_空き缶_

「空き缶」


今日のキーワード「空き缶」


人生にはイラッとする瞬間が数多く存在する。


そこから発生するストレスの大きい小さいは問題ではない。その回数が問題なんだ。
まあまあの頻度で、しかも確実に、イラっとする瞬間は訪れる。
その都度違った形をとりながら。
この辺りが巧妙でさらにイラっとするよね。


人は時たま訪れるこの悪質な波にうまーく対処して生きていかなければいけない。
これはどんな聖人であっても同じだ。
教育の大切さを説きながら、発展途上国に70棟の小学校を建てた聖人だって。
世界平和のアピールのために凶暴な5メートル級ホオジロザメと並んで泳ぎ、岸まで残り10メートルのところで食べられてしまった、あの聖人だって。
世界中のねぐらを失ったモグラのため、オハイオ州に「モグラの家」を建設したけどモグラの移動手段は徒歩しかないから結局近場に住んでいた3匹のもぐらが住みついただけで終わった、あの聖人だって。
みんな一緒なんだ。何かしらにイラっとはするはずなんだ。
僕はそう信じている。


かくいう僕も人間なので色々なことにイラっとする。
加えて聖人レベルの道徳心を持ち合わせてないので、まぁいろんなことでイラっとする。
昨日の夜も何か自炊しようと思い冷蔵庫を開けたらそこには瓶詰のピーナッツバターしか無かった。
僕は憤慨してしまった。


「・・人類が終焉したその後、運よく生き延びた主人公が食料を求めて無人の家にさまよい着き、嬉々として冷蔵庫を開けた、時じゃねーんだよ!」


そんなニュアンスの言葉を叫びながら居間の座布団にダイブしてその勢いのまま殴りつけた。そして顔を埋めて泣いた。
乱れ狂う僕の姿はおそらくピーナッツバターの瓶に反射していたんだろうなぁ。
それすらも嫌だなぁ。
まぁ、こんなもんなんですよ、ぼかぁ。
はぁ。


「人生において、幸せと不幸は交互に訪れる」


確か著名な哲学者が残した言葉だと思う。
名前は「シスコ・ビザ」とか、そういう名前なんだろうなぁ。全然知らないけど。
しかし、この言葉には激しく同意。
イラっとすることもあれば、少し救われるような出来事もある。人生はそんなものだ。
ビバラ・ビバ。
・・・シスコ・ビザ。


話を身の上話に戻そう。
今日、会社でタバコを吸っていた時のことだ。
昨日のピーナッツバターの一件を引きずる僕は午後の業務をサボって喫煙室にこもっていたんだ。
すでに40本ほどのタバコが僕の肺に消えていた。
れっきとしたダメ社員である。
その時だった。


ガチャ


扉の開く音がした。およそ2時間ぶりのことだった。
その時の僕はというと、下を向きながら延々と床に刻まれたタイルの網目を追っていたんだ。
「目の前の嫌なことから逃げるべく、馬鹿馬鹿しいくらいの単純作業に没頭する」
これは僕が小さい頃から持つ悪癖だ。よくお茶碗のお米の数を無意味に数えたりしていた。


そんな作業中の僕の目に、すらりと伸びた健康的なふくらはぎが飛び込んできた。
女性社員が休憩で訪れたんだろう。
しかし、僕はタイルを追うことをやめなかった。
仕事をサボっている手前、何かに没頭している姿勢だけでも保ちたかった。


「・・・高村くん、お疲れ様」


透き通るような美しい声に目線をゆっくりとあげていく僕。
パンプス・・ふくらはぎ・・タイトなスカート・・清潔そうなブラウス・・そして、御本尊の顔。
・・・う、ウヒョォ。
経理課の牧村さんだ・・。
僕ら同期の、あの、なんていうか、華のような存在の、いや、もはや、華そのもの。さらに言えば華の妖精。
華の妖精、牧村さん。
こんなところでお目見えできるなんて。
心の中が一気に色づくのを感じた。
小さな幸せがこんな形で巡ってくるなんて。神様、あんたにくいことするじゃない。


「お、おちゅきゃりさま」



40本ものタバコが口内の神経を過剰に刺激したのか、僕の滑舌はおかしくなっていた。
やはり小さな幸せの後にはストレスが追い打ちをかけてくる。
神様、ごめん。
最高のパスだったのに僕はゴールできなかったよ。


「・・・なんて言ったの?」
そりゃそうだ。僕の言葉は空中でほどけて離散してしまったため牧村さんの耳に届くはずがない。
高村さんが不思議そうな顔で僕の顔を覗き込んでいた。


「いや、なんでもないよ。。あはは、あはは」
僕は下手くそに大きな声で笑った。
タバコの煙と最低の空気で淀んだこの喫煙室をどうにかしてしまいたかった。
しかし神風、吹かず。
僕と牧村さんはまるで深海に2人きりでいるようだった。
うぅ。


あれ。
あれあれ。
・・・この感じ、僕は嫌いじゃないな。
キョトンとした牧村さんの顔、そこに見えるひそめた眉、シャープな顎。
これらがこんなに近い位置に存在していたことがあっただろうか。
いや、無い。断じて無い。
それをいくら見てもいいんでしょ?・・・いいんだよね・・・?
素直に嬉しい。
挨拶を噛んでよかったかもしれない。


そんな視線を感じたのか、牧村さんはタバコを吸うタイミングを失って呆然としている。
時折ネイルの行き届いた爪を眺めながら。
それすらも可愛い。愛おしい。
逆に僕が牧村さんのことを吸ってあげたかった。
その不安な気持ちも、僕に対する不信感も、全てひっくるめて大きな麺を吸うようなイメージでチュルチュルと。
こんな薄気味悪い妄想は空間を伝播し、部屋は先ほどよりも深度を増していく。もう僕ですら呼吸が難しいくらいだった。


牧村さん、ごめん。
こんなの、僕も人生初なんだ。
でも、もう自分で自分をコントロールできていないんだ。
きもすぎてごめん。


そんな中で僕はあることに気づく。
牧村さんの左手が胸ポケットに向けて少しづつ移動している。
桜の木を這う虫みたいにゆっくりと、しかし確実に目的地に移動している。
そしてその美しい指がポケットにするりと入りこみ、携帯電話を取り出した。


・・・あてがわないでくれ。
今、着信が来ていないであろう携帯電話を、耳にあてがわないでくれ。
僕から、そして、この雰囲気からの逃避でそんな幼稚な手段を取らないでくれ。
もっとはっきりと、この部屋から何も言わず急に駆け出ていくとか、まっすぐな方法を選んでくれ・・。
僕はそう祈ったんだ。
しかし、祈り、届かず。
牧村さんは苦虫を噛み潰したような顔で、僕に向かって手で断りを入れながら、来てもいない電話に対応し始めたんだ。
奇しくもそれは祈りの動作に似ていた。
少なくとも僕にはそう思えた。


「あ、ごめん。・・はい、もしもし、お疲れ様です。はい・・うん。・・・なるほど!その件は私持ちですので、すぐに向かいますね。はーい。・・・ゴメンね。・・呼び出し。」


ガチャ、・・バタン


浜辺から潮が引いていくように、牧村さんはあまりにも簡単にいなくなった。
波際に残されたのは1人の男。
手持ち無沙汰になった僕は一呼吸置いてから、ゆっくりと胸ポケットに指を進めタバコの箱を取り出した。
牧村さんの一連の動きを頭の中で反芻しながら。


「人生において、幸せと不幸は交互に訪れる」


やっぱりこの言葉の前では人間無力だ。
同期の女性社員と少々時間を共有する代わりに僕は何か大切なものを失った気がする。
少しでも、少しでも一緒にいたい。そんな気持ちを僕みたいな人間が抱いてはいけなかったんだろう。


今日はもう帰ろうかな。・・・うん、それがいいと思う。
こんな精神状態で仕事に向かったところで、ミスをするに違いない。
それこそ、会社が180度傾くようなミスを。


・・・180度はもう寝てるな。会社が。
「会社が寝るようなミス」
どんなミスだろう。聞いたことないもんな、こんな激しい言葉。
錯乱した僕が全社員を食べちゃうとか、まぁ、それくらいのもんだろう。


やばいな。会社回らないだろうな。
人生3回やり直しても償いきれないだろうな。
でもしないって言い切れないな。僕、歯だけは丈夫だし。


よし。
僕は上司に断りのメールを入れて早々に帰宅することにした。
明日のことは明日の自分に任せよう。
こういう時の楽観主義ほど心強いものはないよ、ほんと。


颯爽と飛び出したはいいものの、3月の東京は春を装っただけの冬だった。
厚手のジャンパーをスーツの上から羽織っていても、体温はみるみるうちに低下していく。
これには楽観モードに入っていた僕もイラつきを隠せなかった。


「冬至とか、夏至とか、暦の上では春です、とか、いい加減にしてくれ。実際の季節感とのズレ、エライことになってんぞ、コラ・・・」
こんなニュアンスの理不尽な文句を垂れつつ、前傾姿勢で歩き続ける僕。


しかしこんな状況でも僕は信じていた。
あまりにも大きな不幸を味わった僕には、しかるべき幸福が待っていると。
時間が経てばたつほどその想いは確信をおびていく。
そうなると人間不思議なもので、身体に変化が出始める。
背筋は伸び、口角は上がり、歩幅は大きくなっていく。


「歩こう、ただまっすぐに。」
「こんにちは、真心急便です。」
「私はアスファルトに咲く一輪の花。1m70センチ大の、巨大花。」


そんなポジティブな言葉が脳内に現れては消えていく。
やはり気は持ちようなんだ。
前向きな人間に神様は寛容らしい。


そんな言葉たちに背中を押され、季節はずれの寒さに身体を震わせながら僕は歩きつづけた。
普段の2倍近い時間を要したものの、家まではもうほんの少しだ。
そんな時だった。僕の目の前に自動販売機が現れたのは。


いや、「現れた」と言う言葉は正確じゃないかもしれない。
空から降ってきた訳じゃないし、竹の子のように地面からにょきにょきと生えてきた訳でもない。
たまたま足を止めたところに自動販売機があった。たったそれだけの事が僕の心にさざ波を立てた。


なんの変哲もない自動販売機。
この寒さにもかかわらず未だに「つめた〜い」の表示が輝く、遊び心を忘れない「POKKA」の自動販売機。
しかしこの時の僕には幾千の舟を岸へと導いた、名灯台のように見えた。


反射的に手がケツポケットへと伸びる。
普段ほとんど買い食いをしない僕だけど、ここで温かい飲み物を買わないという選択肢は存在しなかった。
これが先ほどの不幸を払拭する幸せの予兆だと信じて疑わなかった。
腰を少し屈めて一段一段、飲み物をチェックしていく僕。


・・ホットコーヒー
スチール缶の表面には黒塗りのイギリス紳士。パイプをふかしながらコーヒーを嗜んで(たしなんで)いるようだ。
男心をくすぐられるが今は違う。カフェインは求めちゃいない。


・・お茶
老婆が茶葉を手摘みしている、心やすらぐデザインだ。産地は恐らく静岡だろう。
けれど平穏な心持はもういらない。


・・・コーンスープ
等身大のモロコシのバケモノがスプーンを使い、コーンを口一杯に頬張っている。
その身体はほんのりと赤く、頭からは湯気が立ち上っている。
湯気はマンガの吹き出しのような形をとり、その中には「とってもおいしいよ!」の一文字。


少し見ただけで身体が震えた。
他との実力差が伺える圧倒的なデザイン。
これだよ。これ。
僕が子供のころ愛飲していた「THE・コーン」がそこにはあった。
今一番欲しているものをこの自動販売機はちゃんと心得ている。その事が何よりも僕には嬉しかった。
「おまえのことならなんでも分かるぞ。季節外れのこの寒波、それにすさんだ心、そいつを癒せるのはこのドリンクだけだろう?」
ニクいぜ、こいつ。


10年ぶりくらいかな。
久しぶりに握ったTHEコーン、それは妙に温かかった。
冷えた体にもまさって、心が、僕の心がこいつに癒やされたがっている。


プルタブを開け、まだ温度の下がり切らないスープを一気に流し込む。
すぐさま涙が頬を伝った。いや、わからない。実際流れたどうかはわからない。けれど心からは色々な汁が漏れ出している。
うまいよ、本当に。
2秒も経たず、コーンスープは僕の体の中に移動した。
あとに残ったのは適切な重さの空き缶と小さなコーンの残り粒たち。
そうだ、このお楽しみがあるじゃないか。
キュッと音を立て、もう一度缶を握りなおす。


「コーンスープの本当の楽しみはその中身ではない、残ったコーンの後始末だ」


中世の偉人ではない。これは僕の言葉だ。
その言葉通り、残ったコーンの始末に取り掛かる僕。昔を思い出し、胸を熱くさせながら。


今回も簡単なミッションではなさそうだ。
小さな小粒達は缶からでまい、と飲み口の後ろに居座っている。
ようし、やってやろうじゃん。
僕は舌先を上手に使い、コーンを開け口に誘導しはじめた。


チロチロ。
チロチロ。
くそっ、粒たちの守りは強固だ。どいつも空き缶から出まいと各自のポジションを忠実に守っていやがる。
これに煽られ僕もスイッチがはいる。
それならやっちゃおうかな、昔懐かし、「ゴッドシェイク」ってやつを。


缶を再び握りなおし、空き缶を口にあてがったまま天を見上げた。
そのまま流れるように缶の底辺部分をトントンと叩く。
叩かれた振動は的確に伝わり、物理法則に従ってコーンたちがパラパラと音をたてる。
こらこそが、「ゴッドシェイク・神の揺さぶり」


さぁ守りは崩れた。今が攻めどき。
僕はこのチャンスを逃すまいとコーンたちを追い立てる。
舌先はもちろん缶の中に忍び込ませたままだ。
徐々に叩く回数を増やしていく。
カランカランと音を立てる缶、髪を振り乱しながらそれを御そうとする僕。
その姿は血気盛んな野良(のら)サックスプレイヤーのように見えていたことだろう。
しかし、社会人。早退済みの社会人。
さぁ、どう出る暴れん坊コーンたちよ。もう口に入っちまったほうが楽なんじゃねえのかい。
僕は最後の追い立てのために、自分の口を強く缶に押し当てたんだ。
その刹那だった。


ガリっ


嫌な音がした。厚手のブーツでガラスの破片を踏んだ時のような、反射的に冷や汗が出てしまう不協和音。
そして後から追いかけるように鋭い痛みが口元へと走った。
恐る恐る口元を袖もとで拭ってみた。
前歯が、無い。


唖然としようにも痛みで顔が引きってしまう。
なんで?なんで歯が無いの?
微量に垂れる血液からも不穏な雰囲気が漂う。


カラン


空き缶から子気味良い音が響いた。
震える手で恐る恐る寄せて中を覗くと、黄色いコーンに混じって、さっきまでは僕の口内に収まっていた白い歯がそこにはあった。


3月の寒空の下に僕の泣き叫ぶ嗚咽だけがわたり響いた。
その声は遠く離れた会社まで聞こえたんじゃないかな。
牧村さんにも、届いているといいな。


「人生において、幸せと不幸は交互に訪れる」
どんな人間もこの言葉からは逃れられない。
これが本当の意味で僕の中にこの言葉が影を落とした瞬間だった。


そんな僕が会社を興し、長者番付に名前を連ねるほどの大富豪になるのはまたこの先のお話。
社長室の棚には今でもその時の空き缶があったり、なかったり。



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