「まどろむ」×「よく聞こえない」× #8FBC8F
耳元で携帯の震える音が聞こえる。
鼻にしつこいくらいにこびりつく甘い匂いに、思わず眉をひそめた。友人が海外旅行のお土産でくれたトリートメントは、数種類の花の香りがブレンドされているらしい。この調子だと、数日はこの香りに悩まされるだろう。枕にもしっかりと染みついているのが、少し恨めしい。
開かない目でしぶしぶ携帯の画面をのぞくと、十数件のメッセージが届いていた。
「ミサ、話を聞いてほしい」
「起きているか」
「おい」
「久しぶりだからって冷たくない?」
「いつもなら起きている時間だろ。」
「怒ってる?」
ほかにも似たようなものが延々と続く。
「……なにこれ。」
差し出し人には、ユースケの文字。3カ月前に別れた彼氏兼友人である。別れてからは一度も連絡をくれなかったくせに、なんて面倒くさいやつなんだ。ふぅーと、大袈裟なくらいのため息をついてぽちぽちと画面をいじる。
別れた理由も一方的だった。
――好きな人が出来たわけではないけれど、お前はもう友達だと思うんだ。
そんなことを言った次の日には、彼と恋人としてのやり取りは消えていた。
メッセージが届いたのは、深夜3時。今の時間は、6時半。起きているとは思えないけれど、一応……。
ここで甘い顔を見せるからダメなのだと分かっているけれど、情が沸いてしまっているのだから仕方がない。発信を押すと、5コールあたりで聞きなれた声がする。
「……あい」
「昨日の夜中の用件は?」
「……だれ」
「あんたねぇ……夜中にあんなにメッセージ送るなら、記憶くらい確かにしておきなさいよ。私だって暇じゃないの。」
せっかくの休日の二度寝を犠牲にして電話をしてやっているというのに、当の本人はほにゃほにゃとまともに話せない状態になっている。腹立たしいとはこのことだろう。
「あ、あ……ミサ?うっそ、俺ミサに連絡してた?あー」
後悔しているのか、深いため息とともに頭を掻きむしっている音が聞こえる。やっぱり電話しないほうが良かったかも。3カ月間も連絡を絶たれていたことを考えればすぐわかりそうなものなのに。
なんだかんだいって、私にはまだ未練が残っているのだ。彼が私のところに戻ってくれると、胸のそこでは思っている。
大学時代に出会って、それからずっと好きな人だった。彼が恋人を作るところを、ある意味一番近くで見ていたのも私。彼が執着がないのは知っていたけれど、私には少しだけ惜しいと思ってくれているみたいだったからうぬぼれていた。
だから、 私ときっちりと縁を切ることなどないと思っていた。結局、別れ話をされてから昨日まで一度も彼から連絡が来ることはなかったけれど。
最初から付き合わなければ良かった、とか、もう二度と連絡しないでほしい、とか、声が聞きたいとか。とにかく矛盾するいろんな感情がぐるぐると私を襲ってきて、ようやく落ち着いた頃だというのに。
ユースケは、私をいとも簡単に乱すことが出来る。今回、怒涛のメッセージに腹立ちもしたが、喜びのほうが大きかった。悔しいけれど、まだ傷がいえるまでに時間がかかりそうだ。
「……お詫びにさ、ごはんでもどう?」
「え?」
「ごはん。昼とか、空いてる?」
「……空いてるけど。」
「じゃあ、いつもの駅で12時に待ち合わせで。俺、寝るわ。」
私の返事を待たずに、一方的に眠そうな声と共に通話の終わりを告げられる。電子音が耳に響いて、通話時間3分と書かれている。たったの3分だ。
「私もねよ。」
待ち合わせまでまだ時間はたっぷりある。二度寝を決めることに決めて、無理やり布団に潜り込んでちょうどいい大きさのぬいぐるみを抱きしめる。
悩むだけ、無駄だ。
寝れば元気が湧いてくるなんて言っていたのは誰だっけ。それについては大いに賛成。寝れば、何でもできる気がしてくる。朝っぱらからしょげてしまったこの気持ちも、寝てしまえば忘れられるだろう。
「いや、ほんとうにごめん!」
約束の時間に待ち合わせ場所に行くと、首もとがよれているTシャツにデニムといういつもの恰好で携帯を眺める彼を発見した。適当な挨拶を交わして、昼からも営業している大衆酒場へと連れていかれる。
オシャレな恰好なんてしてこなくて良かった。デニムに3年は着ているブラウスを合わせると、なんとなく気取っていない感が醸し出せる。正直捨てようと思っていたところだったけれど、こんなところで役に立つなんて。面倒がって捨てなかった数日前の自分に感謝だ。
「……別にいいんだけど、さ。どうして、いきなり連絡してきたわけ?」
目の前に置かれた薄いグリーンの瓶に入ったビールに口をつけて思い切り煽る。グラスに注いだビールをちまちまと、気まずそうな顔をしてユースケはすすってへらっと笑った。
「いや、彼女がね。」
「……彼女?」
「うん。彼女と結婚、しようかと思ってさ。」
ぺらぺらの笑顔を見せたユースケへの感情を持て余して、胸の奥が鈍く痛む。
「ちょ……っと待って、ごめん、ちょっと聞こえなかった。」
都合の悪い言葉を、周りの喧噪のせいにして聞こえなかったふりをする。だって、私たち別れてそんなに経ってないし。それに、聞き間違いかもしれない。
「……結婚しようかと思って、プロポーズした。それで、保留にさせてって言われて、こうガーンと頭殴られたみたいになって。」
いやいや、今そんな衝撃を受けているのは私だって同じだ。それに、彼女だって同じようなものだろう。数カ月付き合ったばかりの彼氏にプロポーズって……。若い子なら考えていなかったことだろうし、保留と返されるのも納得だ。
「で?なんで、私に電話してくるわけ?この3カ月一度も連絡なんてしてこなかったじゃない。」
「あの時間に起きてそうな人がミサ以外に思いつかなかった。」
「……それだけ?」
「うん。なんで昨日は起きてなかったんだ?」
悪びれもなく返事をしてくるユースケが憎たらしい。
「なんでって……昨日は疲れてたから、早めに寝ただけよ。」
「今までのお前なら、金曜日なんて朝まで映画とかドラマ見たりとかしてただろ。」
起きていると、あんたと別れたこと考えるからよ、なんて言えない。
それに、疲れていたのは本当だ。数カ月動いていたプロジェクトがようやく終わったのである。昨日は達成感と共に、軽く酒を飲んで早々に眠りについたのだ。
「……別に、関係ないでしょ。最近、忙しかったし休む時間が欲しかっただけ。」
お前は体力だけが取り柄なのにな~とのんきそうに笑う、目の前の元カレが恨めしい。これでも嫌いになりきれない自分は、もっと恨めしい。
「……彼女とは付き合ってどれくらいなの?」
「お前と別れてすぐだから……3カ月弱?くらいか?」
「ご年齢は?」
「23歳。今年、新卒で入ってずっと面倒見てた。髪は肩より少し長いくらいで、服装はフレアスカートとか。かわいいよ。」
「聞いていない情報まで細かくどーも。」
幸せそうな顔をした彼を横目に、つまみで頼んでいたカニ味噌を思い切りほおばってやる。しょっぱいけれど、贅沢している感じがしてすごくいい。腹が立つのは変わらないけれど。
「そんな若い子捕まえて、さっさと結婚しようとするのはズルい。逃げられても仕方ないし、普通に怖いわ。」
「そういうもんなのか。」
「そういうもんなのよ。そして、そんなくだらないことを元カノに相談しているのも普通にアウト。あんたは、もう少しやさしさっていうものを持ち合わせたほうがよさそうね。」
残ったビールを一気に煽って、財布から2枚ほど紙幣を出してユースケの前に差し出す。
「帰るわ。中途半端に食べたせいで、余計にお腹すいてきた。」
「は?……いや、お前俺のはなし聞いてくれるって。」
「言ってない。時間と場所だけ言われたから、待ちぼうけ食らわせるのもかわいそうかと思っただけ。」
荷物をがさがさとまとめると、本気で焦りだしたらしい。
「ちょ……マジで怒ってる?」
掴まれた手首を軽く振り払って、軽く笑う。
「怒ってない。呆れてるだけ。……怒らないから、一つだけお願い聞いてもらっていい?」
「……なに?」
「私を、今までの元カノと同じに扱って。いつもみたいに連絡先を消して、あいつとはもう会わないって言いきって。私、ユースケからの特別扱いに優越感を覚えてたのね。ほかの子たちと私は違うって。でも、こうして会って思った。付き合ってるときも多分そうだったけど、私はあんたのなかにある隙間を埋めるための“つなぎ”に利用されただけね。」
気まずそうに笑うユースケは目を合わせずに小さく頷いて分かったとつぶやいた。
「……かわいい彼女、大切にしてね。」
そういうとユースケは耳たぶをつまんで、うつむきながら小さく笑う。自分が悪いと自覚したときに出る彼の癖だ。なんだ、気づいていたのね。
一回り小さく見える彼を残して居酒屋から出ると、太陽がさんさんと照っていてちょうどよい風が首元をかすめる。
こんな清々しい天気だったっけ。
「カレーでも食べて帰ろうかな」
家の近所のカレー屋を思い浮かべて、駅へと向かう。ランチタイムにはまだ間に合うだろう。
たくさん食べたら、夜までに部屋にある彼との思い出を全部捨てよう。
そして、明日はお気に入りの映画を観ながらスナックを貪ってやるのだ。
とりあえず、私は一人を楽しむことから始めたい。これまでは、ずっとユースケ中心の生活だったから。
彼の存在を消すところから、私の本当の生活は始まるのだ――なんて、ちょっと大げさかな。
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いよいよ6月が始まってしまった。多忙へのカウントダウンが始まって、自分の体力のなさに日々、戦々恐々としております。あ~寝るだけで稼げるシステム私に適応されないかな~~
公式サイト「花筐」
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