月 満ちる

人を待つ。ただそれだけのことが、ふいに時を突き動かす。

9月も終わり、頭上に満月をのぞみながら、松下彰は車で同僚を待っていた。
“ごめん、今日の夜、迎えに来てくれない?”
就業時間中、スマホが彼のポケットの中で震えた。周りに見えないように机の下で開くと、営業部の白石杏子からメッセージが入っていた。

二人か働いている食品メーカーでは、今回新しいドレッシングを開発していた。そのドレッシングがついに発売されるという事で、杏子は上司をつれて 社用車でスーパーまで応援に出向いたのだ。
初めて営業で商品を置かせてもらうことができた、そんな高揚もあり、売る手伝いをしたいと行ったはいいものの、会社でトラブルがあったと上司だけ車で帰ってしまったとのことらしい。
もちろんスーパーの人に車出しを頼める人もおらず、一緒に入社した彰に声を掛けたのだった。

“いいよ。仕事終わったらそっちに行く”
“ごめんね、私も19時には終わる予定です”

杏子からの返信をちらり確認すると、彰は18時半には仕事が終えられるよう算段をつけた。定時が過ぎたところで残った仕事を手早く片付け、すぐに車へ乗り込む。

窓を開け、片道二車線の県道を、彰は親への借金となけなしの貯金で買った軽自動車で懸命に走らせた。ほかの車に右車線から追い抜かれながら、涼風を体に感じていた。焼肉屋の匂いが舞い込めば、鼻から思いっきり息を吸って肺にため、マックのお店を見ては腹を鳴らした。

やがて目的のスーパーへ着くと、お店の出入り口付近へ停めた。地元で30店舗ほど展開している、いやゆるご当地スーパー。さすがに19時頃にもなるとお客もまばらで、出入りする人も中年の人が多い。仕事終わりに来ているようだ。
窓を開けたままエンジンを切り、スマホを取り出した。
”着いたよ。入口付近にいます”と送信ボタンを押すと、間もなく既読がついた。
”今終わりました! 片付けして、店長に話をしたら向かいます。もうちょっと待ってて”
”了解”それだけ返信をすると、彼は今まさにお店から出てきた人の買い物袋を見やった。

はたして、あの袋の中に、杏子の商品は入っているのだろうか。
ふと、彼女がお店から出てきた時の表情を思い浮かべる。疲れた表情を浮かべてくるだろうか。それとも、二やけた表情をしながら、走ってくるだろうか。
杏子は感情が顔によく出るタイプだと、彰は知っている。一年半前にあった入社後の研修時代、食堂のメニューに好きなおかずがあるだけで笑顔になっていた。座学の時間では内容が理解できたかできていないか、顔さえ確認すればすべてが読み取れたほどだ。
その3ヶ月後にそれぞれ配属が決まり、彰が総務部になってからは交流が減ったものの、総務に頼む雑多なことに対して杏子はまず彰を頼るようになっていた。
彰の耳にも、杏子の営業部での働きぶりは届いていた。彼も同期というだけで誇らしく思いつつ、勝手に刺激を受けていた。

それからは、職場で業務上の話をし、すれ違えばとりとめのない挨拶を交わす、そんな程度の交流を続けていた。だからこそ、彰のスマホに杏子からメッセージが入ったときは胸がざわついたし、迎えに行くことに何もためらいはなかった。

全開の窓に肘を乗せ、頬杖をつきながら月を見上げた。光が車に差し込む。遠くから子供の泣き声が届く。
腕時計に目を落とした。長針が4を示す。そろそろ、店を出てきてもいい時間ではないだろうか。もしかしたら、この車を見つけられていないのだろうか。
周囲を見渡して、杏子の姿を探した。しかし、目に入るのは買い物終わりのおじさんが一人いるだけだ。
その時、彰のスマホが震えて光った。
”ごめんなさい、店長さんの話長くて、まだ帰れない”
杏子からのメッセージが表示されていた。それじゃあ何故この文章は打てたのだろう、彰は疑問に思ったが、きっと店長はトイレかお客の対応だな、と一人納得した。”わかった。気長に待ってるから。気にしないでー”
既読がつくとキャラクターが頭を下げたスタンプが返ってきた。ごめん、と謝っているようだ。

これでおそらく、杏子がお店から出てきた時の表情は決まった。申し訳なさそうに口元を下げながら、困り顔でやってくる。
そしたら、「お疲れ様、大変だったね」と声をかけよう。長かったー、とため息交じりに発してくるだろうから、「今日はどうだった?」と聞いてみよう。

「ごはんでも、誘おうかな」
急に、彰が独り言を漏らした。杏子を待っているからか、季節の変わり目だからか、今日は満月だからか。ふいに彰の決心が固まった。
商品が売れていれば自慢話を聞こう。売れていなかったのなら愚痴を聞こう。どちらでもなければ……、まあ何とかなるだろう。

再び時計を見ると、すでにお店についてから40分ほど経っていた。駐車場には、従業員のものと思われる車が数台、店舗から離れたところに置いてある程度で、彰の車だけがぽつんと目立っている。
目の前の自動扉に書いてある営業時間を読むと、20時となっていた。もうすぐ店じまいらしい。店長はこんな時間まで話をしていても大丈夫なのだろうか。閉店準備が必要なのではないのか。
そんな風に思っていた矢先、彰の左側から、ペタペタ走る音が聞こえてきた。リュックサックを背負い、従業員出入り口からこちらへ向かってくる。

月明かりに照らされた杏子の表情は、彰の予想通り、困っていた。
夜風が彼女の汗を冷やす。少し寒いのか両腕をさすっている。
彰は車の中から助手席のドアを開けた。
「ごめーん」と言いながら彼女は車に乗り込む。ドアが閉まると同時にエンジンをかけ、彰は口を開いた。
「お疲れ様、大変だったね」


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