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その「好き」を超えてゆけ

「好きを仕事に」とか、「仕事にするのは好きなことより得意なこと」とか、要は「好きなことを仕事にしていいのか」議論は終わりを見せることはありません。ありていに言ってしまえば、好きを仕事にしている人もいるし、好きは置いといて得意なこと、できることを仕事にしている人もいる。人それぞれです。

ていうといきなり話が終わっちゃうんですが。

いま、曲がりなりにも「好き」を仕事にできている私が漠然と考えることを書いてみようと思います。

「鉄ヲタはJRに就職できない」問題

JRに入る前、まことしやかに囁かれている話がありました。いわく、「鉄ヲタは社員になれない」。でも入ってみたら、同期には鉄道にちょ~~~~~~詳しい人、まあマニアというかヲタが普通にいました。(そして、業務知識を得ていく段階でみんなマニアになっていく。)

ですが「鉄ヲタは社員になれない」のは、ある意味正しいことではあるのです。いわく、「ファンは、ファンのままでいただいて」ということです。言い換えると、「ただ好きというだけではだめ」

例えば、とにかく秘境駅(電車以外で到達が困難な駅であり、かつ列車の本数も少ない)が好きな人がいたとします。しかし、その駅の乗降人員は1日1人以下。そうすると、会社は不採算のため駅を廃止するという決断をしなければならない。しかし秘境駅好きな人は「この駅は残したい」と主張し始めます。それはひとえに「自分がその駅を好きだから」「なくなってほしくないから」。ですが、会社全体の利益を考えると、誰も降りない駅なんて廃駅とするのが妥当でしょう。

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「好き」が大きすぎると、「会社のため」より「自分の好き」を優先してしまう。採用の時、そういう部分を見られているのだと思います。もちろん、社員だって思い入れのある駅が廃止になったりしたらそりゃ寂しいです。だからといって「廃駅にするな!」なんていい出したり、署名運動をしたりはしません。鉄ヲタの同期は、電車は好きだけど、それよりも「この会社を良くしたい」という姿勢がしっかりと見られたから、採用されたのでしょう。

ちなみに、JRには本当にいろんな人がいて、車掌をやっていて運転席に便乗(移動のため運転席に乗せてもらうこと)したときに運転士さんとしゃべっていて「俺電車嫌いなんだよね」と言われた時はたいそうびっくりしました。いわく、安定して潰れないと思ったから入っただけで、仕事になんの思い入れもない。仕事だからちゃんとやるけど。これは私にはできない割り切り方だな、と今思いだしてもなかなかすごいなと思います。

好きを仕事にするなら、客観的視点も必要

仕事を好きになれたら、すごくハッピーなことだと思います。なぜなら、起きている時の大半は仕事をしているわけで。その間「嫌だなあ」と思っていたり無になっているより、「好きだな」と思っていられるに越したことはありません。

ただ、「好きを仕事に」がうまくいくかは、前述の通りある程度自分の役割をわきまえないとうまくいかないのだろうなと思います。

編集・ライターをしていると、だいたい取材すると「うぉ~めっちゃいい!この人の話面白すぎる!」とか思ってワクワクしていることが多いのですが、その「うぉ~!」をそのまま文章にしてしまうと、ただの独りよがりなコンテンツになってしまいます。

文章に落とし込む時は、「これ初めて読む人はわからんよな」と表現をわかりやすくしたりとか、「この人はこう言ってたけど、本当かな」とデータを調べたり、喋った通りに書き出すとわけわからなくなるのでざっくりと削ったり、工事したり、と客観的な目線をガッツリ入れながら書き上げていきます。どういう人に伝えたいか、によっても工事の度合いも変わってきたりします。

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もちろん、ただ情熱がほとばしるだけの文章が求められることもあります。ただそういうのは、どっちかというとエッセイとかになるのかなあ。「好き」がほとばしりまくっている文章は読んでいて面白いけど、そこに「誰かが読むだろう」という視点があるかないかで、だいぶ変わってくるのかなと思っています。

私は好きなことを仕事にできている、と言いましたが、では「好き」とは何か?私にとっては「心が動いたものをできるだけ多くの人に伝える」ということが「好き」に当たるんだろうなと思います。「陸上」とか「旅行」とかはその各論となってくるのかなと考えています。「伝える」ことを一番に考えたら、やっぱり読みやすいほうがいいし、わかりやすい表現を使うべきだし、いい写真を撮影できたらいいし。そのための努力は怠りたくありません。

情熱はありながらも、冷静に見られる自分がいるかどうか。それが「好きを仕事にする」ことが成功するか否かにかかっているのかなあと思っています。

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