見出し画像

愛と憎しみの野球

野球、見るのは好きだった。

40年以上前、小学生だった時。

毎年夏の高校野球が楽しみだった。PL・箕島の快進撃に心躍った。    テレビはもっぱら巨人戦。王選手がホームラン世界記録に追いつき、追い越そうとしていた。756号のニュース速報は今でも覚えている。       「ドカベン」アニメから入ったクチだ。明訓が弁慶高校に負けた時はショックだった。

野球、するのは・・・、好きになりたくてもなれなかった。

人の想像のはるか上を行く運動音痴だった。

走れない。足が遅い。                        打てない。バットにボールが当たらない。                 守れない。捕球ができない。      

みなさんは、運動が出来ない者にとって野球というスポーツがどれだけ地獄か、おわかりだろうか。

サッカーと比べるとよくわかる。

サッカーをすると、それが公園での草サッカーであれ体育の授業で行う試合形式のものであれ、だいたい上手い奴にボールが集中するので、そうでないものは周りでわちゃわちゃしてたまにボールが来たら即座にそれなりの位置に蹴り返せばいい。よほど変なところに蹴らなければあざけられることはない。ゴールキーパーでもやらない限り「下手な奴でも無難にやりすごすことができる」スポーツなのである。 

ところが野球はそうはいかない。

試合に参加する限り、「打席」というものが回ってくる。上手い下手に関係なくその人一人がフィーチャーされる場面がいやおうなしにやってくる。いくら子どもでも自分が打席に入るときの周りの絶望感は痛いほどわかる。「あわよくば当たれ」やみくもにバットを振り回す。下手なので「スイングする」ではなく「振り回す」である。「ああ、やっぱりね。はい、次」打ちたい人だけ打てばいいじゃないか!とも思うが、打席を飛ばされたら飛ばされたでそれはそれでみじめである。

守りの時も同様である。その人の守備範囲内にボールが来たらその人がボールを捕るしかない。ただ、ゴロにしろフライにしろ基本的な捕球態勢になれないので、捕れないか、変な恰好になりながらたまたま取れるかのどっちかになる。エラーしたら相手の得点に直結するので罪悪感は三振の時以上だ。

これほど自分の運動音痴を思い知らされる球技はほかにない。

わたしのいた地域は小学4年生以上になると町内対抗ソフトボール大会の練習に参加させられていた。ただ、あまりの下手さゆえ、大概試合に出られる最上級の6年生になっても全く試合に出してもらえなかった。女子の選手も大きな当たりをかっ飛ばしていたのに・・・。スポーツ万能なやつはとことんかっこいいこのスポーツ、「野球カースト」最下層のわたしはただただ屈辱にまみれるしかなかった。

小学生のころ、野球人気はダントツだった。昼休み、グランドで遊ぶ、学校帰り、公園で遊ぶといったらほぼ野球。そこで、三振、エラーばかりを繰り広げる。人間、それぞれに得意不得意があり、そこに人としての優劣などないのだが、野球ができる、できないが必要以上に「人としてできるやつ、できないやつ」を判定するものになっていた。「もう、なにやってんだよ」「くりのばか」だんだんと外で遊ばなくなっていった。

嗚呼、野球よ。なぜそんなに絶対的なスポーツだったんだ。好きだったのに、なぜそんなに残酷な球技だったんだ。球が当たったら喜び、捕れたらうれしい。楽しく遊びたかったのに、男の子たち、なぜそんなに遊ぶのにムキになるのだ。女の子を見てみろ、何をするにも楽しく遊んでいるではないか(まあ、ムキになるのが男なのだろうが)。

アスリートになりたかったとは言わない。せめて人並みの運動神経があれば。いや、そんなぜいたくも言わない。野球だけでも人並みにできればよかったのだ。

・・・、なんていう思い出も今こうして楽しく書いている。スポーツができないことも、今は笑い話にできる。スポーツ万能な人間もいい青春を送れたのかもしれないが、わたしみたいな人生もなかなか味があっていいものだ、と50を過ぎてようやく少し思えるようになってきた。

野球下手がこうしてnoteのネタになっている。そんな野球に、今は少し「ありがとう」と言っておこうか。







                  



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?