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傷つく技術

 歳を重ねるごとに傷つきやすくなっている気がする。これはおそらく、傷ついていることを以前よりもはっきりと自覚しやすくなっているのだろう。以前とはいつ頃か判然としないが、20代前半の頃であろうか。それより前のことはほとんど記憶にない。間抜けすぎて傷つくという概念すら知らないのではないかと思われる。

 以前との違いをさらに考えるとするならば、今は傷つくことからそこまで逃げていないのだと思う。以前の僕は傷つくことから逃げ回っていた。壁にぶつかる前に足を止め、方向転換する。しかし方向が定まることは永遠にない。楽と言えば楽だが、苦しいと言えば苦しい。今思えば、何をそんなに怖がっていたのだろうと思う。壁にぶつかるのは確かに痛いけれど、痛みの輪郭を捉えられない痛みの方が今の僕は辛い。これはつまり、傷つくことや痛みを知ることにある種の前向きな受け止め方ができるようになってきたことを表す。これは僕にとって大きな進歩だ。喜ばしい。こんなことで喜んでいる僕は滑稽であろうか?確かに他者から見たらくだらないことだ。

 傷つくことを考える時、やっぱり僕は傷つくことが怖い。できれば傷つきたくないし、そこまで強固な自尊心を身に付けていない。でも今の僕は、おそらく傷つくとか傷つかないとかそんなところで物事を判断していない気がする。もっと根源的な欲求に導かれて行動を起こしているように思う。これは正確に言うならば、傷ついた後に傷ついたことを知るということだ。そんなの当たり前だと思われるかもしれない。しかしこれは僕にとってすごく重要なことだ。多くの人はある種の覚悟をもって対象にぶつかろうとする。そして傷つく。事前にある程度の想定をしていた分、痛みは軽減される。これは見方によっては非常に賢いやり方に思われるが、多分僕の性分には合ってない。何故なら、僕は恐怖が見えた瞬間に萎縮するからだ。それも尋常じゃないほどに。だから僕の場合、ある程度の思考停止状態で物事を遂行するのが望ましい。これは生きづらさと対峙してきた僕が、地層のように長年積み上げて形成した一つのスキルだと思われる。

 これらのことを傷つく技術と呼んでおこう。傷つく技術。こんな不必要な技術はあるのだろうか。おそらく多くの人は傷つかない技術の方が知りたいと思うし、そっちを求めているのではないか。でも今の僕にとっては、傷つかないことよりもしっかりと傷つくことの方が重要だと考えている。物事を真正面から受け止め、その痛みを刺青のように身体に刻み込む。これは痛みを引きずりながら生きることを意味する。痛みをうまく消化させるのではない。身体中で痛みを循環させるのだ。

 僕は、今書いているこの文章を肯定的に見ている。今の僕に必要な言葉が並んでいるし、非常に読みやすい。読みやすいというか、体の中にすうっと入ってくる心地よさがある。今僕は確実に純粋に自分のために文章を書いているという実感がある。正覚を得た、というと大袈裟であるが、達観したような、或いは自己完結的な喜びがある。

 窓の近くで寝ている猫を見る。朝の日差しが猫の毛に反射し、金色の輝きを放っている。恍惚だ。どんなマスターベーションよりも気持ちがいい。僕は目を瞑り、ゆっくりと射精をした。

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