赤ちゃん

「ぱぱ」

今日のキーワード「ぱぱ」


その赤子には初めから知性があった。


前世からの引き継ぎか、天のいたずらかはわからないが、大抵のことはスラスラと自分の頭で考えることができた。


堪能に日本語を扱うことができたので、生まれてからの出来事もそっくり覚えている。


狭い産道を抜けた時、最初に見えたのは真っ白な天井だった。


まだ粘膜で濡れた瞳を薄く開き、「あれ、ここ病院だ」と赤子は思った。
そして同時に自分がただの赤子ではないことを悟った。
ブッダとキリストのことを思い、彼らも同じ思いをしたんだろうと考えることができた。


しばらく病室を眺めているとあることに気づいた。
大人たち、特に父親と思われる男性が代わる代わる顔を覗き込んでくる。
どの顔にも心配の2文字が見てとれた。


そうか、生まれたての赤子が何も喋らないのは不自然か。
赤子はそう思った。
なので、軽くジャブを入れることにした。


「ぴゅー」


病室に口笛が響き渡った。
言葉ではなく、口笛に託す第一声。
オギャアでは面白くない、ここはクールに決めてやろうという考えからだ。


途端に大人たちの顔色は華やぎ、安堵が体から漏れ出しはじめた。
さっそく親孝行してしまったと赤子は思った。


月日は流れ、母子ともに経過は順調なまま入院生活は終わりを迎えようとしていた。
赤子にとっては何不自由ない入院生活だったが、一つだけ想定外の問題があった。


「口笛を吹きながら生まれてきた子供」として病院内で有名になってしまったことだ。


入院期間中、たくさんの大人が病室を訪れては好奇の目で彼を見つめた。
しかし、そんな期待には応えまいと赤子は口笛を吹かなかった。
赤子には知性があったため、口笛を安売りすることの怖さを感じることができた。


嫌な思いを何度もした。
無理矢理に赤子の口をすぼめさせてくる老人や、誘い口笛で赤子をその気にさせようとしてくる看護師、口笛世界チャンピオンのyoutube動画をゼロ距離で見せてくる老婆など、挙げたらキリがない。
赤子が口笛を吹くというのがそんなにも珍しいのか、他に面白いものを知らないのかこいつらは、と悔しさで枕を濡らす夜もあった。


しかし、そんな入院生活もあと数日。
赤子は陰鬱な気持ちを外の世界への憧れで発散させることにしていた。
「退院したら早速何かの研究にのめり込もう。ハーバードに最年少で入学して世界的な発見をするんだ」
赤子の大志は病院の窓を飛び出しアメリカへと伸びていった。


季節が初春に近づく頃、退院の日が訪れた。
病院という閉塞空間からの解放、それは赤子の顔をいつも以上にふやけさせた。


「桜咲き 赤子の手にも 血が通う」


心地よさがそうさせたのか、赤子は頭の中で門出の一句を読んだ。
なんだか旅立ちにふさわしい気がした。
両親は何やら退院の手続きをしているらしく、看護師の腕の中でゆったりとその時を待った。


その時、外の騒がしさに気づいた。
人工的で、温度が高い、病院では起こり得ない種類の騒がしさ。
まだすわりきっていない首で音のする方へ首を向けると、メインエントランスの外に人混みが見えた。


マスコミか。
赤子の体がひやりとこわばった。


まさか、自分が口笛を吹くことができる危篤な赤子だということが漏れ出ているのか。
両親を信用していないわけではないが、自分の愛しい子供が素晴らしい才能を持っていることに気づいた親が広くその才能を披露したいという気持ちになるのも想像はできる。


しかし、憎らしかった。
自分という才能を簡単に漏らした両親を恨まずにはいられなかった。
その矛先を簡単に限定してしまうような行為が許せなかった。


そんな思考の最中に両親の手続きが終わり、赤子は母親の懐にすっぽりと収まった。
しかし、心までは絶対に収まるまいと思う赤子がいた。


医師と看護師に祝福され病院の外に出た瞬間、嬉しくない祝福にさらされることとなった。


「こんにちは、朝日放送です!」
「週刊テラマザーです!」
「現代口論の母です!」
「芸能事務所マッシュルームです!」


やめてくれ


「口笛が吹ける赤ちゃんということで、是非取材をさせてもらいたいんですけど!」
「第一声が口笛だったとお話を伺っているんですけどっ!」
「やはり将来は口笛吹きとしてパフォーマンスをして欲しいとお考えなんでしょうか!っ」


僕にはやりたいことがあるんだ


「本事務所でお子さんを預かりたいと考えているんですけど」
「そこんところどうなんでしょうか!」
「必ずお子さんのためになりますよ!」
「どうでしょう!」
「大スターへの階段を是非うちで!」


食い物にしないでくれ


「すみません」
父が言った。
父の声を、この時に初めて聞いた気がする。


「非常にありがたい話なのですが、いずれもお断りさせてください」
ぴしゃりと言い放った。
さらにことばを続ける。


「いろいろ相談したんです。だけども、この子の将来を限定するようなことは、したくないなぁ、そう家内と話したんです。なぁ」
コクリ
母の頷きはその腕の振動から伝わってきた。


「なので、ありがたいお話ではあるんですが、本当にありがとうございました」
父と母はそう言い残し、足早に病院を後にするため車に乗り込んだ。


残された人たちは理解できない、と言った面持ちでこちらを見つめることしかできなかった。


赤子は深い感謝を述べたかった。
心からの感謝を。
しかし、このタイミングでスラスラと喋り出すことは両親を狼狽させることも理解できていた。


なので、赤子は初めて泣いた。
声を上げて泣いた。
この世に生まれたこと、この両親の元に産みおちることができた幸運とに敬意を評して泣いた。


父と母はそんな赤子の顔を覗き込み、優しい顔で微笑んだ。


赤子はおそらく自宅に向かうであろう道中の中で、一つだけ心に決めた。


初めて喋るその時には、「ぱぱ」「まま」その二つの言葉を同時に発音することを。


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