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人生に大それた目標など、要らないのかも

社会人になってから続いていた、漠然とした不安。

学生の頃は、受験とか、節目節目に分かりやすく目標となるようなことがあって、それに向かって努力さえしていれば(私の場合は)良かった。

でも社会人になって、自分が決めない限りは同じ会社で、もちろん時期によって重い仕事とかはあるけれど、
毎日このような日々が続くんだろうな、という実感はある。

優等生であった私は、この日々に、何を目標に何を目指して生きていけば良いのか、分からなくなったのである。

学生の頃は、勉強していれば良い成績が付き、それが学校入学への切符になったりもして、分かりやすい仕組みであった。

一方で社会では、もちろん仕事できる・できない(適・不適)はあるかもしれないけれど、
それよりも、長く穏やかに、自分なりに良い仕事を続けることが、求められている気がしている。
評定などはあるけれど、学校の成績ほどしっかりと数値では示されない(もしかしたら年次が上がったら、また変わってくるかもだけど)。

そう考えると私は、数値や目に見えるもの・見え方にとらわれて生きてきたのかもしれない。

でも、優等生であった私も、もし今の会社で、明確に数字で成績が示されるようなことが行われていたら、ちょっとしんどくなりそうな気がする。
きっと、他人目線よりも、自分目線で自分のことを見たいという気持ちが、今はあるのだろう。

私は歴史が好きで、よく子供の頃は偉人漫画を読んでいた。
でも大学に行って感じた・学んだのは、そういった教科書に太字で乗るような人々はひと握りで、それ以外の、「そうでない」人々のほうが大半であること、それらの人々によって、世の中が作られていることである。

別に社長になったり、何か発明する必要はない。
それに、中には本心とは別に、頼まれて社長をやってる人もいるかもしれないし、
別に有名になりたくて、発明するわけじゃないんだと思う。

歴史の教科書に載る的な「特別」じゃなくて、
自分がありのままであるという「特別」がきっと重要で。

今年の私にとっての目標は、「××を成し遂げる」とか、背伸びした目標じゃなくて、
「毎日を幸せに生きる」、それぐらいで良いのかもしれない。
学生の頃がんばったからこそ、今の自分がいる。
だから今は、自分のこと、労わってあげたい。

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