『周波数』その2

※前回(その1)はこちら

「新田さん、新田さん。大丈夫?」
 今は一体何時で、ここはどこで私は今何をしていて、周りからどのように見られているのか、思考が働くのに数秒かかった。
 昼の2時で、会社で仕事をしていて、背中に手を置いて起こしてくれたのが社員の美和さんで、と状況を一つ一つ理解していくと、フロア内にいる人たちがみな目を逸らしながらも耳を傾けているのが手に取るようにわかり、冷汗が体のあちこちからにじみ出てきた。

「ご、ごめんなさい、私……」
「いいえ、大丈夫ですよ。ちょっと休憩しましょ」
 彼女はそう言うと、私を給湯室へ促した。私より八つも下なのに気が利く。新卒で入って五年目だそうで、契約社員の私の指導係となっている。人として生まれてからの経験は私のが多いはずなのに、彼女の仕事へのスピードとか、指導の仕方とか、言葉づかいとか、そのすべてが無駄がなく品性にあふれているように見え、年下という概念は指導係としてついてもらってから一週間後には吹き飛んでいた。家事も育児も、仕事も満足にできない私とは大違いで、それがひどく落ち込む。
 顔もあげられないままフロアを出る。給湯室でマグカップを取るように言われ、そのままティーサーバーから緑茶を注いだ。美和さんはコーヒーを選んだ。

「昼過ぎって、どうしても眠くなっちゃいますよね」
「すみません、私、寝ていました。どれくらい……」
「いえいえ、大丈夫ですよ。お疲れですよね、お子さんもいますし」
 私は今、責められているのだろうか。それとも心配されているのだろうか。言動の一つ一つに気遣いが見える彼女だからこそ、その本音が見えないのが時々怖く感じる。
 右手に持った緑茶を飲む勇気がない。
 うつむいたまま何も言えない私に向かって、彼女は続けた。
「私はまだ、子どもがいないのでその大変さがわからないのですが、この三か月ぐらい、ずっと疲れているように見えます。あまり寝られていないんじゃないですか?」
 適当なことを言って取り繕うべきかと考え、ちらり彼女の表情を伺う。そこには曇りなく私のことを慮る眼差しがあった。
「四月に子どもが二歳児クラスになったんですが、どうも馴染めていないみたいで、保育園で遊ばないらしいんです。ただ、家では元気で夜も寝ないから、相手をする時間がどうしても多くなってしまって、家のことができずに夜が遅くなってしまいまして。すみません、仕事に支障をきたしてしまいました」
「それは、かなり大変そうですね。いつも家事は何時ごろ終わるんですか?」
「昨日ですと、終わったのが大体日付が越える前ぐらい、だったかと思います」
「え、私、そんな時間までできません。新田さんすごいですね。それは疲れて当たり前です。そのうえお仕事もテキパキこなして下さるので、かなり心強いんです。寝て当然です! 仕事中でも寝て体力回復しましょう! 私が許可しますって言いたいです。そこまでの権限ないけど」

 明るく接してくれる美和さんの声が少し緊張をほぐしてくれた。緑茶をもう一口飲む。少しぬるくなり、夏場に丁度よい温度で喉元を過ぎていく。
「新田さん、今日は早退します? ゆっくり休んでもらってもいいですよ」
「いえ、四時までの契約ですし、それまではやっていきます」
「わかりました。それじゃあちょっと気分転換もかねて、社内便、お願いしても良いですか?散歩して体動かしましょう」
 最後ににこりとする彼女の表情に癒しを覚えた。マグカップを置きに自分の席に戻り、周囲の人たちに頭を下げる。みんな「気にしないで」と穏やかな目線を送ってくれた。
「社内便行ってきます」
 そういって鞄を持って部屋をでた。
 以前よりも何となく荷物が多かったけれど、淀んだ気分は少し上向いた。

 それでも一日が終わるころには、部屋も気分も荒れ果ててしまっていた。体力ゲージにはほんの少しもHPは残っておらず、明らかに瀕死状態だ。
 ソファに寝転がりながら開いていた携帯ゲームは負け、虚無の時間が訪れる。床にはたくさんのミニカーが転がっていて、机にはクレヨンの線が消されずに残っていた。食べかけの私の夕食はすっかり冷めきっているだろう。もはや食べる気にもなれない。けれど食べ物を捨てるのはなんだか気が引けて、見て見ぬふり。

 昨日聴いていたラジオは毎週月曜日放送なので、火曜日の今日はやっていない。早く寝ればいいのに、今日も自分の時間を一分も持つことができず、このまま寝てしまうのは腹が立つ。これでは何のために生活しているのかわからない。
 どうしてこんなに、一人で頑張っているのか。そう思っていると、廊下の向こう側からガラガラと引き戸が開く音がした。

「おお、こんなところで寝てる。大丈夫か?」
「……うん」大丈夫なわけがない。
「布団で寝たほうがいいんじゃない?」
「……うん」わかってる。
「いやほんと、部屋の片づけとか食器洗いとか全部やるから。もうすぐ仕事おわるから」
「……うん」もうすぐ日付変わるよ。
 言いたい小言すら発する気力がない。
 こちらとて、夫が深夜まで仕事しているのにそのうえ家事までさせたくない一心でやっているんだから、その気持ちを理解してほしい。
「明日は、家のこと一切やらなくていいからね。俺がやるから」
 違う、言ってほしいのはその言葉じゃない。子どもと関わってほしい。仕事を早く切り上げて欲しい。
「……うん、ありがとう」

 結局何も会話をしないまま、気力で歯磨きをして布団に倒れこんだ。横には愛しい子どもの寝顔があるはずなのに、それを可愛いと思うことができなかった。

~続く~

一言コメント

心に思っていることって、なかなか言葉にできないなぁ、と思う日々。
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