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毒親育ちの言語理解はLLM(大規模言語モデル)なのか?

私は文法の理解が乏しい気がします。
英語はもちろん、日本語についても文法理解が苦手です。
今思うと、国語の授業の文法が何の意味なのかがよくわからなかったのです。英語だともっとわからない。学校で習った文型が何かは、当てはめるシステムとしてはわかるのですが、それがどういう意味を持つのか『感覚的にわからない』のです。

ところで今、私はこの場所で文章を書いています。ただ、これは『文法を理解しているから記述できているのではない』と感じています。

では、なぜ文章が記述できるのかといえば、私は幼少期から本を読むのが好きだったからです。大量の文章を読み続けたことで、文体のようなものはなんとなくわかるようになったのです。

それで、なぜ文法が理解できないのか、考えてみました。
結論から言うと、

「私が毒親育ちだから、文法に意味を感じることができない」のです。


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これでは論理の飛躍も甚だしいので、説明したいと思います。

私は一人っ子であり、家庭環境はシングルマザー(毒親)との二人暮らしでした。他人と話す機会はほとんどなく、親の親戚と知り合いだけが『私の他人』でした。

とにかく私の中で他人と接触した記憶が乏しいのです。

日々の会話とは、言葉の解釈は常に親(毒親)側にある状態での会話でした。一方的な対話と意思決定しかない環境で育つことは、言語理解はできないものであるという前提があったように感じます。もし、言葉を理解できるようになるとしても、それは大量の言語を経験的かつ帰納的に学ぶしかないということであり、それは物心ついたときもそうでした。

私は幼少期の記憶が乏しいです。
しかし、ただなんとなく「嫌だった」とかのニュアンスの記憶だけは今も残っています。

例えば、

①いつも大人の話している言葉がわからない、伝わらないという感じを常に受けていたという記憶。

②美味しい、不味いといった言葉は、自分の感じた感覚とは異なる、もしくは伝える相手によって言葉の意味は変わると感じていた記憶。

③自分が嫌だといったことは、「嫌じゃない」という状態になるまで、言葉を浴びせられるという記憶。

④言葉は、自分自身の気持ちを表してもなんの効力もなく、相手(親)の望みを叶えるためのものであるという記憶。

⑤自分がとても嫌であると感じていることを伝えるには、身体的な不具合、例えば喘息や皮膚の掻き毟りといった、身体的な疾患が現れることでのみ、他者(親)は、私の不満を感じ取ることができるという記憶。

これらに共通することは、私の発する言葉にはなんの効力もなく、相手の言葉を懸命に理解しようとしても、相手次第でその言葉の意味は変わるということです。

思い出すと、私は他人の表情でしか、相手の言いたいことは読み解けない。いや、その感情すら読み解けない存在が「他人」というものだと、いつも思っていました。


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親(毒親)は、なにかしてもらいたいというような直接的な言葉を私に対してほとんど使いませんでした。

例えば、食器を洗い片付けることを私に求めるときに発する言葉は、

「私は飯炊きババァだ」
「働いて帰ってきても私は小間使いだ」
「誰も手伝ってくれない」
「アンタは食べるだけでいい身分だ」

そのような言葉を掛けられたことしか、私の記憶にはないのです。

その経験が毎日続くことで、毒親の吐くその言葉を聞く前に、見えないオーラのような危機を察知する能力が、いつの間にか私の身に付いていました。


親が車で帰ってきたときのエンジン音から、その日の苛立ちを感じ取ることができました。親が玄関から入ってくる前に、私は慌てて遊んでいた散らかっている状態を片付け、テレビを消して、興味のない本を開くなど、どうでも良いことをしていました。(親は私がテレビを見ていることが異常に嫌いだったので、テレビを見ている姿が目に止まったときの怒りの表情が凄まじかった記憶しかありません。)

ようするに、大人の口から出る言葉の意味など、私にとっては何の意味も持っていなかったのです。その人の表情のみが、私に対しての怒りの表情を止めるシグナルであり、それを理解することが私にとってのコミュニケーションでした。


小学生になると、親のパターンが見えてきて、ある種の対応策が見えてくるようになりました。しかし、親はそれを見透かしたように対応を変えてくるのです。パターンを外すことは多々、それ以上に、私が親に対してどうすればよいか「あなたが決めるのよ」といった、玉虫色の言葉をかけてくるのです。そして私が正解だと思ったほうを選択すると「本当にいいの?それで。」といった不安を与え続ける対応をするのです。


今思うと、親は、会話の内容やその理解はどうでも良かったのだと思います。ただ、『私をコントロールし、親に対して関心をもたせ続けるため、私が親に依存するしかない姿を確認したいがために、すべてを振る舞っていた』ように思います。

それこそが「毒親」そのものであったと私は思っています。


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未だに自分の中では、言葉の文法はわからないと感じています。言葉の意味さえも本当なのか、わからないのです。
対話の中で、相手の表情や態度からしか相手の意思は読み解けないものであるという経験が、大人になっても私をずっと縛り続けています。
だから、言葉を正確に理解する文法の価値と意味が、全くわからなかったのです。

日本語だろうと英語だろうと、関係ないです。理解しようとすればその人の発する身体的アプローチを大量に学習することでのみ、「相手の望む意味がわかる。」そんな風にしか、理解できなかったのです。これはAIの学習モデルである、LLMの学習法(大規模言語モデル)そのものではないか?そして、本質的には学習しても、言語に対してネガティブな印象しかないのです。

だから、英語は苦手だし、わからないし、文法的なやり取りの必要性がわからない。英会話のセッションで学んだくらいで、相手の意志がわかる会話ができるなんて微塵も思えない自分がいるのです。


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日本人は、幼少期の家庭環境や日本の社会環境からか、規定欠損が原因で愛着障害の人が多いと言われています。そのような実態から、正確な言語に対しての信頼を得られない家庭環境の中で育ってきた人は私だけではないのではないかと思っています。

高文脈文化のコミュニケーションでは、実際には言われていないことや言葉を使わない合図が大きい意味を持ちます。その日本で幼少期を毒親と過ごすということは、言語への不信感が増幅されることになりかねないのではないでしょうか。

日本人は英語が苦手だと言われますが、その理由は、「正確な言語では、他者理解を得ることができない。」という、基底欠損=「基本的信頼感の欠如」から生まれている、言語に対しての不信ではないか、と私は感じているのです。

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