示する大規模な回顧展である。


静岡県立美術館敷地に設置された看板。周囲にはさまざまな常設彫刻が設置されている。


天地耕作は、街中を離れた野外を主なフィールドに、木や縄、石や土などの自然物を素材として、大がかりな作品を制作しました。彼らは伝統芸能や遺跡などを、民俗学者や考古学者のように(あるいは彼らの言葉によれば蟻のように)フィールドワークし、生や死といった根源的なテーマに迫りました。しかしながら、時間をかけて築かれた、それらの耕作物(作品)は、公開時期やアクセスが限られていたため、現場を目撃した人は多くありません。

3名は1985年に出会い、やがてグループ展へ揃って出品するようになる。1988年から天地耕作が開始され、彼らの所有する地所や、採石場跡地など、野外で制作、発表を行った。また、1991年からは野外作品にパフォーマンスが伴うようになる。オーストラリア、フィンランドからも招へいされ、現地で制作、発表した(1992年、1997年)。

展覧会フライヤーより)


上記のように紹介される『天地耕作』は、展示の主催に名を連ねる静岡新聞社・静岡放送が1989年の発表開始から地元メディアとして継続的に制作を紹介してきた(展示会場でも当時の放送が映像として流されている)ものの、何度か海外に招へいされた機会以外は、プロジェクトを停止するまで殆ど全ての作品発表をギャラリーや美術館ではなく、自らの居住する旧引佐群の農地や採石場、川、湖、丘、森林、メンバーが仕事上で関係のあった社会福祉施設の敷地など、一般の鑑賞者が訪れるのは難しい場所で行ってきたため、これまでローカルなコミュニティ外まで広くその存在を知られることはなかった。
そんなプロジェクトに興味を抱き、『天地耕作 初源への道行き』を実現に導いたのは、7年前に鹿児島の美術館から移ってきた学芸員、植松篤の尽力によるもので、彼の徹底したリサーチの成果と献身的な姿勢を本展では随所に見ることができる。
筆者は『レビューとレポート』から派遣され、2月9日午後に行われたオープニング・セレモニーと内覧会に参加し、会場を案内していた『天地耕作』のメンバーや学芸員の植松にも短時間だが話を聞くことができた。残りの会期は長くないが、静岡まで足を運ぶことができなかった読者や後世への記録として、セレモニーと展示会場、裏山の野外作品群の様子を以下に配布資料と記録写真、キャプションを用いて報告したい。


静岡県立美術館入り口。内覧会の日は休館だった。







レセプション――いま、ようやく自身が『天地耕作』に追いついた(静岡県立美術館館長、木下直之)


レセプション会場。美術館入り口ホールを使って行われた。


2月9日のレセプションでは主催者側として、静岡県立美術館から館長の木下直之、静岡新聞社・静岡放送から代表取締役社長の大須賀紳晃が、そして来賓代表として『天地耕作』の村上誠がそれぞれ短い挨拶を行った。

大須賀は静岡新聞社と静岡放送が、地元メディアとしてこれまで継続的に『天地耕作』の活動を報じてきたことや、土や泥、自然木、石などのメディウムによって作られる彼らの作品の魅力、そして、絵画や彫刻と違って維持の難しいそれらが記録として紹介される意義について簡潔に語り、来賓の作家代表として村上は静岡新聞社や静岡県立美術館、関係各位への謝辞と、展示全体の構成と作品を順々に解説した。


レセプションの様子。挨拶に立つ静岡新聞社・静岡放送代表取締役社長の大須賀紳晃。


レセプションの様子。挨拶に立つ『天地耕作』の村上誠。柔和で腰が低く、作品のイメージとはかけ離れた雰囲気だった。


館長である木下直之の挨拶は2人と比較してかなり踏み込んだもので、驚かされた。冒頭でも「恥ずかしながら、天地耕作について、これまで私は全く存じ上げなかった。本当に私のアンテナに引っ掛からなかった。どうしてなのだろう?とここ暫く考えてまいりました」との言葉を紹介したが、村上誠と同い年で、かつ同じ浜松出身の木下は、『天地耕作』が活動を開始した80年代に兵庫県立近代美術館の学芸員を務めていたにも関わらず、企画を決める前段階として行われる研究会で本展担当学芸員の植松篤による発表を聞くまで、『天地耕作』の名前を聞いたことすらなかったという。
著名な近代日本美術史研究者である木下が、自身と同郷の作家であり、かつ、木下自身が90年代以降「消えゆくもの」として強い関心を持ってきたと挨拶中でも触れた「お祭りや、その祭りの中で作られたさまざまな造形表現」を直接作品に取り込んできた『天地耕作』を全く知らなかったというのは、本人ならず、聞き手としても「どうしてなのだろう?」と多少、奇妙には思える。


レセプションの様子。挨拶に立つ静岡県立美術館館長の木下直之。


その点に関して、木下は、
「私が勤めていた兵庫県立近代美術館に限らず、70年代以降、各地に「近代」と名が付く美術館が誕生しますが、その近代美術とは近代の日本の美術ではなく、近代美術=モダンアートのことを指します。それらはある意味、国境を超え、普遍的なもので世界をカバーしようとする。対して村上さん兄弟や山本さんたちがやってきたことは、浜松の北のように特定の土地に拠点を置いて、その土地土地の文化に目を向けていった。我々は真逆の、対極の世界に身を置いていたのだなと感じる」と語った。
木下は、いまようやく自身が『天地耕作』に追いついたのだと言葉を継いで挨拶を締め括った。


レセプションの様子。挨拶に立つ『天地耕作』の村上誠。


レセプションの様子。来賓席。
左から村上誠、村上渡、山本裕司。三人は『天地耕作』のメンバー。


レセプション、テープカットの様子。



内覧会——作家と会場を回る


レセプション後、内覧会に向かう参加者。


レセプションが終わると、美術館館長、担当学芸員、作家、来賓、筆者含めたプレスや招待客が参加する内覧会が行われた。
レセプションには地元の美術関係者や作家の知人友人が多く参加していたようで、展示作品を解説して歩く『天地耕作』の三人や館長、学芸員の周りではずっと挨拶やプレスによる質問の声が絶えず、ローカルな人脈の交流も盛んな、にぎやかな場に。東京の公立美術館が催す内覧会ではあまり見ない光景だった。


レセプション後、内覧会に向かう参加者。
内覧会の様子。中央には作品を解説する『天地耕作』の山本裕司。


内覧会の様子。作品を解説する『天地耕作』の村上誠。ほぼ全ての作品撮影を担当した。アーカイブ全体のイメージとして、彼の写真が決定的に重要な役割を果たしている。



会場風景——会場入り口~天地耕作 壱 1988-1989


『天地耕作 初源への道行き』。会場入り口から奥を写す。


『天地耕作 初源への道行き』はプロジェクトの歴史に沿ってアーカイブがセクションに区切られる構成になっており、初期の『天地耕作 壱』から、本展示のために再開され、裏山に設置された野外作品の制作過程を記録した「天地耕作 七』までに分かれている。各セクションには担当学芸員の植松による丹念なリサーチが反映された解説パネルが付けられ、通路の年譜にはこれも同様に、非常に詳細なプロジェクトの歴史を紹介するパネルが掲示されていた。


『天地耕作 初源への道行き』。各セクションに設置された解説パネル。
『天地耕作 初源への道行き』。通路に設置されたプロジェクトの詳細な年譜記録。


加えて、天井からは『白蓋』という、奥三河の祭りで使う天蓋の飾りからインスピレーションを得た立体作品を三つ吊り下げるインスタレーションが展示され、写真と資料のアーカイブに実作を加える工夫が成されていた。

『天地耕作 壱』は、グループが結成された1988年から初めて作品を発表した1989年の記録と資料が展示されている。
会場入り口付近には静岡放送が当時放送した取材風景(レセプションのスピーチで木下や大須賀が言及していた映像)を流し、壁面にはプロジェクト全般の撮影を継続して担当した村上誠が撮影した耕作放棄地や竹藪、農地で流木、泥、丸太、縄、竹などの素材を使って作られた巨大な立体作品/インスタレーションの写真(※)を拡大出力している。

(※)会場に展示された拡大出力の殆どを撮影したのは写真作品にも取り組んでいた『天地耕作』のメンバー、村上誠である。フライヤーに採用されているヴィジュアルも含めて、維持するのが難しい作品群をとらえた彼の写真の力は飛びぬけており、プロジェクトのイメージを決定付けているように感じる。撮影者が彼でなければ、『天地耕作』の印象は全く違うものになっていたのではないだろうか。


『天地耕作 初源への道行き』。会場入り口横の作品写真。崖に綱が張り渡されている作品で、プロジェクトのその他の作品全てがそうであるように、公開後、撤去された。



『天地耕作 初源への道行き』会場風景。左:静岡放送による1989年2月16日の紹介映像『森の中の芸術家』。右:『天地耕作 壱』。村上誠は静岡放送のインタビューに「街の人たちとは違って、僕たちは山の中で好きなことをやらせてもらってますから」と答えており、制作姿勢は初期から一貫していることが分かる。



『天地耕作 初源への道行き』会場風景。『天地耕作 壱 1988-1989』のセクション。



『天地耕作 初源への道行き』会場風景。『天地耕作 壱 1988-1989』のセクション。アーカイブは基本的に台紙上に大判出力のプリントが貼られた状態で展示されていた。



『天地耕作 初源への道行き』会場風景。『天地耕作 壱 1988-1989』のセクション。村上誠による制作ノート、エッセイ、過去の出版物などの貴重な資料も展示されている。



『天地耕作 初源への道行き』会場風景。『天地耕作 壱 1988-1989』のセクション。
『天地耕作 初源への道行き』会場風景。『天地耕作 壱 1988-1989』のセクション。



会場風景——インスタレーション、白蓋(びゃっけ)


『天地耕作 初源への道行き』会場風景。展示にあわせて制作されたインスタレーション『白蓋』。床に落ちる影が印象的だ。


先述したように、会場の通路には天井から吊り下げられた三つの立体から成るインスタレーション『白蓋』が展示されている(作品の詳細は下のパネル写真を参照)。
遠州奥三河に伝わる伝統芸能『花祭り』に使われる紙製の天蓋からインスピレーションを得たもので、麻縄で編んだ構造体の周りに、女性の体をモチーフにした切り紙細工や美術全集を簾状に細く切ったものが吊り下げられている。今後そうした構想があるのか分からないが、実際の祭りではこの天蓋の下で神事の舞が行われるというから、屋外でのパフォーマンスを伴った形態を見てみたいと思わせた。


『天地耕作 初源への道行き』会場風景。展示にあわせて制作されたインスタレーション『白蓋』。三つのうちの一つは赤い切紙細工が鮮烈な印象を残す。



黒い白蓋は山本が美術全集を加工したもの



『天地耕作 初源への道行き』会場風景。展示にあわせて制作されたインスタレーション『白蓋』。部分。女性の裸身をモチーフにした切紙細工が吊り下げられている。



『天地耕作 初源への道行き』会場風景。展示にあわせて制作されたインスタレーション『白蓋』。背景の展示は『天地耕作 参 1994』。
『天地耕作 初源への道行き』会場風景。展示にあわせて制作されたインスタレーション『白蓋』。部分。


インスタレーション『白蓋』。解説キャプション。



会場風景——天地耕作以前


『天地耕作 初源への道行き』会場風景。『天地耕作以前』のセクション。


『天地耕作 壱』の次には、村上誠、渡の兄弟と山本裕司がプロジェクトを開始する前の、個別の活動を紹介している。静岡大学で美術を学んだ山本と、美術の専門教育を受けていなかった村上兄弟を結びつけたのは、当時静岡大学で教鞭を執っていた美術家の白井嘉尚で、それ以降三人は県内の自主企画展『A-Value』へ出品(1988~90)するなど、川俣正の『袋井駅前プロジェクト』(1988)に共同参加するなど、『天地耕作』を開始する契機について、記録写真や資料が展示されている。


『天地耕作 初源への道行き』会場風景。『天地耕作以前』のセクション。三人が複数回出品していた、静岡県立美術館県民ギャラリーを使った展示『A-Value』の様子。第一回展で吉増剛造の講演を聞いたことが、川俣正のプロジェクト参加と共に『天地耕作』を始めるきっかけとなった。


『天地耕作 初源への道行き』会場風景。『天地耕作以前』のセクション。


『天地耕作 初源への道行き』会場風景。『天地耕作以前』のセクション。『A-Value』第二回展では美術館の裏山が展示会場に選ばれていた。



『天地耕作 初源への道行き』会場風景。『天地耕作以前』のセクション。展示資料。



会場風景——湖東中学


『天地耕作』としては例外的な、公的施設(中学校)での展示紹介。関東甲信越静地区造形教育研究大会に併せて既存のシリーズを展開させた作品が制作、発表された。



会場風景——天地耕作 弍 1991 台風襲来、音遊戯


『天地耕作 初源への道行き』会場風景。『天地耕作 弍 1991 台風襲来、音遊戯』のセクション。

『天地耕作  弍』は1991年6月から10月にかけて制作された。場所は旧引佐町の採石場跡地が選ばれ、プロジェクト史上もっとも大規模な作品群が野外に展開した。途中で台風の襲来もあり、土地の水没が起きたが、三人はその現象こそが自然との関係において作品を完成させる要素と判断した。
また、この時期から作品を舞台にしたパフォーマンスも伴うようになり、パフォーマンス・アーティストの浜田剛爾が自作の発表を行った他、別日程で、音楽家の森口紋太郎と『天地耕作』の三人がコラボレーションしたパフォーマンス『音遊戯』が行われた。



『天地耕作 初源への道行き』会場風景。『天地耕作 弍 1991 台風襲来、音遊戯』のセクション。分割で撮影された写真が作品のスケールを伝える。



『天地耕作 初源への道行き』会場風景。『天地耕作 弍 1991 台風襲来、音遊戯』のセクション。奥には『白蓋』が吊り下げられている。



『天地耕作 初源への道行き』会場風景。『天地耕作 弍 1991 台風襲来、音遊戯』のセクション。この時期から作品を「舞台」にしたパフォーマンスが伴うようになる。音楽家の森口紋太郎と『天地耕作』の三人がコラボレーションした『音遊戯』では作品に火が放たれ、破壊を伴ったパフォーマンスが行われた。



『天地耕作 初源への道行き』会場風景。『天地耕作 弍 1991 台風襲来、音遊戯』のセクション。村上誠、渡作品『産土-その二』。後景の構築物は、アフリカのドゴン族や縄文時代のウッドサークルをモチーフにしている。手前の構築物は、『始原の家』とも名づけられた。



会場風景——天地耕作 参 1994


『天地耕作 初源への道行き』会場風景。『天地耕作 参 1994』のセクション。


前回から二年ほど経過した後に再開された『天地耕作  参』の舞台は、村上渡が勤めていた旧浜北市姥ヶ谷にある社会福祉施設『若樹学園』(現 支援センターわかぎ)だった。この場所では自然の地形は利用できず、重機を入れてグラウンドを掘り返すなど地形に手を加えたという。
この時期を境に三人の作品概念に対する姿勢には変化が生じ、制作から解体までの時間、人的交流の全てを「作品」と捉えるようになり、同時に当初予定されていた公開日が一日(最終的には一週間)だったことなど、作品を展示し、「見せる」という近代的な在り方にも疑問を呈すようになる。関係者に制作の状況を伝えていた『耕作だより』もこの時期に最終号を迎えた。



『天地耕作 初源への道行き』会場風景。『天地耕作 参 1994』のセクション。構図と発色が目を引くカラー写真の印象が鮮烈だ。



『天地耕作 初源への道行き』会場風景。『天地耕作 参 1994』のセクション。園生も含めた5,60名ほどを前に『身体遊戯』と名付けられたパフォーマンスが行われた。身体表現や音だけではなく、構造物に火を放つなど、作品の破壊が伴った。



『天地耕作 初源への道行き』会場風景。『天地耕作 参 1994』のセクション。手前には『白蓋』のうち一つが吊り下げられている。



会場風景——天地耕作 海外 1992、天地耕作 四 1997


『天地耕作 初源への道行き』会場風景。『天地耕作 海外 1992、天地耕作 四 1997』のセクション。

『天地耕作』は制作発表の殆どを静岡県内で行ったが、海外招へいの機会も二度経験している。最初の機会はオーストラリアのパース市立現代美術館での展覧会『見えない彫刻―日本からのアイデア』に参加し、当地のスワン川でインスタレーションを制作し、その記録を美術館に展示した。二度目は1997年6月から8月にかけて、フィンランドのオリベシ市郊外のテル湖、ラハティ市郊外のヴェシ湖で滞在制作とパフォーマンス(フィンランド国立美術アカデミー学長でパフォーマーでもあるイルカ・ユハニ・タカローエスコラも参加)を行った。



会場風景——天地耕作 五 1997-1999


『天地耕作 初源への道行き』会場風景。『天地耕作 五 1997-1999』のセクション。
『天地耕作 初源への道行き』会場風景。『天地耕作 五 1997-1999』のセクション。


97年から99年にかけては再び三人の私有地や周辺に戻って制作が行われた。山本の作品では大規模な造作は行われず、舞踏家の森繁哉を招へいしたパフォーマンスを重視した。作品の公開は限定的なものになり、村上作品を舞台に森と村上兄弟が行ったものは限られた関係者のみ、山本作品を舞台としたものに至っては関係者にも知らせず森と三人(パフォーマーは森と山本)だけで行われたという。『天地耕作 参』から続く展示という形態への疑義、「見せない」度合いがさらに強まった。



『天地耕作 初源への道行き』会場風景。『天地耕作 五 1997-1999』のセクション。各年代のフライヤーや資料など。



インタビュー——天地耕作のユニークさ(静岡県立美術館上席学芸員、植松篤)


静岡県立美術館上席学芸員、植松篤。『天地耕作 初源への道行き』は植松による徹底したリサーチの成果が目を引く展覧会でもある。

本展を企画した静岡県立美術館上席学芸員の植松篤に、内覧会のタイミングで短時間だけインタビューすることができた。
植松は7年ほど前に鹿児島の美術館から静岡県立美術館へ移ってきたが、同時期2019年に静岡市美術館が開いた小規模な静岡における80年代美術のアーカイブ展「Shizubi Project 7 アーカイヴ/1980年代―静岡」(他の展覧会等と共に『天地耕作 壱』にあたる部分が紹介された)でその存在を知り、彼らの作品が持つ理念的な部分に加え、プロジェクト・ベースの制作という、地域にとっては希少な歴史をきちんと残しておかなければと思ったのだという。
その後、他の地域作家や美術運動の調査と平行しつつ三年かけて細かくリサーチを行い、館内での研究発表を経た上で今回の展覧会開催へとこぎつけた。おりしも三人が地域住民としてかつて協働した川俣正の 『袋井駅前プロジェクト1988』が美術館の収蔵品(1994年度収蔵)であることや、地元の作家であること、また美術館の作品収集方針として設けられた『風景』という基準に、作品の外観や野外制作という面から合致していたのも実現を後押しした。

植松氏によれば、『天地耕作』はロバート・スミッソンなどに代表されるランドアートや「もの派」等の影響を受けて作品を展開しているのではなく、館内へ展示されている『白蓋』がそうであるように、地域の祭りや信仰、民話、習俗などを丹念にリサーチし、それらから引き出した要素で制作するのが特徴だという。村上渡はニュー・ペインティングの影響を受けた作品から制作活動をスタートさせており、川俣正の『袋井駅前プロジェクト』へ三人揃って参加したことがプロジェクト開始の一つのきっかけにもなっているが、活動の方向性としてはアートのトレンドや動向から遠ざかろうとしていた。
今回、その全貌が明らかになることで、プロジェクトへの評価が新しく広がる期待をもっているとのこと。

(※)『天地耕作  初源への道行き』は、同時開催されている『静岡の現代美術と1980年代』とあわせて構想された。美術館にとって『天地耕作』は、静岡における美術活動の展開の中に位置付けられる、地域の作家としても重要だという。



静岡県立美術館上席学芸員、植松篤氏。『天地耕作 五 1997-1999』のセクション。



会場風景——天地耕作 六 2003、天地耕作 七 2023-2024


『天地耕作 初源への道行き』会場風景。『天地耕作 六 2003』『天地耕作 七 2023-2024』の展示パネル。
『天地耕作 初源への道行き』会場風景。『天地耕作 六 2003』『天地耕作 七 2023-2024』の展示パネル。


『天地耕作 六』は、尾野正晴の企画により静岡文化芸術大学のギャラリーで開催された記録展示『天地耕作、まで』にあわせて制作された。2003年のこの制作と展示を最後に『天地耕作』はプロジェクトとしての活動を停止する。村上誠と渡は共同制作をせず、また村上渡、山本裕司の作品は非公開となって彼らだけに閉じられたものになった。「見せる」美術からはますます遠ざかってパフォーマンスに力点が置かれると共に、「生と死」という初期から続いてきた共通のテーマからも三人は離れ、『天地耕作』の活動に終止符が打たれた。

『天地耕作 七』では、その終止符から20年を経て再集合した三人が、静岡県立美術館裏山を舞台に、山本も加えた三人での初めての協働制作を行った。元々のプランは2003年に村上誠が考案したもので、地形の変化に合わせた調整や山本の参加で内容には変化が生じている。
協働を通して、三人は『天地耕作』の活動を改めて振り返る機会を得たという。本展『天地耕作 初源への道行き』は、1988年から2003年にかけて、近代的な美術制度から外れる「見せない」という方向に進んで終焉を迎えた『天地耕作』というプロジェクトを、美術館という制度の中で再度、世に紹介するという奇妙さを持つものでもある。




『天地耕作 初源への道行き』会場風景。会場の最後に設置されたパフォーマンスの映像記録『身体遊戯』(2003)



再結集——天地耕作 七 2023-2024


『天地耕作 初源への道行き』会場風景。美術館裏庭には20年ぶりに制作が再開された立体が設置された。


先述してきたように、本展『天地耕作 初源への道行き』では、2003年に村上誠が起案し、宙に浮いていたプランを20年ぶりに『天地耕作』の三人が協働して完成させた作品が美術館の裏山に展示されている。館内での展示は記録写真と資料のアーカイブ展示のみのため、作品を目にしたことがないであろう多くの観客にとって、彼らが実際に作り上げた造形物を目にする貴重な機会となる。
急というほどではないものの、落ち葉に足をとられて歩きにくい斜面上に分かたれて構築された立体群は、上方を山本、下方を村上誠、渡が制作を担当し、遊歩道から見上げる構図と斜面を登った先から見下ろす構図の印象がまるで違うものになるが、造形性を視覚的なイメージとして鑑賞するというよりは、歩き回って体感する視線や心身の変化(呼吸の乱れ、木々、土のにおいの差など)を意識する方がより重要な要素だろう。

内覧会の日は組み上げられた形態を維持しているが、山本裕司によれば、会期終了目前の3月24日(日)夕方から行われるパフォーマンス『遊芸』にて、かつてのように様々な破壊を行うという。


『天地耕作 初源への道行き』会場風景。美術館裏庭に設置された野外作品前のパネル。



『天地耕作 初源への道行き』会場風景。美術館裏庭に設置された野外作品。村上誠、渡の兄弟が担当。



『天地耕作 初源への道行き』会場風景。美術館裏庭の野外作品前で熱弁をふるう『天地耕作』の山本裕司。



『天地耕作 初源への道行き』会場風景。美術館裏庭の野外作品と来客、解説する山本裕司。



『天地耕作 初源への道行き』会場風景。美術館裏庭の野外作品。山本裕司が担当した部分。枝や樹木が有機的に組み合わされている。



『天地耕作 初源への道行き』会場風景。美術館裏庭の野外作品。山本裕司が担当した部分。積もった落ち葉に足をとられて、見た目以上に歩き回るのに体力を使う。



『天地耕作 初源への道行き』会場風景。美術館裏庭の野外作品。山本裕司が担当した部分。別角度から。



『天地耕作 初源への道行き』会場風景。美術館裏庭の野外作品。村上誠、渡の兄弟による担当部分。



『天地耕作 初源への道行き』会場風景。美術館裏庭の野外作品。村上誠、渡の兄弟による担当部分。



『天地耕作 初源への道行き』会場風景。美術館裏庭の野外作品。道路側から作品の設置された丘を見上げる。



協働のきっかけ——川俣正『袋井駅前プロジェクト 1988』


『静岡の現代美術と1980年代』展示風景。
川俣正『袋井駅前プロジェクト 1988』のマケットと資料。


静岡県立美術館では、『天地耕作 初源への道行き』とほぼ同時期(2/10~4/7)に、コレクション展として『静岡の現代美術と1980年代』が開催されている。
上掲した学芸員の植松氏へのインタビューでも語られるように、『天地耕作』の回顧展が決定した背景には、美術館の収蔵作品に川俣正の『袋井駅前プロジェクト 1988』があることも理由の一つだという。
今や圧倒的なポピュラリティを持つ川俣作品の形式だが、『袋井駅前プロジェクト』へ三人が参加したことが『天地耕作』の始まるきっかけの一つになったという経緯や回顧展自体の内容を踏まえてマケットと記録写真を見ると、制度の中にしっかりと組み込まれているその作品からもまた、これまでとは違った印象が芽生えてくるのではないだろうか。


『静岡の現代美術と1980年代』展示風景。川俣正『袋井駅前プロジェクト 1988』のレリーフ。


『静岡の現代美術と1980年代』展示風景。
川俣正『袋井駅前プロジェクト 1988』の記録写真。



『静岡の現代美術と1980年代』展示風景。『天地耕作』の三人も参加した静岡県立美術館県民ギャラリーを使った展示『A-Value』(出品は1988~1990)の記録写真、資料など。



『静岡の現代美術と1980年代』展示風景。川俣正『袋井駅前プロジェクト 1988』のマケット。




天地耕作 初源への道行き
会場 静岡県立美術館
会期 2024年2月10日(土)~ 3月27日(水)
時間 10:00 ~ 17:30(展示室の入室は17:00まで)
休館日 毎週月曜日

https://spmoa.shizuoka.shizuoka.jp/exhibition/detail/97




取材・撮影・執筆:東間 嶺 
美術家、非正規労働者、施設管理者。
1982年東京生まれ。多摩美術大学大学院在学中に小説を書き始めたが、2011年の震災を機に、イメージと言葉の融合的表現を思考/志向しはじめ、以降シャシン(Photo)とヒヒョー(Critic)とショーセツ(Novel)のmelting pot的な表現を探求/制作している。2012年4月、WEB批評空間『エン-ソフ/En-Soph』を立ち上げ、以後、編集管理人。2021年3月、町田の外れにアーティスト・ラン・スペース『ナミイタ-Nami Ita』をオープンし、ディレクター/管理人。2021年9月、「引込線│Hikikomisen Platform」立ち上げメンバー。


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