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「やっちまった」×「どら焼き」× #8b968d

 竹中隼人は落ち込んだ。

『さとちゃんが風邪を引いたので、今日の約束はキャンセルさせてください。本当にごめんなさい。』

 彼が、内藤みゆきにいわゆるデートに誘い始めてから約3カ月。ようやく漕ぎつけた約束だった。しかし、同居人である中川さとみが寝込んでいるというのなら、それを責めるわけにはいかないだろう。隼人は、今頃献身的に看病をしているであろう彼女を好きになったのだから。

 隼人と中川さとみ、そして今回のデートの相手である、みゆきは中学時代の同級生である。さとみとみゆきは家が近所で、幼馴染という間柄らしい。どんなときも白黒はっきりさせようとするさとみと、ふわふわとした笑顔とおっとりとした話し方が印象的なみゆきが一緒に住むほどに仲がいいというのは意外だったが、二人で話しているときの彼女たちには中学時代から近づくことはできなかった。それくらいに、彼女たちのまとう空気は誰も寄せ付けないくらに完璧だったのである。

 急に暇になった隼人は、一週間前から悩みぬいて決めた服を放り投げて、ベッドの上に無残に脱ぎ捨てられた部屋着に着替える。

「あー……」

 そのままベッドに身を投げると、昨日の残業の疲れが残っていたのか瞼が重くなる。いいや、どうせ……今日の予定は消えてしまった。抗う理由もなく、瞼を閉じてそっと意識を手放した。

 チャイムの音と同時に教室がざわつく。挨拶まだなんだけどなーと先生も苦笑して、明日から春休みだからなと大きな声で言うと教室から出ていった。修了式のあとのHRはほとんどやることはない。春休みの注意事項を聞いて、成績表が渡されるくらいで、ほとんどは自分の机で近くに座る友人たちと思い思いに話していた。

「な、隼人、成績どうだった?」

 前の席に座っている長谷川が、うずうずした様子で声をかけてきた。きっと、前回よりも成績が上がったのだろう。といっても、長谷川の前回の成績は後ろから数えたほうが早かった。見せびらかされても、イラつくことはないだろう。

「ふつー」

 可もなく、不可もなく、である。母に言われてしぶしぶながらも勉強した成果が出たらしく、成績は微妙に上がっているものの胸を張れるほどでもない。隼人の返事を聞き終わらないうちに、長谷川が成績表を奪って自分のものと見比べている。

「つまんねーの」

 勝手な感想にムッと来たものの、それに言い返すほどの熱量を持っていない。返事を返すこともせず、窓際の一番後ろの席で話す女子の姿を眺めていた。

 中川さとみもみゆきも、このころから二人は変わっていない。二人と再会したのは、べたな話で恥ずかしいが同窓会である。隼人の顔を見て、少し嫌そうな顔をしたさとみは、中学時代の、みゆきに対する自分の恋心を知っていたのだろう。だからといって協力するでもなく、口を出してくることもなかった。

  とのデートの約束を取り付けたとき、何かを言われたのではないかと反応を聞いたが、さとみは興味がなさそうだったと不思議そうな顔でみゆきが答えた。

 さとみもみゆきもスカートは膝丈という校則を律儀に守り、さとみは長い髪をきっぱりとしたポニーテールでまとめていた。身長が高いわけでもないのに、すらっと見えるのは彼女の持つ雰囲気のせいかもしれない。そういえば、と思い出す。みゆきは、中学時代はショートカットだった。今では長い髪にふわふわのパーマをゆるくかけている彼女からは想像がつかない。それでも、彼女はどんな髪型でも柔らかい雰囲気は変わらない。

 3月の日差しは柔らかく、彼女たちを背中から包み込んでいた。少なくとも、2週間は彼女たちの顔を見ることはできない。誰にも気づかれないように、そっとため息をつく。小さく吐いたその息は、教室の喧騒のなかに紛れていった。

 ぽよん、と気の抜けた機械音で目を覚ます。手探りでケータイを探して、時間を確認すると14時を10分ほど過ぎたころだった。さすがに寝すぎたか、と少しだけ倦怠感が残る身体を伸ばして、届いたメッセージを確認する。

『今日のお詫びのものを、さっきドアにかけてきました。お留守だったかな?』

 隼人は急いで玄関のドアを開くと、渋いグレーの紙袋が音を立てて目の前に現れる。……ドアノブに引っかかってたから落ちたのか。大きくため息をついて紙袋を拾うと、白い少し大きめの箱が入っているのが見える。

 部屋のなかで箱を拾うと、どら焼きが2個、マロンパイやらが4個と、一人暮らしの男では持て余しそうなラインナップの詰め合わせである。とりあえず、どら焼きは食べるか。作り置きの麦茶を勢いよくマグカップに注いで電子レンジに放り込む。暖かくなってきたとはいえ、まだ肌寒い。

『どら焼き、ありがとう。好きだからうれしい』

 自分が打った何気ない“好き”に、隼人の胸はドキッと音を立てる。それはときめきというよりも、恐怖といった感情のほうが近いかもしれない。こんなに意識しているのは自分だけだというのが分かっているから、こんな気持ちになるのだろう。少しは気にすればいいのに、と意地悪に考えて、そのままメッセージを送る。麦茶が温まったという合図と同時に、みゆきからも返信が届いた。

『よかった。隼人くんは寝込んだりしないように気を付けてね』

 彼女は、さとみが眠っている間に来てくれたのだろうか。前に一度だけ、DVDを貸すという名目で家に寄ってもらったことがある。ぼんやりとしているように見えて、彼女はそのときの道を覚えていたのだろう。2駅ほどしか違わない場所にある彼女の家を、隼人は知らされていないが、1時間もかからずに来れることくらいは分かる。

『わかった。ありがとう』

 どうしても簡素になってしまうメッセージにがっかりしながらも、仕方ないだろうと大きくかぶりをふった。

「……俺が具合悪くなったら、内藤が看病してくれない?とか」

 とか。隼人は自分の声に赤面して、どら焼きをぬるい麦茶で流し込んだ。そんなことを言える度胸があるなら、中学時代にみゆきに告白しているだろう。

 小腹が満たされた腹を軽くなぜて、面白いのかも分からないバラエティ番組の再放送を眺める。みゆきは、今頃さとみの看病をせっせとしているのだろうか。

 どら焼きで、今日の予定の埋め合わせがすべて成されるとは思っていないだろう、きっと。しかし、みゆきのことだから分からない。

 迫りくる夕方に向けて、部屋に差し込む日差しは薄暗く、ほのかに赤みが増してきている。次は何と言って誘い出せばよいだろうか。惰眠をむさぼったせいでぼんやりとした頭で、隼人は考えた。

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