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「こうちゃん」1/3000

今日のキーワード「当たり前」

地元に帰る各駅列車の中で、窓際にほおづえをつきながら、こうちゃんのことを思い出してみた。

こうちゃんのことを”ふと”思い出すことはほとんどない。
いつも「思い出すか…」と口にしてみないと思い出せない。
能動的に思い出そうとしない限り思い出せないということは、あまり喜ばしくない記憶として脳内に保存されているんだと思う。

だから今日も「思い出すか…」と小さな声で口にした。
目の前に座っている女子高生がちらっとこちらを見た。
何も危害を加えるつもりはない。
僕はこうちゃんのことを思い出す、ただそれだけのこと。

元気な時にこうちゃんを思い出すことは少ない。ほとんどない。
今日も疲れている。
疲れていたからこそ、こうちゃんのことを思い出すことができたのかもしれない。

こうちゃんはいいやつだった。
すばしこっく動き、よく転んでは、
いつも鼻水をTシャツの裾(すそ)でふいた。
そして、まだ乾ききっていない、鼻水のついた裾をまじまじと見つめだし、口にくわえてしまうのがこうちゃんだった。

「何で鼻水舐めるの?喉乾いてるの?」
僕はこうちゃんが鼻水を口に含むたびに、こんな言葉でからかった。

「今日の鼻水は、うまいんじゃないか、そう思ったんです」
こうちゃんは僕に歯を見せないように笑い、いつも敬語でこう答えた。

そんなこうちゃんは元々転校生だった。
教室の真ん中で、もぞもぞと股間をいじりながら、こうちゃんは自分がどこから引っ越してきたのか、下を向きながら口にした。
「何で恥ずかしがってるんだろう、この人は」
そう思った。
その当時都内から出たことのない僕にとって、こうちゃんの住んでいた場所は地図上のどこか知らない場所だった。
江ノ島も北海道もアフガニスタンも、中央線ボーイの自分にとっては、まるっと同じ引き出しに入っているどこか遠い場所でしかなかった。
だから何とも思わなかった。
恥ずかしがる理由は少しもわからなかった。

そのあと、こうちゃんはすぐにクラスメイトに囲まれた。
転校生特有の、よるべのない雰囲気をクラスメイトたちは面白がっているように見えた。
気分が悪くなった。
「…スニッカーズに群がる、アリかよ」
こうちゃんに群がるクラスメイトを目の端に置いたまま、僕はボソッと呟いた。
小学四年生にして、すでに深夜ラジオに手を出していた僕は少しスレた子供で、今では恥ずかしくなるような言葉遣いもバンバンしていた。

急にこうちゃんは立ち上がった。
投げかけられたクラスメイトの質問を無視したまま、こうちゃんは僕に向かってきた。
「今、スニッカーズという言葉で、ツッコミましたか?」
こうちゃんは興奮している時、顔をすごく近づける。
この日もとても近かった。

「そうだけど…」
こうちゃんの荒い吐息がまつげに当たるのを感じた。
けれど、ちっとも不快ではなかった。
こうちゃんとは長い付き合いになりそうだと、体が予感していたのかもしれない。

「あなたの奴隷になります。言葉の使い方に惚れました」
こうちゃんは真っ直ぐな目で僕の瞳を見つめた。
こうちゃんの瞳はとても蒼かった。その蒼さからTVで見た事のある、江ノ島水族館の展示ブースが頭によぎった。
こんなに蒼い瞳を持った人を、僕はこうちゃん以外に知らない。
それは今も変わらないし、蒼い瞳をしているという理由だけで、当時の僕は簡単に人を信じることができた。

その日から、こうちゃんは僕の奴隷になった。
辞書で調べてみると奴隷という言葉はあまり良い言葉ではなかったが、僕の使い方次第だと思った。
だから、僕はこうちゃんのことを「言うことを聞いてくれる友人」と思うことにした。
この話をこうちゃんにすると、
「さすがですね。脳内で言葉を変換して再構築できる人はそう多くはありませんから。」
そうさらりとした口調で言い放つと、またTシャツの裾で鼻をかみ、口に含んだ。

こうちゃんは最初から僕に敬語で喋りかけた。
こうちゃんの頭の中では「奴隷」と言う言葉から真っ先に連想したのが「敬語」だったんだと思う。
僕も悪い気はしなかったので、一度もそれについては言及しなかったし、正そうともしなかった。
言うことを聞いてくれる友人の口調は敬語。それでいい。その程度の認識だった。

学校帰り、僕とこうちゃんは夜が更けるまであたりを歩きほうけた。
僕らの住む地域は都内といえども自然が豊かだったし、歩きほうける理由はそれだけで十分だった。
今思い返すとゲームばかりやる小学生にはなりたくなかったんだと思う。
面白いやつほど外を見ている。それが僕とこうちゃんの共通認識だった。

そんな僕とこうちゃんを様々な景色が出迎えてくれた。
その中には、黄金色に広がる夕暮れの空があった。
どこまでも続いて見える、田んぼのあぜ道があった。
少し手を伸ばせば届きそうな、冬の星座がはっきりとあった。
その景色の横にはいつもこうちゃんがいた。
いつも鼻水を舐めていた。
だから、今でもその景色のことを思い出すことができる。

その豊かな自然の中で、僕とこうちゃんを最も虜にしたのが「ペニスの森」だった。
ペニスの森、通称ペニ森(ぺにもり)は僕らの憩いの場所であり、お互いの持っている知識を見せ合う、いわば図書館のような場所だった。

ペニ森の中心部には大きな切り株があり、
子供二人が抱きかかえても手が回らないほど大きな切り株を、僕らは「ペニ株」と呼んだ。
ペニ森、ペニ株と呼ぶには訳があった。

その日はこうちゃんがやたら鼻水をふいていた。
ひどく空気の澄んだ、冬の1日だったと思う。

僕らはある儀式を思いついた。
それは絶対口外してはいけない、奴隷と主人だけの秘密の所作だった。

「こうちゃん」
「なんですか、ご主人」
片方の膝を地面につけ、僕を見上げながらこうちゃんはこう言った。
もうすっかり定着したご主人という呼び名にはもう臆さない。

「僕とこうちゃんだけの、秘密の儀式、思いついたよ」
「どのくらいの秘密ですか?親に言っちゃいけない程度の秘密ですか?」
「いいや、もし漏洩したら国防省がひっくり返るくらいの秘密」
「さすがですね。国防省の、と頭についたら僕が喜ぶことをしっかり知ってらっしゃる。さすがです」

この頃になると、こうちゃんがどんな言葉を使えば喜ぶのか、僕は知りすぎていた。
さらに畳み掛ける。

「この秘密の儀式はね、昨日の夜、ランドセルを拭いているときに思いついたんだ」
「それはそれは」

こうちゃんはこのランドセルシリーズが大のお気に入りだった。
小学生の男子でランドセルを大事にしている奴はいない。
そんなひねくれた思い込みから派生したウソで、
こうちゃんは僕が週に一度はランドセルにワックスを塗っている、最高にパンクな奴だと思い込んでいた。

「この儀式はね、まず、この切り株にペニスを出すんだ」
「なるほど」
「そして、お互いのペニスの長さを切り株に刻むんだ」
「毎日ですか?」
「いいや、一年に一度だけ」
「なるほど。七夕みたいなものですね」
「そう、これは七夕みたいな年間行事なんだ」

こうちゃんと僕。奴隷と主人の間に、これ以上の言葉はいらなかった。
満足そうなこうちゃんの顔を見れば、僕の思惑が一から百まで伝わっているのが見てとれた。

「ご主人、これはペニスの長さが切り株の中心に達した方の勝ち、ということでいいですね?」
「そうだよ、こうちゃん」
「あいわかりました。私のペニスの長さから、先に刻みつけさせてください」

僕らはその日から毎年、切り株に自分たちのペニスの長さだけ、印をつけていった。
ペニ森、ペニ株の呼び名の秘密はこれだけだ。
所詮小学生のつけた名前だと、今では思う。

秘密の儀式は毎年続いた。
小学生のペニスの成長スピードなんてしれたもの。
毎年ペニ株に増えていくキズを見てもほとんど横一線で、中心地に達することなんてできるはずないと、心の何処かではずっと思っていた。
でも、楽しかった。
誰かと秘密を共有することがこんなにも心震える時間になるなんて。
その相手が自分を盲目的に信じる奴隷だったなら、なおさらのことだ。
一人では生きることのできない赤ちゃんに歩き方を教えているような、そんな心持ちだった。

けれど、夢はすぐに覚めるし終わる。
時間の流れが荒々しく尖った子供の心を丸く削った。
たった5年間で、高校生になる頃には、僕は一般常識を、身につけてしまったし、それまでの当たり前が、もう当たり前だとは感じられなくなった。
だから儀式を、やめようと思った。

年に一度の儀式の日。
僕らはペニ森のペニ株に集まっていた。
この頃にはもう、こうちゃんとは別の学校に通っていたし、会うのは一年に一回。この日だけになっていた。

「こうちゃん」
「はい、ご主人」
こうちゃんは高校生になっても変わらない、その蒼い瞳で僕を下から見つめた。

「秘密の儀式は、もう終わりだよ」
「はて?ご主人、なぜですか。まだどちらも、ペニ株の中心にはたどり着けていませんよ」
こうちゃんはいつまでたってもこうちゃんのままだった。
それが辛かった。
いつまでたっても鼻水をティッシュで拭くことを覚えない、
純粋なままで生きている、心の清さが憎らしいと思った。

「うるさいな…」
「声量がですか?わたくしめの声量が大きすぎましたか?…しぼりましょうか?声、しぼりましょうか?」
「口答えするなよ!奴隷のくせに!」

僕は両足を高速に前後運動させた。走った。
走って走って、ペニ森を抜け出し、後ろは振り返らなかった。
こうちゃんがこないこともわかっていた。
とにかく、ずるかった。当時の僕は。

こうちゃんはその2年後に逮捕された。

「男性器丸出しの男が郊外の森で逮捕」
「その男が森を遠足中の幼稚園児に罵声を浴びせかけ、失神させた」
「その男は高校生らしく、実名は出ないらしい」
「捕まるまでずっとご主人、ご主人と叫んでいたらしい」

これらは全てネットの掲示板に掲載されていた、ただの文章だ。
僕以外の人間にとっては。
でも僕には十分すぎた。
こうちゃんが、僕との約束を守り続けたせいで捕まったんだと。
こうちゃんは主人の言うことに従順な奴隷だった。いや奴隷がすぎた。

少し考えればわかるだろうに。
自分の将来とチンケな上下関係から生まれたご主人様の言葉を天秤にかけて、なんで毎年ペニスの長さを切り株に記録していく、汚い七夕行事の方が勝っちゃうんだよ。おかしいよ、こうちゃん。

「一人の人間の尊厳と、未来を奪ってしまったのかもしれない」

声が聞こえる。
自分の声ではっきりと発音されたこの言葉が波紋のように脳内に広がって行く。

「一人の人間をおもちゃのように扱って自分だけ何もないわけないよな」

わかったって。
もう、あれ以来誰と喋っても敬語を使わないと喋れないんだよ。
こうちゃんの主人だった僕は、今では僕以外の全員の奴隷なんだ。

これだから、こうちゃんのことを思い出すのは嫌だ。
元気な時じゃないと思い出せないのはこのせいだ。
今日もとても疲れた。

意識は電車内に戻っていく。
乗車していた人が随分と減った気がする。
都心の駅は過ぎ、どうやら地元の駅に着いたようだった。

疲れを引きずりながら僕は駅のロータリーを通り、駅前通りを流し見しながら歩いた。
タクシーを拾おうかとも思ったけれど、すんでのところで辞めた。
今日はペニスの森に向かうだから車でいっちゃいけない気がした。
当時の自分とこうちゃんに申し訳ない気がする。

あれから13年間。
生きた心地がしなかった。
この気持ちをぬぐい去るためにはペニスの森に向かわなければいけない。
お前はペニスの森のペニスの切り株に自分のペニスを押し付け、刻みつけなければいけない。
そこで整理をしなければいけない。
ずっと脳内で声がしていた。

ペニスの森に向かう道中には、あの時こうちゃんと見た、美しい風景がまるであの時と同じように眼前に迫ってきた。

黄金色に広がる夕暮れの空があった。
どこまでも続いて見える、田んぼのあぜ道があった。
少し手を伸ばせば届きそうな、冬の星座がはっきりとあった。
でも、こうちゃんが横にいない。
僕が奴隷扱いしていた、なんでも言うことを聞いてくれる、唯一の友達。

一年のうちのあの日を選んで、ペニスの森を訪れた。
誰もいないはずだった。
ペニスの切り株、ペニ株の前に人影があった。

剃りたてに見える坊主頭。
視線を下げると白のワイシャツ、茶色のチノパン。
大人の服装をしているはずなのに、その後ろ姿にはどこか少年の雰囲気を感じた。
僕の視線を感じてか、その人がゆっくりと振り返る。

「…お久しぶりです。ご主人」

こうちゃん。

「…出て、たんですね。もう」
敬語が、抜けない。
こうちゃんに対しても、敬語が抜けない。

「ご主人。奴隷に敬語を使うのは、その奴隷が死んだあと。その葬儀の最中だけ。そう、決まってるらしいですよ」

こうちゃん。
ごめんね。
僕はこうちゃんほど、自分の言葉にもう自信が持てていないかもしれない。

「大丈夫です。わかります。一旦、ペニ株に、来てみませんか?」
こうちゃんは優しく微笑みかけ、僕を手招いた。
その瞳はあの時と変わらない、真っ青な蒼さを残していた。

手招きに応じ、頼りない体重移動でこうちゃんの肩にたどり着く。
そのままペニ株をのぞいてみると、線が、印が、僕の記憶にはないほど、たくさんに増えていた。

「毎年です。毎年やるっていうところに心を惹かれたんです。毎年やるから祭りにも人が集まるんです。どんな行事でも、毎年一回やると決めた瞬間に、それは特別な力を持つんだと、そう思っています」
こうちゃんはそう言うとズボンのファスナーを開け、ペニスを取り出すと、ペニ株に押し付けた。

その動きには何も迷いはなかった。
毎年何かを続けて来た男の神々しさが溢れ出ていた。
一人になっても、一度は捕まっても、続けて来たからそんなにかっこいいんだね、こうちゃんは。

僕は涙でむせ返りそうになりながら、もう一歩、こうちゃんに、ペニ株に歩み寄ろうと思った。
ポタポタとペニ株の上に僕の涙が溢れていった。
こうちゃんはその雫をワイシャツの裾で丹念に拭き取る。
ありがとう、こうちゃん。

2人のペニスが13年ぶりにペニ株に並んだ。
二匹のニシキヘビが冬眠前最後の食事に出かけ用としているところ、そんな風にも見えたし、ただペニスが並んでいるだけにも見えた。
でも、すごく自然な事のように感じた。

「こうちゃん。どっちが先に印つける?」
自然と敬語は抜け落ちた。

「そうですね。いつも通り、私が先に刻みつける形でよろしいでしょうか?」
こうちゃんが笑った。
僕も笑った。
二匹のニシキヘビ、もとい2人のペニスも笑った。

多分今、僕とこうちゃんは同じことを考えているだろうな、と思った。
そう思いながら目配せしてみると、
「当たり前じゃないですか。奴隷はご主人の考えなんて先の先まで見えてますよ」
そう言いたげな清々しい顔がそこにはあった。

「どちらかのペニスが切り株の真ん中に達するまで続けよう」

その言葉を胸に、僕らは13年ぶりに、ペニ株に印を刻んだ。
どこまでも伸びていくような、そんな予感がそこにあった。

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