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佐賀町エキジビット・スペース展を準備せよ 永瀬恭一

1.
佐賀町エキジビット・スペースは、1983年から2000年まで東京の江東区にあったアートスペースである。コレクションを持たず、ファッションから現代美術までジャンルを超えて同時代の先鋭な表現を提示する姿には、主宰小池一子のコンセプトが前面に出ており影響力があった。20世紀後半に米国につぐ経済力を持つに至った日本の、文化的達成の一翼とも言えた同スペースは、世界のグローバルなアートとの連結可能性を開示したという点でも、また後に書くように女性が運営しフェミニティを日本美術界に吹き込んだという意味でも重要だ。閉鎖から20年目を迎えた節目の時期に「佐賀町エキジビット・スペース 1983–2000-現代美術の定点観測-」展が、群馬県立近代美術館で2020年9月12日から12月13日まで開催されたが、改めてその有り様を検証することができたとすれば、今後の貴重な糧となっただろう。

しかし同展は当時を知らない若い世代や、国外の人々といった「他者」への窓口を十分には用意していなかった。一見して明らかなのは、佐賀町エキジビット・スペースが置かれていた、あるいは同スペース自体が生み出した歴史的・同時代的文脈を説明する「ことば」の少なさである。この展覧会は大きく3部の会場構成からなっていた(詳しくは本「レビューとレポート」内で公開されている平間貴大のレポートを一読されたい)。前室で佐賀町エキジビット・スペースの模型を取り囲む壁面に、企画された展覧会の記録写真が貼られ、次の会場には当時展示された作品の一部が並んでいた。そしてその展示空間を出ると、各展覧会にあわせて制作された印刷物資料が什器に入れられていた。フライヤー記載の簡単な佐賀町エキジビット・スペースに対する紹介のほか、観客が手がかりにできるのは作品ごとに短い説明が付されたハンドアウト(このハンドアウトの作品解説は、同展最大の救いになっている)の文章になる。

けして安価とはいえない(税込3,850円)カタログ【註1】は、わずかに展覧会の背景を説明している。小池一子自身のエッセイ【註2】は相応に重要だろう。とくに「ミッションのチェックリスト」は佐賀町エキジビット・スペースの方針を知るうえで欠かせない。併録されている詩人の田野倉康一のエッセイ【註3】も、この場所が単に視覚文化だけでなく文学も巻き込んでいたことを示すという意味では了解できる。疑問なのは群馬県立近代美術館の谷内克聡の文章【註4】である。海外のアートスペースや展覧会を佐賀町エキジビット・スペースの系譜として挙げている点、また佐賀町エキジビット・スペース周辺の文化状況を知らせている点では興味深いものの、美術館学芸の立場からは、カタログやフライヤーなど観客が読むか不確定な場所に数少ないヒントを分散させた理由と、それらを補う佐賀町エキジビット・スペースの状況的布置を書き記しておくべきではないか。

カタログ本文はページ見開きを少しまたいで各展覧会の白黒写真が一枚だけ配され、展示の簡単なプロフィールが書かれているが、その展示が行われた経緯や引き起こされた出来事への言及がない、あるいは簡易にすぎる。これまた簡素な年譜を挟んで、今回の出品作の図版が淡々と掲載されている。この点をカバーするようにポスター、フライヤーそしてカタログの表紙に佐賀町エキジビット・スペースがどのような点でエポックであったのかを類推させるキーワードが詰め込まれており、これと展示を連関させて理解を求めるという、観客への高いハードルが設定されている。

佐賀町フライヤー

会場で配布されていたフライヤー(筆者の持ち帰ったもの)


私自身は当時数回に渡って佐賀町エキジビット・スペースを訪れた経験があり、経済的高揚に沸く日本を芸術面でも世界へ押し開いていこうとしていた現場の空気に触れている。そのような人間からも、今回の展覧会は必要な観客とのコミュニケーションを避けたものに見えた。率直に言って同展は失敗している。監修の小池一子が尊重したはずの展示作品が、なぜ当時輝かしく見え、取り上げられたのか、濃密なムードのあった佐賀町エキジビット・スペースの空間から引き離された状況では伝わらない【註5】。

同展については先に述べた平間によるレポートのほか、web版美術手帳に鈴木萌夏によるレビューが別途あり、これ以上の描写や問題点の指摘は無用だと思われる。以下では、私なりに当時の背景を検討し、欠けていた状況証拠を少しでも埋めて、同展に潜在していたはずの可能性を照射し、あわせて将来ありうべき再度の佐賀町エキジビット・スペース展も構想したい。


2.
まず、佐賀町エキジビット・スペースの活動を考えるには、基礎として当時の経済環境を知っておかなければならない【註6】。日本は戦後の高度経済成長を踏み台にさらに発展していた。ベトナム戦争で疲弊した70年代以後アメリカの対日貿易赤字は巨額となり、当時はアメリカから日本への貿易黒字額削減要求が頻繁に報道され「ジャパン・バッシング」と称された。それまで敗戦国として関税・非関税双方の障壁で国内産業が保護されていた日本への市場開放要求が、アメリカから都度ごとに行われていた。これは次第に金融システムの解放要求になっていく。1985年には日米欧の金融当局者によりプラザ合意が交わされる。貿易不均衡の是正を目的とした政策的なドル安が実現し、ジャパンマネーは急騰、国際的に大きな存在感をもつに至る。

経済力を増す日本のイメージは様々な文化的インスピレーションも海外に与えていた。1982年公開のリドリー・スコット監督による映画『ブレードランナー』では新宿歌舞伎町のイメージが流用され、1984年出版のウィリアム・ギブスンによるサイバーパンク小説『ニューロマンサー』は千葉が舞台となった。大友克洋監督の映画『AKIRA』が公開されたのは1988年。ファインアートでは60年代からアメリカで活動してきた荒川修作や河原温の後を受けて川俣正などがヴェネツイア・ビエンナーレ、ドクメンタで注目を集め、さらに次世代への期待が高まっていた。80年代半ばからは強い円高により、必然的に多くの海外の美術品が日本企業に輸入されはじめた。日本人から太平洋戦争敗戦の記憶、そしてその記憶に基づく政治意識が経済的自信によって蒸発していった時期とも言えるかもしれない。

こういった潮流の中、ニューヨークのオルタナティブスペースPS1を創立したアラナ・ハイスと、木幡和枝・小池一子が「PS1を国際的な美術養成機関とするための仕組み作り」を議論し、そこから「古い建造物を再利用して新しいアーティストのための美術施設を作る」示唆が小池一子に得られたことは同展カタログ中の本人のエッセイに詳しい。また海外のアートスペースとの関連性は前述のように谷内克聡の文章によって記述されている。カタログで省かれている国内状況に目を向け、1983年に開設された佐賀町エキジビット・スペースが、国際空間となっていった東京に生まれた源流として、小池がアラナ・ハイスと議論をしていた1975年開館となる西武美術館に注目してみよう。経営者でありながら詩人でもあった堤清二の主導による西武美術館は20世紀以降の前衛的な美術を多く扱い、またその範囲も建築や写真まで幅広かった【註7】。

つまり、ジャンルを横断した先進的な同時代アートの展覧会を行う、という形態は部分的に西武美術館において実現していたことになる。小池は1979年に西武美術館で「マッキントッシュのデザイン展」を行っており、1980年には堤清二のもと、無印良品立ち上げに関わっている【註8】。1989年には西武美術館はセゾン美術館として、当時池袋西武の上層階にあったものを地下に移しリニューアルオープンしたが、ここでもより大規模にコルビュジエ展あるいはデイヴィッド・スミス展などが行われており、キーファー展においては主会場であったセゾン美術館の第2会場として、佐賀町エキジビット・スペースが使用された。これらを見ても、両スペースに深い関係があったことは推測できる。

ただし、佐賀町エキジビット・スペースはファッション店の「PARCO」、書店の「リブロ」、音楽ソフト店「WAVE」といったいわゆる「セゾン文化」の潮流からは距離を取っていた。西武が展開していた渋谷・池袋・六本木といった、バブル期に地価が高騰した地域から外れた江東区に独立的に開設されたことは、たんに経済的合理性からだけ理解されるのではなく、小池と佐賀町エキジビット・スペースの自立性を示すことにもなっただろう。前述のように、紹介が遅れていたとはいえ既に欧米で評価の高かったアーティスト、またはオランダ近代絵画や古代オリエントの美術品など幅広い時代を扱った西武・セゾン美術館に対し、佐賀町エキジビット・スペースはバブル経済とともに花開こうとしていた日本の「今生まれつつあるアーティスト」のピックアップ、さらに海外アートワールドとの連携に集中していた。

作品を収蔵しない企画特化型のクンストハレは、ヨーロッパにおいて同時代美術の実験場として存在感があり【註9】、小池が依拠したニューヨークのPS1もやはりコレクションをしないことで生まれる機動力を生かしていた【註10】。注意を必要とするのは、これをもって戦前の東京府美術館(そしてその系譜の延長にある国立新美術館)のような、近代的美術制度の不備から産まれた「貸し館」と同一視するミスリードである。クンストハレであれPS1であれ、これらは確固とした近代美術館が整備された上で、それに留まらない可能性を探る目的で設立されている。佐賀町エキジビット・スペースも、なにはともあれ国内に国公立の美術館が整備されてきた1980年代を待って開設されている【註11】。行政主導の近代美術館建築ブームに対する「オルタナティブ」として機能したのが佐賀町エキジビット・スペースであったという見方は可能なはずだ。作品単位として堅牢なピースが収集されざるを得ない美術館に対し、仮設的な展示、素材を含めフラジャイルなインスタレーションが展開可能であったことも佐賀町エキジビット・スペースの特徴となっていった。

国外のアーティストの紹介も積極的に行われ、国内でのネームバリューが十分ではなかった作家も展示をしている。有力作家については2000年に東京都現代美術館で本格的な紹介のあった「シュポール/シュルファスの時代」展に先駆け、1992年にクロード・ヴィアラ展を行っているのも注目してよい。1993年のキーファー展において、セゾン美術館の第2会場となったのは佐賀町エキジビット・スペースとしては例外的なトピックであろうが、キーファーの歴史性を過剰に演じてみせる作品と、戦前の1927年に竣工した食糧ビルという佐賀町エキジビット・スペースの舞台装置の組み合わせは、主会場のセゾン美術館よりも遥かに演出的に機能していた。「演劇的」な要素はこの会場にとってある種の生命線であったかもしれず、当時の藤枝晃雄に代表されるフォーマリズム美術批評からは基本的に乖離していたのが佐賀町エキジビット・スペースである。

先進的であったのは、戦後の製造業や土地開発業による高度成長の上に展開しようとしていた男性主導の日本アートシーンの中で、小池一子自身が女性として、女性スタッフ【註12】を従え一つの組織を運営し、はっきりと存在を主張したという事実にある。女性作家や女性美術関係者の地位の低さ、それに伴う理不尽な人事、言説、恣意的フレームアップと消費は今でも払拭されているとは言えないが、少なくとも佐賀町エキジビット・スペースでは、明らかに女性作家が無視されなかった。オノデラユキ、白井美穂、堂本右美、吉澤美香、日高理恵子らが今回、当時の作品を出品している。ファッションやテキスタイルへの注目、一時期「女優」的自意識すら表明していた森村泰昌の起用など、単に女・男という単純な2つの性差にとどまらない、独自のフェミニティが企画全体に通奏低音として響いていたことは意識されてよい。

領域横断性(ノンジャンル)、あるいはフェミニティの導入を推し進めていった小池の活動をより立体的に理解する補助線として、1981年から2005年と、ほぼ佐賀町エキジビット・スペースと同時代に行われていた峯村敏明による「平行芸術展」を挙げることができるだろう。そもそも現代美術において脱領域的な発想は以前から試みられていた。1966年の「空間から環境へ」展では、美術のみならずデザインや音楽、建築、写真といった他ジャンルから出品者を招いており【註13】、ボーダーレスな想像力はすでに俎上に載せられていた。1958年に開設され1971年まで運営された草月アートセンターではダンスやパフォーマンスが美術や音楽と共に積極的に行われていた。佐賀町エキジビット・スペースの試みも、こういった前史との関係を踏まえて見る必要がある。いずれにせよ領域の「交差」によって溶解してゆく美術の輪郭に対し強い危機感をもっていた峯村敏明は、各領域は「交差」せず、むしろ徹底して「平行」する(したがって芸術領域は保持される)というメッセージを「平行芸術展」において展開してゆく【註14】。当事者たちがどの程度お互いを意識していたかは不明だが、今から振り返れば明らかに相互に対する批判/批評としてあったと捉えることができる。


3.
以上、「佐賀町エキジビット・スペース 1983–2000-現代美術の定点観測-」展とそのカタログにおいて十分には説明されなかった状況記述を試みた。この時代は東欧の共産主義国家解体を象徴するベルリンの壁の崩壊(1989年)、湾岸戦争(1991年)、ソビエト崩壊(1991年)といった世界的な政治動乱期でもあり、余波としてドイツではベルリンの再開発に伴うアートムーブメントが沸き起こっている。奈良美智は1987年に愛知県立芸術大学大学院卒業後デュッセルドルフ芸術アカデミーに入学し1993年に卒業、以後ドイツに滞在していた。また、村上隆は1994年にロックフェラー財団のACCグラントを得てPS1.インターナショナル・スタジオ・プログラムに招聘されている。いわば日本の現代アートがネオポップの文脈の中で世界展開していった時代になる。そういった「外部」との直接の影響関係のステップとして機能することが、佐賀町エキジビット・スペースには期待されていた。この意味で海外と佐賀町エキジビット・スペースの交流も、当時を知る人から語られる必要があるだろう。同展における「ことば」の排除は単に国内の問題ではなく、いま日本を追い越すように伸びているアジア各国のアートシーンに対する説明も回避していることになる。

したがって佐賀町エキジビット・スペースを取り上げる展覧会は将来、敗者復活戦として改めて企画されなければならない。そこではどのような構成がありうるだろうか? 今回はっきりしたのは「作品展」としてではなく、「資料展」としての構想が必要だということである。群馬の展覧会に即して言えば、まず展示会場とその外にあった印刷物資料の位置を反転させることが検討されてよい。加えて、販売されたカタログと会場で無料配布された作品解説のハンドアウトを、これもまた反転させて考えるべきだろう。主に展示されるのは「資料」であり、作品もこの際「資料」的に扱われ、展示されるものには十分な会場キャプションとカタログ相当の解説を書き込んでおきたい。なされるべきは小池一子が管理する佐賀町アーカイブの資料の精査、関係者のインタビュー・対談と文字起こし、綿密な論考の執筆といった作業の蓄積になるはずだ。

あわせて会場導入部には佐賀町エキジビット・スペースだけの出来事だけではなく、国内外のアートシーンや政治・社会状況も書き加えた詳細な年表が掲示されなければならない。さらに発展させれば、PS1や各クンストハレ、西武・セゾン美術館との影響関係や同時代の他のアーティスト、コミュニティ、関係者の動向、さらに後続のアートシーンへの波及も加味したダイアグラムが必要になるだろう。美術展におけるダイアグラムといえばニューヨーク近代美術館のアルフレッド・バー・Jr.による「キュビスムと抽象芸術」展カタログ系統樹(1936年)が想起されるが、佐賀町エキジビット・スペースについてもこの系統樹を参考に(つまり批判的な視点も持って)歴史的・同時代的なネットワークの中にこのスペースがいかに組み込まれ、かついかにこのネットワークを再編していったのかが示されてよい。場合によってはデジタル技術を用いて動きのあるダイナミックな「アニメーションダイアグラム」が検討されてもいいだろう。

キュビズム


ニューヨーク近代美術館webサイトで公開されている「Cubism and abstract art」(1936年)カタログより


人口減少に伴う高齢化と経済的な退潮の時代をこれから生きていく若年層にむけて、当時の人間の経験をどのように参照可能にしうるか、という基本的な姿勢を、ひとまず企画者は発想しておく必要がある。「ほしいものが、ほしいわ。」【註15】といった記号消費を超え、現代社会は分断と闘争の局面に入っており、芸術はこの分断線をどのように分析し縫合しうるかが問われる時代になっている。これはグローバルな資本の運動の進展プロセスによるのであり、この問いの普遍性は「海外への窓」を必要とするどころではなく、あからさまに、剥き身でワールドワイドに晒されている今の人間の条件にすぎない。かつて佐賀町エキジビット・スペースは、バブル経済に浮かれていた日本の中で、貴重な実存的課題をモチーフにした作家や作品を扱っていた。社会問題に触れれば「時代に乗れる」と考えるような動向がない場所でそのような展覧会を可能にしていた佐賀町エキジビット・スペースを検討するとき、必要なのは過去への追憶ではなく未来へ向けての意志である。

永瀬恭一(画家)

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1. 『佐賀町エキジビット・スペース 1983–2000-現代美術の定点観測-』(HeHe/ヒヒ、2020年)。
2. 小池一子「ペンティメント──生まれ出たものたち」、前掲カタログ13ページ。
3. 田野倉康一「詩と美術の未来はここにあった」前掲カタログ299ページ。
4. 谷内克聡「楽園ゲーム あるいは、佐賀町エキジビット・スペースの系譜」前掲カタログ307ページ。
5. 佐賀町エキジビット・スペースをめぐる時代状況については中村ケンゴ編著『20世紀末・日本の美術―それぞれの作家の視点から』(ART DIVER、2015年)の第一部を参照のこと。1991年(同書25ページ)、1993年(同書50ページ)に佐賀町エキジビット・スペースの名前が出てくる。
6. 以後、当時の日本の経済環境、特に金融面については伊藤正直・小池良司・鎮目雅人による「1980年代における金融政策運営について:アーカイブ資料等からみた日本銀行の認識を中心に 」(日本銀行金融研究所、2014年)を参照。とくに冒頭から「Ⅴ.「国際政策協調」の進展と金融政策(プラザ合意からルーブル合意まで)」が重要になる。本論文はPDFで公開されている(最終確認2021年1月17日)。なお、2019年の静岡市美術館「起点としての80年代」展関連シンポジウム「80年代の美術は今につながるか(仮)」にて、美術批評家の林道郎がプラザ合意のインパクトを証言している。正式な記録はないが、みそにこみおでんによる速記が公開されている(最終確認2021年1月17日)。
7. 『新しいミュジオロジーを探る──西武美術館からセゾン美術館へ』(リブロポート、1989年)。とくに紀国憲一「西武美術館の14年とセゾン美術館の未来」(同書8ページ)に引用されている西武美術館開館当時の堤清二の言葉には「分類学的な境界を無視している」「美術館であって美術館でない」という文言があり、佐賀町エキジビット・スペースの先駆としてのイメージを見ることができる。
ここでも触れたとおり、西武美術館・セゾン美術館の活動についても、十分な研究と資料の精査に基づいた展覧会が近い将来において開催されることが望ましい。併せて、当時の西武美術館の「空気」については埼玉県立近代美術館「日本の70年代 1968-1982」展カタログ中、前山裕司が印象的なテキストを書いている(「回想の西武美術館」『日本の70年代 1968-1982』(埼玉県立近代美術館、美術館連絡協会、2012年)259ページ)ので参照のこと。
8. 岡部昌幸「ごあいさつ」、前掲カタログ5ページ。
9. ハラルド・ゼーマンによるクンストハレ・ベルンでの「態度が形になるとき 作品―概念―過程―状況―情報」展については沢山遼「「態度が形になるとき 作品―概念―過程―状況―情報」展」(Artwords内webページ)を参照のこと(最終確認2021年1月17日)。
10. 『MoMA PS1: A History』(Museum of Modern Art、2019)。
11. 80年代の地方公立美術館数の増加については小池志保子・中川理「空間構成からみた日本の公設美術館の変化に関する考察」『日本建築学会計画系論文集第76巻第659号』(日本建築学会、2011年)221ページを参照。同論文では222ページ表1から公設美術館の新設数について「1980年代に32館とピークを迎え、その後減少に転じている」ことが示される。なお同論文はpdfで公開されている(最終確認2021年1月17日)。
12. 当時のスタッフであった小柳敦子側からの回想は「Web site gaden.jp」内で読むことができる(最終確認2021年1月17日)。
13. 1966年当時の「ジャンルの崩壊」というムーブメントについては「空間から環境へ」展出品者の田中信太郎がインタビューで証言している。「田中信太郎インタビュー」『ART TRACE PRESS03』(ART TRACE、2015年)116ページ。
14. 「峯村敏明インタビュー」『ART TRACE PRESS05』(ART TRACE、2019年)60ページ。特に84ページでは平行芸術の考え方について峯村自身が語っているので参照のこと。またここでは峯村敏明他編著『平行芸術展の80年代 1981‐1991』(美術出版社、1992年)の書影が挙げられている。
15. 糸井重里による1988年の西武百貨店ポスターのコピー。

トップ画像:撮影 平間貴大

レビューとレポート第20号(2021年1月)