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編集の手さばきと時代の無意識・遂行された小池一子展  オルタナティブ! 小池一子展アートとデザインのやわらかな運動レビュー 永瀬恭一

1.はじめに

3331 Arts Chiyodaにおいて、2022年1月22日から3月21日の会期で「オルタナティブ! 小池一子展 アートとデザインのやわらかな運動」は開催された。本展は先行する2020年、群馬県立近代美術館での「佐賀町エキジビット・スペース 1983–2000-現代美術の定点観測-」展(以後、「佐賀町エキジビット・スペース」展)【註1】を踏まえて見ると、意義がより明快になる。結論からいえば、キャプションや資料説明を絞って過度に“分かる人には分かる”内容となった「佐賀町エキジビット・スペース」展に対し、今回の「オルタナティブ! 小池一子展」は、一般的に理解可能な展示となっていた。

小池一子は1959年から編集、翻訳、コピーライティングや展覧会キュレーションといった活動を展開し、1983年から2000年まで本格的なオルタナティブ・アートスペースとなった佐賀町エキジビット・スペースを主催した。戦後高度成長から90年代までの日本経済の頂点期に小池がなした仕事は、アートにおける領域横断性や「ウーマンパワー」の導入まで、幅広く現在の潮流の胚芽となっている。日本の文化的インフラの敷設者の一人とも言える。小池の活動の検討は、現在からさらに将来を構想する上で参照項となり得るもので、私は群馬県立近代美術館の回顧展開催が発表されると同時に期待した。

しかし、前述のように、群馬での展示は奇妙にも資料的検討を回避していた。私は問題点を指摘し補完する目的で当「レビューとレポート」上に「佐賀町エキジビット・スペース展を準備せよ」を書いた。今回の「オルタナティブ! 小池一子展」は常識的な資料中心の展覧会となっており、カタログこそ作られていないものの、展示物に丁寧なキャプションが施された。関係者のインタビューも会場で流され、年表も相応な内容が掲示されていた。

したがって、当時の小池の活動や佐賀町エキジビット・スペースを知らない世代が見ても意味内容が伝わると推測できる。加えて本展会場の下のフロアでは、関連展示として立花文穂によるインスタレーションと内藤礼による作品の発表が行われた。特に立花文穂作品については、小池の活動の下部構造、もう少し踏み込んでいえば時代の「無意識」が感じ取れるものであり、興味深い。以下では二部(「中間子」と「佐賀町」)で構成されている本展に加えて立花文穂作品を特に取り上げ、意義を検討する。


2.「中間子」

「中間子」について、webサイトでは以下の説明がある。

「中間子」とは、日本初のノーベル賞受賞の主題に着想し、何かと何かを結びつけて新しい価値を生むという小池の仕事の象徴として選んだ言葉です。デザインやアート、そのものではないが創作に関わる共作を"見える化"する意図を込め、クリエイティビティ溢れる活動をアーカイブ資料を中心に展観します。【註2】


「中間子」エリア(展示室1) 提供:3331 Arts Chiyoda


「中間子」は「編集/執筆の仕事」「翻訳の仕事」「コピーライトの仕事」「各キュレーションの仕事」(展示室1)、「無印良品」(展示室2)からなる。書籍、雑誌、ポスター、パンフレットといった印刷物資料が壁面と展示ケースに収められ、個別の仕事の由来から小池の果たした役割、ときには周囲のデザイナーやアーティストとのエピソードまで解説される。「無印良品」については一室を特権的にあててポスター展示を主にしている。

キャリア初期から中期に小池は雑誌の中の企画、あるいは広告のコピーライティングのような部分の仕事を請け負っている。感じ取れるのは、いわば「チーム」としての仕事の、作家個人の作品制作とは異なるプロジェクト性だ。成長過程にある日本経済の勢いに乗って、広告は戦争直後からは考えられないような前衛性を持ち始める──というよりも、60年代中頃から展開するサブカルチャーや商品が、ロシア構成主義やシュルレアリスムなどアバンギャルド芸術の成果を自在に応用し取り込んでいく様子が見られる【註3】。

1959年、アド・センターに入社し編集者となった小池が『平凡』の連載「ウィークリー・ファッション」を手掛けた(展示ケースに当時の雑誌等が置かれている)ことは、この展覧会、ひるがえって小池の活動全般を通じて重要なことのように思われる。小池は多彩な仕事を手掛けるが、その手法、あるいは手さばきが一貫して編集的だ。広告の企画から無印良品の立ち上げ、美術展のキュレーションに至るまでエディターシップは揺るぎない。インタビュー映像で自分は作家ではなかった、というような語りをするとき、それが消極的に見えないのは、どんな仕事=編集も状況、或いは先行者に対する批評として成立していたからではなかったか【註4】。

「中間子」全体でファッションの仕事の比重が大きいことを記憶しておこう。「現代衣服の源流」展(京都国立近代美術館、1975年)では小池はグラフィック、広告、空間デザインにわたるコーディネーションを行うが、ここから三宅一生の本『East Meets West』(1978年、平凡社)に繋がっていくのもまた、小池の編集者としての能力の適切な発揮の結果と言えるだろう。また、ファッションと繋がる形で(「佐賀町エキジビット・スペース」展のポスターに掲げられた言葉を使えば)「ウーマンパワー」の横溢も見逃せない。1989年の西武美術館「フリーダ・カーロ展」などの仕事もそうだが、先に東京都現代美術館で大規模な回顧展のあった石岡瑛子【註5】や山口はるみといったクリエイターとの協働は、今より遥かに男性中心主義的であったろう環境の中で、現代のフェミニズムにも通じる道を切り開いている【註6】。

キャプションにも改めて注目しよう。西武美術館で1979年に小池が企画した「マッキントッシュのデザイン展」ポスターの解説には、出品されたマッキントッシュの家具がオリジナルではなく、カッシーナによるコピーであった点に批判があったことが書き込まれている。これに対し小池がアンディ・ウォーホルを挙げて応答しているというエピソードが、切り返しとして適切であったか疑問なしとはしないが、「批判があった」という出来事を落とさずにいる点は、小池の自信のあらわれなのだろう。

「中間子」エリア(展示室1) 提供:3331 Arts Chiyoda


私が注目したのは小池が早稲田大学で劇団「自由舞台」に所属していた事実だ。川本三郎が「「都市」の中の作家たち」で「都市はいま生活の場というよりはさまざまな記号・象徴の交差しあう抽象的な空間としてあらわれているのである」と書き【註7】、また浅田彰が(批判的に)「都市は劇場である」といった言説を取り上げた【註8】時代があった。小池における演劇経験はその仕事を、都市が「さまざまな記号・象徴の交差しあう抽象的な空間」、つまり舞台として機能するよう導いたのではないか。あるいは、その主体は西武やPARCOといった企業だったのかもしれないが、ここで小池はモダンな個人的・主体的「芸術家」とは異なるプレーヤーとしての「中間子」になっていったのかもしれない。


3.佐賀町

プロジェクト的チームの一員としてあった小池一子は、佐賀町エキジビット・スペースを主宰していく時に明確に「個」としての自身のコンセプトを掲げつつ、手法としての「編集」を行使していったように見える。「佐賀町」エリアについてもwebサイトを参照する。

1983年に日本初のオルタナティブ・スペースとして東京・永代橋際に誕生した「佐賀町エキジビット・スペース」は国内外を問わず今活躍する現代美術家の孵化器といわれ、2000年の閉廊までに106の展覧会やパフォーマンスなどの表現活動を実現しました。同スペースで展覧会を行った作家による、当時の貴重な作品を多数展示します。【註9】

「佐賀町エキジビット・スペース」展で、ホワイトキューブとは異なる佐賀町エキジビット・スペースから引き剥がされた作品群の魅力がうまく伝わっていなかった、その欠点を本展「佐賀町」エリアは補っている。広い空間に点々と、言い方は悪いが中古車展示場のように作品を配した「佐賀町エキジビット・スペース」展に対し、本展「佐賀町」エリアは仮設壁を立て会場を区切り、順回路を線上に、つまり物語的に構成し、各展示物にこれまた必要なキャプションを付して、作品の当時の意義や展覧会がどのような由来を持っていたかを説明している。「佐賀町」エリア入り口に、佐賀町エキジビット・スペースをイメージさせるアーチ状の壁を立てたことも当時のムードを再現している。


「佐賀町」エリア 提供:3331 Arts Chiyoda


また、「佐賀町」エリア入ってすぐの空間には中心に什器がおかれ、「佐賀町エキジビット・スペース」展とは逆に佐賀町で作られたパンフレットやDM、書籍、ポスターなどが、まず目に入る形になっている。これら個々の資料に対する説明は十分とは言えないが(もう少し補っても良かっただろう)【註10】、それでもいきなり作品だけを差し出すよりは、当時のイメージは掴みやすい。規格は統一されず、展覧会ごとに一から考えられた印刷物は多種多様であり、ここでも小池の編集技術は生かされている。むしろ、作家の選択や組み合わせのインスピレーションは、「編集」をアーティストに対して行使する小池固有の手法だったのだと推測できる。

資料展示の周囲に吉澤美香や大竹伸朗の平面作品が配されている、それが順路中頃から徐々に立体作品に置き換わっていく。「佐賀町エキジビット・スペース」展と共通していた出品作品を見ると、本展との「置かれ方」の違いはわかりやすい。駒形克哉《無題》は、木材や布などを用いて作られた小さな家状の立体に小鳥の剥製が置かれている。コバルトブルーで着彩されたオブジェクトは、明らかにナラティブ的構造を持っている。多摩美術大学芸術学科を卒業した年に作られた《無題》は、後にイタリア留学を経験しアルテ・ポーヴェラなども吸収していく作家の先行きを暗示しているとも言える。広い空間に他作品と並列的に置かれていた「佐賀町エキジビット・スペース」展とは異なり、立てられた壁際に(誇張した言い方をすれば「すみっこ」に)置かれた《無題》は、内包する物語性をうまく引き出されている。

白井美穂・浜田優《雪の目録》は、1993年に佐賀町エキジビット・スペースで行われた詩人と美術家47人による展示の再出品だが、いわば文学と美術の「領域交差」、小池の特徴的なキュレーションが見てとれる。白井はキャリアを通じて文学に対する感度の高い作家といっていい。《雪の目録》でガラス戸と言葉を交わらせた作品は、後の越後妻有トリエンナーレ出品作《西洋料理店 山猫軒》(2000年)に連なっていくだろう。私は先の「佐賀町エキジビット・スペース展を準備せよ」で、佐賀町エキジビット・スペースが「当時の藤枝晃雄に代表されるフォーマリズム美術批評からは基本的に乖離していた」と書いたが、まさにそのような試みが行われていたことが理解できる。

大竹伸朗《BLDG.(ダイジェスト版、DVD BOOK「NOTES 1985-1987」他より)》(2019年)は、大竹が1979年に初訪問した香港以来の各地の光景を8mmで撮影した映像を編集・デジタル変換したものだが、一部に佐賀町エキジビット・スペースがあった永代橋周辺の風景と佐賀町エキジビット・スペース自体が映り込む。本作は個室が会場内にしつらえられそこで周囲から切り離されて見られることで、いわば佐賀町エキジビット・スペースを思い出す場所となっている。ここで思い出された(あるいは当時を知らない観客からすれば「イメージ」された)佐賀町エキジビット・スペースを、現在の会場にレイヤードしながら、作品は継起的に、次々立ち現れることになる。

大竹伸朗《BLDG.(ダイジェスト版、DVD BOOK「NOTES 1985-1987」他より)》もそうであるし、またヨルク・ガイスマール《領収書にドローイング》(1991年)もそうなのだが、けしてすべての作品が佐賀町で展示されたものの再出品ではないことも、本展ではポジティブに見える。このような柔軟性は、本展が回顧だけでなく「その後」を見据えているように感じられるし、また会場外で武蔵野美術大学での小池の教え子たちによるファッションやデザインなどの商品を、小池の著書と並べて販売している「アーカイブティック」(アーカイブ+ブティック)が設置されているのも、本展を「未来」へつなげる効果を持っている。

会場で配布されていたフライヤー 提供:3331 Arts Chiyoda


4.立花文穂《クララ洋裁研究所》

立花文穂《クララ洋裁研究所》(2000年/2022年)は一階本展会場から出た、地下の一室に再制作されている。説明によれば、小池の母親が1930年代に学院を創設し、戦後復活させた「クララ洋裁研究所」の物品が立花文穂に譲られ、しばらく存置されていたものを利用して、ある時インスタレーションとして作られた。今回、これが改めて再構成されたようだ。私はインスタレーションという表現形式一般に疑義をもつ立場(というより「偏見」であることを告白しておく)だが、《クララ洋裁研究所》は成功した作品と言えるだろう。

入り口すぐには「クララ洋裁研究所」と書かれた生地が下がり、古い木戸があって、入ると型紙や針の刺さった針刺し、古い蛍光灯などが天井から吊り下げられている。更にこれまた木戸があり、わずかしか開かない隙間から奥に大量の洋裁道具(ボビンやリッパーなど)が置かれ、壁には洋裁に関する様々な図が印刷されたものが貼られている。本作で観客を包むのは、個々の事物とそれらが発する「におい」である。昭和の家屋を知っているものなら嗅いだことのある、木造家特有の、くすんだような匂いは、本会場の、様々に客観的に検討されるべき「資料」とは全く異なる作用を見るものにもたらす。

これらはあくまで立花文穂という独立した作家が作品化したものであって、直接小池一子と結びつけてよいものではない。本会場の年表で、小池が小池家に養子に出されていたことを知った上で見られるとしても、小池と母親(養母)の関係をこの作品から読み取ろうとするのは誤解しか生まないだろう【註11】。むしろ、ここでは本会場の小池の仕事から読解された、日本の経済的頂点での華々しいファッションや広告の基底に埋め込まれていたはずの「夢」が見える。

日本が経済的に停滞している現状への不安から、失われた太平洋戦争の記憶を美化しかねない情勢の中、《クララ洋裁研究所》が惹起するのは、戦中戦後を生き、死んでいった者たちの情念、祈りの「におい」とも言える。このような、戦争と戦後の「夢」が、小池とその仕事の展開、現在まで続く我々の生活の地中深くに埋め込まれていることは、改めて考えられてよい。幽霊たちは、忘れられたときに再帰してくる。その再帰の形が良い形でありうるか、それとも悪しき形をとってしまうのかは、今の我々にかかっている。


5.さいごに

以上、「オルタナティブ! 小池一子展」を、充実した資料展かつ作品も尊重した展覧会として記述した。あえて言えば不足は挙げられる。カタログが作られなかったのは残念だ。記録を残さないと、本展はその価値を半減させる。会期後にでも記録集は検討されてほしい。インタビューは小柳敦子と小池の視点の食い違いが見どころだが、全体に編集されすぎで、もう少しじっくりと見られるものであってよかった。これも別途、記録の一部として数時間にまとめていいのではないか(そういった本格的資料映像の予告編、あるいは「CM」としてなら、出品されたバージョンはよくできている)。年表についても、経済的政治的な背景が詳しく書き込まれたほうが親切だっただろう。キャプションの多言語翻訳もほしかった。

それらを踏まえて、本展は展覧会として練られたものであった。こうなると先行する「佐賀町エキジビット・スペース」展がいっそう残念ではある。本展のような内容が美術館でカタログも作成される形で開催され、あえての説明を省いたものがギャラリーベースで行われたのならばまだ了解できるが、しかし私は「伝わるひとに伝わればよい」という姿勢を前提にした公的展覧会は擁護しがたい。

いずれにせよ、「オルタナティブ! 小池一子展」は、美術やファッションを含めた広く文化的な生産にこれから取り組もうとする人にとっても検討に値した。これは若い人々が、本展にかならずポジティブな感情をもつことを意味しない。先人が好況期に潤沢な金を使って好きなようにやりキャリアを築いたことは、後から見直す場面で反感を買っても不思議ではない。これから日本が少子高齢化と経済縮小をたどる過程で、戦後日本の歩み全体を評価しなおすとき、小池の仕事に限らず20世紀後半の出来事は一度批判にさらされるかもしれない。

しかし小池一子が、女性に対する強い差別や制約の只中で、現在当たり前になっている様々な道を踏み固めてきたことは確認できる。敬意を前提に問われるのは、後続の人間は小池らの築いた基礎をいかように踏み台にしうるかだ。我々は本展をリソースとして使い潰す必要がある。

クララ洋裁研究所 提供:3331 Arts Chiyoda



1. 「佐賀町エキジビット・スペース 1983–2000-現代美術の定点観測-」群馬県立近代美術館、2020年9月12日~12月13日。

2. 3331 Arts Chiyoda webサイト内「オルタナティブ! 小池一子展 アートとデザインのやわらかな運動」(最終確認2022年3月19日)

3. アバンギャルド芸術と広告の関係について、小池の仕事との表面的差異や類似を越えてロトチェンコが想起される。柏木博「ロトチェンコの広告──もうひとつの二〇世紀大衆文化の可能性」(『ロトチェンコの実験室』所収、和多利惠津子(ワタリウム美術館)編、新潮社、1995年)では「ロトチェンコのつくった広告は、現在のわたしたちの消費社会における広告と異なって、個別資本のコンペティションを背景にするのではなく、社会資本を背景にした生産と、その要因としての消費を喚起することを目的にしていた。」(前掲書135頁)と書かれており、小池の文字通りの「個別資本のコンペティション」を背景にした仕事とは区別されるだろう。しかし、同時に1980年代の日本経済の伸長はアメリカを圧迫しており、日米貿易摩擦は日米の経済戦争とも言われた。この文脈でいえば、小池をはじめとした当時の「個別資本のコンペティションを背景に」した広告を、ロトチェンコもコミットした政治宣伝(プロパガンダ)として見直すこともできるだろう。

4. 小池の初期の編集・コピーからファッション、展覧会キュレーションといった活動については、松永真との対談「やっぱりコピーライターが好き」(松永真『対談・快談・松永真』誠文堂新光社、1989年)が参照できる。

5. 「石岡瑛子 血が、汗が、涙がデザインできるか」東京都現代美術館、2020年11月14日~2021年2月14日。

6. 石岡らとの関係の中で社会の女性問題に小池が意識的になった経緯については小池自身の著作『はじまりの種をみつける』(平凡社、2021年)中の「日本の社会で女性として生きるということ」の項を参照のこと。

7. 川本三郎「「都市」の中の作家たち」『都市の感受性』筑摩書房、1984年、56頁。

8. 浅田彰の以下の発言を参照。ここでは註7.の川本三郎のような言説が仮想敵になっていたと考えていいだろう。「都市論なんかでもそうなので、都市は劇場であるとか、人々の出会いと交錯がさまざまな意味と演劇性を生み出しているとか言うけど、はっきり言ってそんなのは非常に表層的なことであって、実は上下水道とかゴミの回収システムとかいうふうなインフラストラクチャー(下部構造)の束を含めた経済ネットワークこそが、都市において最もリアルなものなんですね。」(村上龍、坂本龍一『EV. Cafe 超進化論』講談社文庫、1989年、151頁)。

9. 前掲webサイトの同ページを参照。

10. リーフレット「佐賀町通信」については小池一子『空間のアウラ』(白水社、1992年)中の「佐賀町通信」の項を参照できる。

11. 小池の、生家から小池家へ養子に出された経緯については前掲『はじまりの種をみつける』の「鍬と聖書が育んだ情緒」に詳しい。同書9~12頁を参照。ここでは小池家へ養子として入る契機として、戦争による疎開が含まれていたことがわかる。また同様のことは「山荘のレイアウト」(前掲『空間のアウラ』所収)にも書かれている。「山荘のレイアウト」では、リベラリストから国家社会主義者になった養父小池四郎のことも書かれており興味深い。小池家が、当時の日本では特権的な豊かさを持っていたことも読み取れる。

見出し画像 撮影:筆者


永瀬恭一
1969年生まれ。画家。東京造形大学卒。2008年から「組立」開始。主な個展に「感覚された組織化の倫理」(M-gallery、2021)、主なグループ展に「エピクロスの空地」(東京都美術館セレクショングループ展、2017)ほか。共著に『成田克彦—「もの派」の残り火と絵画への希求』(東京造形大学現代造形創造センター、2017)、『20世紀末・日本の美術—それぞれの作家の視点から』(ARTDIVER、2015)、『土瀝青 ASPHALT:場所が揺らす映画』(トポフィル、2014)。
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レビューとレポート第35号(2022年4月)