見出し画像

私は「私」のまま生きることを決める

最近ようやく、この社会での生き方が分かってきた。
それは、私は私のままで生きていいこと、そうすることが、回り回って世界を救うかもしれないってこと。
いきなり大きなこと話しすぎじゃないか?となるだろう。私もそう思っている。
でも単純な話、例えば好きな食べ物があれば、好きに食べて良いということだ。そうすれば、自分はハッピーになれるし、その食べ物を作ってくれた人も幸せにできるのだ。

今までは、社会が提示していると私が勝手に思い込んでいた「普通」に自分を押し込めて、
自分の中にある「普通」でない部分に嘘をついて、生きてきた。
けど、社会を見渡してみると、みんな「普通」に見えながら、実に面白い人も多くて(変な人、という意味じゃないよ。uniqueということ)。
(もちろん、世の中の一定のルールは守ることは前提としてだが、)その面白さを堂々と示して、それを通して周りを幸せにしている人もいた。

上の例え話に戻る。好きな食べ物を我慢して生き続けると、それを作っていた人の生活が苦しくなり、その食べ物は作られなくなってしまうかもしれない。
その際、ただ自分だけが我慢していたと思ってたとしても、実は同じ食べ物が好きな人もいたかもしれない。その食べ物が売られなくなることで、私も、その生産者も、そして私からは見えていなかった「誰か」も、悲しむ可能性があるのである。

もちろん、好きな物を食べることで、「何でそんな物が良いのか」という人もいるかもしれない。
けど、私が食べることで、「おいしそう」とか、「何あれ!」と興味を持ってくれて、その食べ物の良さが広まるかもしれない。
そしてその食べ物がポピュラーになれば、私はもっとその食べ物が食べやすくなる。

別の例え話。よく買い物で、お店の中に誰もいなくて入りにくいけど、勇気をもって入ってみたら、
私に続いてぞろぞろと他の人が入店しだした。そんな時もあった。

もちろん、私は「普通」とは相容れないものばかりで構成されている。
それは、誰かにとっては脅威に映るだろう。現に私は過去にいじめられたこともあった。でも今の私は、いじめられたことに対して、未だに傷つく気持ちはあっても、あの時の自分を否定する気は無い。
私を押し殺すこと、それは、何よりも私の中に居る、この「私」自身が悲しむし、「私」だけでなく、私と似た「仲間」たちが生きづらい世の中になってしまう。

何か革新的なことを起こす気は無い。
でも自分が自分であることは、この人生を通して証明してみたいという夢がある。
それが許されないのならば、私という「個」はこの世に生を受けなかったはずだ。

自分らしく生きることで、喜んでくれる人もいるし、誰かが生きやすくなったりすることもある。
私を脅かすものは何も無いし、あったとしても、わざわざ目に入れて相手にする必要は無い。自分を幸せにすること以外に割く時間があるほど、人生は永く与えられていない。
私は私として、私と、私と共に居てくれる大切な仲間を幸せにしたい。ただそれだけである。

だから、これからは「自分」として、「自分でない」何かと戦う私を辞めて、この世の中に対して堂々と生きていきたい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?