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「議論に必要な、たった1つのこと」を考えたブティックの前

服を買いに街に出た。
アパレルショップの入り口。2ヶ月前には除菌液スタンドが置かれていたと思うのだが、気づくと無くなっている。

ロクな免疫知識も無く印象で語るが、あれって無意味だったよなと思う。
手だけ除菌したところで、服やその他はそのままだし、除菌液を使わない他の客がいれば、商品に雑菌は付く(そもそも付くのか?付いたところで害があるのか?)。商品を常に滅菌できない以上(当然できない)、換気に気を遣うほうが効果があるだろうし、そもそも町中は滅菌されてないのだから、入店時にだけ除菌する意味がない。
全くの無菌を意識し過ぎれば、免疫力が低下するとも聞く。

それでも、除菌液スタンドを結構な場所で見かけたのだから、自分の衛生観念は世間のそれとズレているのだろう。

photo-ac.comより

名著『安心社会から信頼社会へ』では、「安全と安心の違い」について分析がなされている。
「安全」とは、物理的・外部的にsafeであること。「安心」とは、心理的・主観的な安全性が保たれていること(safeness)。

「安心」に配慮するのは大変だ。
それは心理的なハードルで、物理的に安全かどうかは極論関係がない。
バンジージャンプがいくら安全だと示されても、私はなおバンジーをしないだろう。バンジージャンプの安全性に、私は「安心」を抱くことができない。

除菌液も、そうした類のものだと思う。
店内衛生に気がかりな人への配慮。"キレイになった"という心理的安心感のためのもの。
それが真に健康に対して費用対効果があるかは関係がない。
"不信感"を拭うには、科学的な説明ではなく、心に寄り添う必要がある。

"気持ち"は人それぞれ違いがあるから、人間社会は難しい。

愚かな私は、言葉を尽くせば、"気持ち"の行き違いにも、論理的な最終決着をつけられると思っていた。
近ごろ、それは間違いなのではないかと考えている。

除菌液スタンドを例に取ろう。
不要派の私は、除菌が完全に行われないこと/除菌と健康が対応関係にないことをベースに論を尽くす。
必要派の誰かは、僅かな手間で効果的に減菌する方法を考えている。
おそらく、不要派と必要派では、健康に対する価値の置き方、ひいては命に対する価値の置き方が異なっている。
この状態では議論にならない。両者が座って話し合う、土台が隔ってあるからだ。

「異なる意見の両方を取り込んで、双方の納得できる結論を考えましょう」。
言うのは簡単だが、それが常に実践可能とは、もはや私は信じていない。弁証法的解決が可能であるのは、両者が対立してある場合だけで、世の中には対立以前に、考えの土台がズレてある場面が往々にしてある。
この状態で、"話し合い"を試みたところで、統一的な見解は臨めない。どちらかの立場がゴリ押しされて片方が抹殺されるか、噛み合わない口論に終始するだろう。
そのどちらも、とてつもなくストレスが溜まる。それらは双方に毒として残り、心にずくずくとした復讐の種を埋め込む。

思考の土台にズレがある場合、まずは土台の調整が必要だ。
この調整が大変に難しい。
双方が、「土台を合わせるために、一旦自分の立場からは降りましょう」と、まず合意を持つ必要がある。
どちらかが立場を変えることがない場合、もう片方が一方的に譲歩するだけになる。そうすると前段に書いた「復讐心の種」が植えられて終わる。両方が大人にならないと、調整はされない。
そして、ほとんどの人間は(私もそうだが)、自分の考えの土台を崩すことはない。

再度、除菌液の例に戻ろう。
除菌液賛成派の誰かは、衛生や健康をどう守るかを考えていたとする。対する私は、公共施策は経済的合理性の高いものであって欲しいと思っている(要するに、費用対効果が不十分であれば、それをやる価値はない)。
この噛み合わない立場で尚、殴り合い・殺し合いに"ならない"議論をするには、噛み合う場所まで前提を降ろす必要がある。つまり、除菌液スタンドを置くべきかどうかを話す前に、私たちの価値観を見直すところから始めることになる。


噛み合わない議論を噛み合わせるためだけに、己の価値観を再定義するのは割に合わない。だから、私は大抵の社会的な意見対立に降りる。
つまり、除菌液が街中にあってもいいと思うし、使いたい人は使えばいい。使えと言われたら使う。

人生を楽しむ上で大切なことは、議論に勝つことではなく、不要な議論を避けることだ。
優秀な組織では、最低限同質的なメンバーだけで固め、「土台のズレた議論」をはじめから起こさず、発展的な解決策に向けての話し合いだけを最初から行う。優秀な人間は、「土台のズレた議論」にならないよう、予め根回しをしたり、権力や(見せかけの)論理や推進力で、無駄な工程をすっ飛ばしている。
ビジネスの場で、つまり限られた期限内で結論を出す必要がある場合、(無駄な土台合わせを含んだ)議論をするよりも、結論を出すことのほうが大事だ。それすなわち政治力。
戦わずして勝つという金言が、沁みて理解できる。

「話し合いは大事です」。
こうした、非実践的な訓示を教えるより、「話し合いが成立するための条件」を教える方が、人生の役に立つだろう。
というか、「話し合いが成立する条件」を知らずに「話し合いが大事」だと素朴に信じている場合、自論を押し通そうとするだけの、"ただの迷惑な人"になりかねない。

暴力に頼るよりは、議論で済ませた方がいいことはある。しかし議論の仕方にも作法がある。
口が上手い奴が、「話し合いで済ませましょう」といっておいて、口八丁で言いくるめるのは、それもまた一種の暴力でしかない。ディベート強者が口下手な人を叩き潰すのは、言葉での殺人だ。
対等に話し合える最低限の条件が揃ってこそ「話し合いが大事」なものになり得る。


最後に、今一度話をまとめてみよう。
「話し合いは大事」だ。それは対立する意見から学び、より一段高い統合された理論を作るために欠かせない作業だからだ。
ただし、「話し合い」をするためには「話し合いの土台」が必要だ。土台なしでは潰し合いが発生して、論理ではなく力の押し付け合いしか学ぶことができない。それもひとつの生きる知恵にはなるかもしれないが、相互理解が生まれることはない。
だから、「話し合いが出来る相手を見つける」ことが、大切な人生のミッションになる。それは立場が異なったときに、ともに視点を合わせる作業をしてくれる相手のこと。
そうした掛け替えのない相手を見つけるには、自分自身もまた、相手に合わせて自らの考えを降ろすことができる、成熟した人間にならないといけない。
それを学んでいくことが「大人になる」ということのひとつであるに違いない。



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最後までご覧いただきありがとうございました!
噛み合わない会話の原因。みなさんはどこら辺に課題が現れると思われますか?
山岸俊雄さんの『安心社会から信頼社会へ』は、とても示唆的な内容だったと思いますが、だいぶ前に読んで、読書メモも残ってなかったので、再読したいところ。
めちゃいい本ですので、未読の方はぜひ。

これからも毎週水曜日、世界を広げるための記事を書いていきます。
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